悪意:表
——勇悟君。
——早く私の元に来て。
朦朧とする意識の中、手を掴まれて引っ張り上げられる。
急激に覚醒する。
「勇悟君! やっと会えたわ!」
ボフッと柔らかい感触が胸に当たる。何事かわからず目を開くと、目の前には絶世の美女がいた。金髪を揺らし、長いまつげの碧眼が僕を見つめている。
動揺しながら下をチラリと見ると、彼女の大きいバストが僕に押しつけられて変形している。垣間見える谷間にドギマギしながら、彼女から離れようとする。
「ミ、ミネルバ様! 近い、近いです!」
しかし、彼女は腕を僕の背中に回して、僕を離そうとしない。
「勇悟君。勇悟くぅん。」
甘い声が僕の鼓膜を揺さぶる。
柔らかい感触が胸元でぐねぐねと動く。
彼女は頬を上気させ息を荒げながら、僕に顔を近づける。
「ミネルバ……様……」
ドッキンドッキンと鼓動が伝わってくる。
彼女の濡れた瞳と、しっとりとした唇が——
しかし、脳裏にディーナの笑顔がよぎった。
「ダメだっ!」
僕はミネルバ様を突き放した。ミネルバ様は二、三歩下がってから、僕を見て悲しそうに瞳を揺らす。
「どうして……? どうしてなの、勇悟君?」
彼女の切なげな表情が僕を苛むが、僕はかぶりを振る。ミネルバ様がどういうつもりかはわからないが、ディーナを悲しませるわけにはいかない。
「そう……そうなのね。」
ミネルバ様は俯いて小言で何かぶつぶつと呟いている。
その様子は鬼気迫っていて、少し恐ろしい。
ミネルバ様はバッと顔を上げて僕に笑顔を見せた。
「いいわ、ゆっくりと楽しみましょう。」
「ミネルバ様、一体どうしたんですか? それに、あの、ソフィア様は……?」
いつもはミネルバ様の肩の上にいるフクロウのソフィア様の姿が見えない。ミネルバ様の様子もどこかおかしい。
確かに、以前から『ワガママ』な性格だという印象はあったが、今のミネルバ様はワガママというよりも、どこか『自由』というか、『奔放』というか、歯止めが効いていない感じがする。ソフィア様というお目付役が不在だからだろうか。
「勇悟君。あなた、昼間にスラムに行ったでしょう?」
ミネルバ様は唐突に話題を変えた。スラムで起きた事を思いだし、僕は身を強ばらせた。あの怯えた少年の表情は、まだ強く僕の心に焼き付いていた。
「あの時、あなたが逢った男の子なんだけど……」
そういって、ミネルバ様は側にあった泉に手をかざす。泉が輝きだし、スラムの風景を映し出した。以前、地球での僕の事故を見せたように、また何かを見せてくれようとしているようだ。
そこには、あの赤髪の少年が映し出されていた。
その手には立派な装飾が施された剣を持っている。
◆
「くそっ、な、なんなんだよ!」
少年は数人の男達に囲まれている。男達の中には、今日の昼間にスラムであった二人組も含まれていた。
「早くその剣を渡せ、ガキが。」
男達は少年の剣を奪おうとしているようだ。少年は剣を抱え込むように持っている。
「嫌だ! これは俺の親父の形見なんだ!」
少年が叫ぶが、その声はスラムの闇に吸い込まれ、誰も現れない。男達は下卑た笑い声を上げる。
「ぎゃっはっは! そんな事は関係ねーんだよ!」
と、そこで、男達の背後から声が掛かる。
「そのへんにしておけ。」
現れたのは赤い鎧を身につけた男。見覚えのある顔だと思ったら、訓練場で出会った騎士、ブルーノだった。
「ほら、坊主。大丈夫か?」
意外な事にブルーノは少年を助けるようだ。男達と少年の間に入り、爽やかな笑顔を浮かべて手を差しのべ、少年を助けようとする。
しかし、少年はそんなブルーノの手を拒む。ブルーノの手を無視して、目を閉じ、ギュッと剣を抱きしめた。
「ちっ」
ブルーノが舌打ちした。その表情は先ほどの爽やかな笑顔から一変し、不機嫌なものになっている。
「へっへっへ、旦那ぁ。こいつ、剣を離す気は無いようですぜ。」
男達がブルーノに笑いかける。
「ふん……ガキが。素直に渡しておけば痛い目を見ずに済むものを。」
ブルーノがそう冷酷に言うと、少年の脇腹にローキックを入れた。
「がっ……!」
少年は息を漏らし、苦痛に顔を歪めながら地面に倒れ込む。しかし、手に持っている剣は離さない。
ブルーノは口元を歪め、嗜虐的な表情を浮かべて、再度少年に蹴りを入れる。男達も近づいてきて、同じように少年に暴行を加えていく。
少年は身体中にアザをこさえながらも、剣を離さず歯を食いしばって耐えている。声をあげず、助けを求めず、じっと耐えている。
たが、ついに少年は力尽き、気絶したようだ。力が抜けて、剣を離してしまう。
ブルーノは忌々しそうに最後に蹴りを入れてから、少年が持っていた装飾剣を拾い上げる。煌びやかな鞘から刀身を抜き、頭上に掲げる。
「ああ……いいぜ、これこそ俺の武器に相応しいな。」
うっとりした表情で刀身を堪能してから、鞘に収めた。
ブルーノは機嫌よさげに、剣を腰にぶら下げてから、その場を離れていく。男達もブルーノの後ろについていった。
後には、ボロボロになった少年だけが残された。
◆
なんだこれは。
僕は映像を見ながら言葉を失っていた。
ぼろくずのように地面に倒れている少年を見ていた。
彼は、僕に似ている。
大勢による理不尽な暴力に晒され、しかし助けを求めずに耐えようとする。
誰も信じられず、何かを護るために、自分を犠牲にしてしまう。
それは、昔の僕の姿だった。
心の中に、暗い気持ちが芽生える。
ブルーノに対する、殺意がわき上がる。
「うふふ、いい表情ね、勇悟君。」
ミネルバが何か言っているが、耳に入ってこない。
ふざけるな。
こんな事は許されてはいけない。
「復讐、したいの?」
——復讐?
