プロローグ:表
その日、僕、仁木勇悟はいつもと同じように通い慣れた通学路を歩いていた。
朝日が容赦なく眼を刺し、思わず顔をしかめつつも、僕の隣を歩く少女にこっそりと目を向ける。
東識音。同じように朝日を浴びる彼女の美しい黒髪は艶やかに輝き、それに負けない美貌は周囲の視線を集めている。
つい先日まで親の都合で遠く離れた土地にいた、幼なじみだ。小学校に入る前からの家族ぐるみの付き合いだったが、実に3年ぶりの邂逅は、僕にとっては嬉しいものではなかった。
「——でね、向こうでは友達も結構できて……勇悟、聞いてる?」
こちらを振り向いた。僕は慌てて目を逸らす。
「あ、ああ、聞いてるよ。」
くりくりとしたドングリ眼を瞬かせて、僕の顔を覗き込む彼女。少し、頬が熱をもつ。
「し、識音。近いよ。」
思わずうわずった声を漏らす僕の様子に、彼女はクスクスと笑みを浮かべる。昔の識音と何一つ変わらない魅力的な笑顔に、昔を思い出す。
途端に心が冷え込んだ。
「識音。僕には近づかないでほしいんだ。……ごめんね。」
打って変わって冷たい声が出てしまう。識音は、笑顔を崩して悲しそうな表情を浮かべる。
「昨日も言ったけど、私は勇悟から離れるつもりはないよ。」
◆
昨日、夏休みが明けて久々の登校日。
教室で、いつも通り机の落書きを雑巾で消してから、僕は無言で席に着く。周囲のニヤニヤとした視線を受けつつ、一限目の予習のため教科書を出す。
予鈴が鳴って、先生がやってきた。
教壇に立つ先生の隣に、見慣れない生徒が立っている。生徒達はざわめきを抑えない。
「ゴホン。あー、この半端な時期だが、転校生だ。東、自己紹介しろ。」
「はい。えーと、東識音です。小学生までこっちにいたんだけど、親の都合で離れてて、3年振りに戻ってきました。皆、よろしくね!」
識音の花のような笑顔に、周囲の男子生徒は言葉を奪われたようだ。女子達が拍手しはじめると、慌てて拍手で追従する。
「じゃあ、えーと、仁木の隣の席だ。あそこだな。」
先生が僕の隣の席を指さす。識音は空席に目をむけ、次に僕と目が合う。
「あっ! ゆ、勇悟!」
識音の驚嘆の声に、周囲は先ほどとは異なるどよめき、そして敵意と嫉妬のこもった視線を僕に向ける。
僕は短くため息をつき、識音の嬉しそうな顔を直視する事はできなかった。
◆
「ねえねえ、識音ちゃんってどこに住んでたの?」
「識音ちゃん、放課後いっしょに遊びにいこうよ!」
休み時間になり、女子達の姦しい声に囲まれる識音を横目に、僕は机に突っ伏す。識音は楽しそうに質問に答えつつ、そわそわとこちらをチラ見してくる。
そんな様子が気にくわなかったのか、僕の元に男子達が集まってくる。
「おい、仁木。てめえ、東さんとどういう関係なんだよ」
「ちょっとこっち来いよ」
そう言いながら、僕の腕を無理矢理引っ張り立ち上がらせ、教室の反対側に連れて行く。僕は逆らわずに俯きながらついて行く。
「別に、関係なんてないよ。識音とは家が近所だっただけで——」
僕がそう言いかけると、一人の男子が僕の腹にボディーブローをいれる。
「なに呼び捨てにしてんだよ!」
「生意気なんだよ! 仁木のくせに!」
くの字にしゃがみ込んでうめき声を漏らしてしまった僕に、追い打ちを掛けるように蹴りが入る。僕は、何も言わずに歯を食い締めて痛みに耐える。
「やめて!!」
突然、ガタッという音と識音の叫び声が教室に響く。
識音が僕たちの元に慌ててやって来て、僕に声を掛ける。
「勇悟! 勇悟! 大丈夫!?」
やめてくれ。
「どうしてこんなひどい事するの!?」
放っておいてくれ。
「先生を呼びに——」
そう言いかけて立ち上がる識音の腕を掴む。
「大丈夫。大丈夫だから。いいんだ。僕は大丈夫だから……。」
そう言ってふらふらと覚束ない足取りで自分の席に戻る僕。静まった教室の中、周囲の視線を集めながら、僕は誰とも目を合わせなかった。
◆
その後、予定調和のように。識音にかばわれた事から、識音の目から隠れて一層と激しい暴力に晒された。
放課後になった途端、ボロボロになった僕は鈍く痛む腹を押さえながら無言で教室を飛びだした。
下駄箱で急いで靴を履き替え、通学路を足早に歩いていく。そんな僕の腕を誰かがつかみ取った。
「はぁっ、はぁっ……勇悟、どういう事なの? 説明してよ!」
振り返ると、恐らく駆けてきたのであろう識音が、息も絶え絶えにそう言った。
識音の悲痛な表情が僕の罪悪感をチクリと苛む。思わず正直に答えてしまう。
「ごめん。……これは、僕への罰なんだ。」
そう言って、識音の手を振りほどき、目を背ける。
「罰……? 勇悟、まだあの時の事を……?」
「識音、僕の事は放っておいてほしい。」
「放っておけないよ!」
「識音……?」
識音がかぶりを振って、僕の手を取る。僕は困惑しつつ、彼女と目を合わせる。
「勇悟、あれは勇悟だけのせいじゃないよ。あのクラスにいた皆に責任があるんだよ。」
「それでも! 僕は見捨てちゃいけなかった! 護らなくちゃいけなかったんだ!!」
思わず大きい声を出してしまい、周囲から好奇の目が集まる。いたたまれなくなった僕は、狼狽しながら識音の手を外そうとするが、左手では上手くいかない。
腕を振るって、識音の手を振り払った。背中を向けて走り出す。
「勇悟! 勇悟!!」
背中に識音の声を受けながら——
——僕は、逃げ出した。
◆
次の日の朝、識音は昔と変わらない笑顔で、僕の家の前で待ち受けており、嫌がる僕の側を離れなかった。
そして冒頭の場面に戻る。
「昨日も言ったけど、私は勇悟から離れるつもりはないよ。」
識音は僕の目をまっすぐ見つめながら、そう言った。言い返そうとした僕は、言葉を詰まらせる。
僕と識音は登校路の半ば、横断歩道で信号待ちをしている。
朝の雑踏は、そんな僕達の会話を紛らわせ、周囲の人々から遠ざけてくれる。
「勇悟、どうして? どうして、そんなに自分を責めるの?」
若干潤んだ瞳が、僕を捉えて離さない。
「それは——」
答えるべきか否か。逡巡した僕の耳に突如として甲高いブレーキ音が届く。
刹那——。
巨大な4トントラックが、僕たち目がけて迫っていた。
凍り付く思考。
このままでは、僕の隣にいる識音も巻き込まれる。
僕は、彼女を護らなくちゃいけない。
護らなくちゃ。
マモラナクチャ。
瞬間、識音を突き飛ばす。
鳴り響くクラクション。
悲鳴。
僕は——。
そして、僕の意識は空白に支配された。
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