夢を語る髑髏
季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼。曰敢問死。曰未知生、焉知死。
季路鬼神に事へんことを問ふ。子曰く、未だ人に事へること能わず、焉んぞ能く鬼に事へんや。曰く敢へて問ふ。曰く未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや。 ――『論語』
深く息を吸い込む。土埃の匂いに些かむせた。空気はざらりと乾いている。砂を多分に含んでいるのだ。トーマは喉を軽くさすった。生命線だ。痛める訳にはいかない。
「途中まで南国風だったってのに……。だから西方の山岳地帯は嫌なんだ」
麓で聞いた言語を用いてひとりごち、山頂に向かって歩き出した。意気が上がらず足取りは重い。靴が埃を被って白く汚れていた。緑も多く傾斜のなだらかな中腹までは楽に登って来られた。問題はその先だ。どういう訳か赤い岩の剥き出しになった道が続いている。極西の山岳地帯にも似た風景だ。まるで山頂だけを誰かが入れ替えてしまったかのようだ。原因は地元の人間も知らないという。そもそも、人の良い農夫たちは山の不格好な頂に関心がない。彼らは麓の村で種を蒔き、それを育むことにしか興味を持っていない。持つ余地もない。だからトーマの聞いた話も与太である可能性が高い。
「面倒をわざわざ捕まえに行くのは阿呆のすること、か……」
話をしてくれた赤ら顔の農夫の言葉を思い出す。彼の顔には、自分たちの言葉を流暢に操る「変わり者の余所者」を心配する色が浮かんでいた。
「確かに俺は阿呆だ……。だが、やらない訳にもいかねー。面倒を捕まえるのが俺の仕事だ」
二、三の言語を混ぜて呻く。気分を上げるために言ったにも関わらず、自分でも何を言っているのか分からなくなる。喉に違和感を覚え、トーマは軽く咳払いした。拭った唇が酷く乾いていた。思った以上に空気が悪いようだ。無駄口を叩かず早々に山頂まで行くのが良いだろう。歩調を上げる。靴が埃に白く汚れるのは無視して歩き続ける。
息が切れる前には山頂に到達した。大小の赤岩が転がる、随分と開けた場所だ。空気は多分に土を含んでいるが、麓の村がよく見える。遠目でも畑の緑が美しい。太陽は正中を少し越えたところだ。袖で適当に額を拭った。埃が肌に張り付いた気がした。気温は決して高くはない。風にはまだ冬の冷たさが残っている。途中で野盗などに遭遇することもなかった。空気が悪いことと植物がほぼ存在しないことを除けば、人が住むには悪くはない環境だ。
「いや、水がないか」
『白の言語』でトーマは呟いた。水のない場所で生き物が生きていくことは出来ない。山が捨て置かれているのも無理なからぬことだ。トーマは首をぐるりと巡らせた。目当ての「者」は、果たしているだろうか。
「誰かいるか」
麓の言語で呼ばう。柔らかな響きだった。「誰かいるか。話をしたい」視界にあるのは岩ばかりだ。自分以外の生き物が存在する気配はない。手頃な岩に腰掛ける。どっと疲労が押し寄せる。無駄を覚悟で来たとはいえ、期待が皆無だった訳ではないのだ。「ほら、大人しく『本職』に戻れ」と嘲るように笑う男の姿が脳裏を過ぎる。腹立たしかった。
「やっぱり与太話か」
「誰かいるのかい?」
足許から声がした。高い、男の声だ。「おい、俺以外の誰かがこの場所にいるってのかい?」
声には奇妙な音が混ざっている。硬いものを細かく打ち合わせるような、奇妙な音色だ。歯の根が合わぬ音に似ている。
「あなたは誰だ? どこにいる? 山頂だな?」地面に素早く視線を滑らせながらトーマは問うた。
「おう、山頂だよ。それにしてもお前さん、酷い田舎者だね。訛りがきつい」
麓の村の西方にある、王都の言葉遣いだ。歯の根が合わぬ男は、小馬鹿にしたように言った。陽気な声音に、露骨な嘲りの色がある。
「だからどこにいるんだよ」苛立たしくトーマは言った。男と同じ、王都風の発音だ。今初めて耳にしたが、使いこなすなど訳もないことだ。いかなる言語であれ、それを馬鹿にする行為がトーマは何よりも嫌いだ。
「お貴族様だか軍人様だか知らねーけど、あんたどこにいるんだ。俺からは見えない」
前半のみ『白の言語』で毒づいた。意味はともかく罵倒の気配は伝わった筈だが、男は意に介さない。「俺からも兄さんの姿は見えないねぇ。ちょっと岩の陰を探してみておくれよ」
王都風の歯切れの良い発音だが、男の言葉は砕けている。王都の下町の出身か、とトーマはあたりをつけた。「あんたは探さないのか?」
「探したいのは山々だがね、どうにも身体が動かない」
「怪我をしているのか?」トーマは切羽詰って訊いた。村人すら来ないような場所で、この男はずっと助けを待っていたのか。だとしたら事だ。
「分からない。痛みはないけど、身体が言うことを聞かないんだ」
岩から腰を上げ、岩陰をひとつひとつ覗き込む。誰も居はしない。「どこに……」
大きな岩の裏側を覗き込んだトーマは男――と思しき「もの」――を発見し、口を噤んだ。
いた、というよりも、「それ」が「あった」と表現すべきだろう。岩陰に、人間の頭蓋骨がひとつ、無造作に転がっていた。