しかし、ブルーノは別に僕に何かしたわけじゃない。
僕は少年と何の関係もない。
僕の中の理性が、僕の中の殺意を否定する。
ダメだ。
これじゃあ単なる八つ当たりだ。
彼は、僕ではない。
「我慢しなくても、いいじゃない。」
甘い声が聞こえる。
「あの子のために、代わりに復讐してあげればいいのよ。」
囁きが僕の脳幹を揺さぶる。
「あなたには、その力があるのよ。」
僕の背中に誰かの体重がのしかかり、僕を包み込む。
「主人公なんだから、自由に、思い通りにすればいいの。」
熱い吐息が耳に掛かる。
「さあ……解き放って……」
僕の中にある黒い感情が大きくなる。
僕が抑圧してきたものが、激しく膨れあがっている。
護るために、自分を殺してきた。
誰かを護るという事は、誰かを主として、自分を副とする事。
僕は気づかない内に、自分の感情を犠牲にしていた。
自分が傷ついても、自分が排斥されても。
誰かの盾となって護れるなら、それで良いと思っていた。
僕は、我慢していたのだ。
「あ……ああ……」
今まで目を背けていた感情が、ゆっくりと水面に顔を出すように。
それは、復讐心。
それは、敵愾心。
それは、反抗心。
それは、猜疑心。
それは、自尊心。
それは、闘争心。
殺意、憎悪、敵意、不平、不満、呪詛、怨恨。
様々な負の感情が心の中で渦を描く。
その流れは気持ちよく、身を任せたくなる安心感があった。
ドクッ…… ドクッ……
全身に力が流れ込んでくる。
黒い力が、僕の全身に染み渡る。
なんで、僕ばかりがこんな目に遭わなければならない。
なんで、あいつらはのうのうと生きている。
なんで、僕が我慢しなくてはならない。
僕は、その黒い力に身を任せようとした。
その時。
(ダメです! ユーゴさん!)
僕の一部を占める何かが、僕に呼びかけてくる。
(目を覚ましてくださいっ! ユーゴさん!!)
その声は、暗い水に沈みかけていた僕を浮上させる。
僕の中に浸透しつつあった黒い力が、急速に霧散していくのがわかった。
「はぁっ! ……はぁ、はぁ……」
息を荒げて膝をついた僕を、ミネルバは無表情で見下ろしていた。
「なに、を……」
「残念だわ、勇悟君。」
ミネルバは何の感情も込めない冷たい声を発している。
「聞きなさい。あの、ディーナとエルサという子達——」
二人の名前がミネルバの口から出た。
「二人が勇悟君から離れない限り、二人の命は——無いわ。」
「……え?」
「言葉通りの意味よ。あの二人が勇悟君の側にいる限り、二人には常に命の危険がつきまとう。あなたが護ろうとも関係ない。二人は、死ぬ。」
「な、な、なん、で……」
「あなたが悪いのよ。あなたが、私を受け入れないから。」
「い、嫌だ……」
「あきらめて頂戴。これはもう決まった事なのよ。」
「どう、して……」
「早めに二人と別れなさい。——あなたが二人を護りたいなら。」
そう言って、ミネルバは嗤った。
◆
目が覚めると、ディーナが涙を流して僕に縋り付いていた。
エルサも、無表情で心配そうな顔をして僕のベッドの側に立っている。
僕はディーナを安心させるために、彼女の頭を撫でる。
緑色の髪。さわり心地の良いふわふわとした感触。
彼女はゆっくりと頭を上げて、僕の顔を見る。
「ユーゴ、さん……あなたは、ユーゴさん、ですよね?」
不安げに瞳を揺らしている。
僕は一体どんな顔をしているんだろう。
「ああ、そうだよ。僕はユーゴ。ユーゴ=ニキだ。」
僕ははっきりと答える。
しかし、内心はそれどころではなかった。
優しくて、真面目で、しっかりしているけど、実は甘えん坊で、ちょっぴり大食いで、柔らかくて、抱き心地がよくて、アニマで、僕の大事な人、ディーナ。
無表情で、無口で、無愛想だけど、実は慌てん坊で、恐がりで、甘い物が好きで、かわいいものが好きで、僕のとなりにいたいと言ってくれた人、エルサ。
二人は心配そうに僕を覗き込んでいる。
ミネルバが言った事を、信じたくはなかった。
二人から離れたくない。
二人を護ると決めた。
でも、二人を護るために、二人から離れなくてはならない。
心が悲鳴をあげる。
いやだ。
脳裏に、地面に横たわる少年の姿がよぎる。
ディーナが、エルサが、地面に横たわるのを想像した。
僕は、僕は、僕は、一体、どうすれば……。
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