「おお、兄さん、悪いが起こしてくれないか」
かたかたと歯を打ち合わせながら、髑髏が言った。トーマは後ずさりした。無意識の怯みに気付き、思わず呻いた。それなりに不思議な事象に遭遇してきたという自負があるが、こんな「もの」にお目にかかるのは初めてだった。「まさかマジだったとはな……!」
麓の村に伝わる説話だ。荒れた山頂に、人の言葉を操る化け物がいると。その化け物はある者によれば死んだ牛であり、また別の者によれば太古の王の亡霊だという。トーマを一晩泊めてくれた農夫の話では、怪物は「しゃれこうべ」だった。農夫の太った妻は夫の言葉を酒の入った与太だと切り捨てていた。「大当たりだぜ、とっつぁん」昨晩の酒の味を舌に思い出しながら、麓の村の素朴な言葉でトーマは呟いた。
「おい、ごちゃごちゃ言ってないで起こしてくれ」
髑髏は苛立ったように言った。言葉が零れるたびに頭蓋全体が細かく震える。
「起こすったって、あんたなぁ」
「自分じゃ動けないんだよ。仕方ないだろう? 俺はあんたの汚い靴しか見えないよ」
調子の一切崩れない髑髏に、トーマは溜息を吐いた。頭頂部を掴み、適当な高さの岩の上に載せた。隣の平たい岩に腰掛けると、丁度髑髏から見下ろされる形になった。虚ろな眼窩がトーマを検分しているようだった。
「ほう、兄さん洒落てるねえ。ちっと奇抜な感じだが。男前も悪くないし、農夫には見えない」
「……どうも」水の入った布袋を開きながら、トーマは辛うじて言った。動揺を相手に気取られないようにするの精一杯だった。乾いた喉を潤す。「俺は確かに農夫じゃないよ」
「じゃあ何だい? 旅芸人か? それとも役者か?」髑髏は露骨な関心を滲ませ訊く。含み笑うかのような声音だ。
「……旅人かな。学者でもあるのかも知れないけど。名前はトーマだ」
「姓は? 出身は? 服や髪色も含めて、どうもここらの出って感じがしない」
「確かにこの周辺の生まれじゃあない。服は普通だがな。姓も出身も、言っても伝わらないと思うから言わないことにしているんだ。あんたは何者だ?」
「出身はともかく、姓が伝わらないってのはどういうことだ?」髑髏はトーマの問いを無視する。トーマは布袋の口を閉めながら短く言った。「多分聞き取れない。だから言わない」
「そう冷たいこと言うなよ。音を感じるくらいは出来るぜ。これでも音楽を少しは齧った経験があるんだ」
食い下がられ、トーマは渋々姓を名乗った。髑髏はかたかたと歯を鳴らした。「なるほど聞き取れないどころか、どんな音かすら分からない。故郷の言葉かい?」
「そう、故郷の言葉だ。さっきも独り言で遣ってた。……あんたは何者だ?」
「ん、俺かい?」
嬉しそうに髑髏は言った。骨に表情などある筈はないのに、その顔面は酷く得意げに見えた。「余はエゾーディオ王国第六代国王ドゥイリオが弟、バール公チェルソである」
「は……?」
「元、だがね」トーマはぽかんと口を開いた。手から布袋が滑り落ちそうになる。
「疑うのは分かるよ、兄さん。王都から離れた辺鄙な場所に、やんごとなき身分の人が倒れているなんて、にわかには信じられないよなァ」
からからと、王族を名乗る髑髏は笑った。薄汚れた、何の変哲もない髑髏だ。高貴さなど、微塵もない。
「だって、六代国王って、あんた」
「そうさ、兄上は名君さ。俺はみそっかす、政治の表舞台には立たないで良い存在だよ。でもここにいるんだから人生ってやつぁ分からない」
髑髏はトーマの言葉を遮り、下町言葉で陽気に言った。額を押さえ、トーマは呻いた。
「空前絶後の体験だ。色々見てきたつもりだけど、甘かったな。こんなものが実在するんだから、この歪んだ世界ってのはほんとに奇々怪々だ」
「あんたのお国言葉は分からないよ。奇妙なものを遣うのは止めてくれ」
髑髏の言葉ではっと我に返る。無意識に『白の言語』が出ていたらしい。あまり良い傾向ではない。「済まない」と、短くエゾーディオ語で謝った。
「あんたは、自分の状態が分かっているのか? つまりその」
「ん? 魔術を使われたらしくてね、身体が動かない。だからここに転がっているしか出来なかった訳だがね。荒野に吹きさらしのまま、見えない壁に幽閉されているも同然さ」
どうやらこの髑髏は、自分がしゃれこうべひとつになっていることを理解していない。生きた肉体が存在すると思っているらしい。おかしいだろう、とトーマは再び呻いた。
「あんた、いつから――エゾーディオ歴何年からここにいるんだ」
「そういえばあんた、言葉遣いがなってないなぁ……」髑髏は剣呑に言った。存在しない目が眇められた気がした。気の触れたうるさい骨に敬意を払う趣味はない、という言葉をトーマは辛うじて飲み込んだ。この髑髏に荒い言葉を遣ったところで、政治的糾弾を受けるとも思えない。その懸念がない場合には、トーマは敬語を遣わない。政治的要素を取り払った場合、人間はどこまでも対等だろう(師にそれを傲慢だと叱られたことはあるが、改める気はなかった)。母語である『白の言語』に敬語の概念が存在しないことも原因だ。それでも普段は礼をもって人に接しているつもりだが、今は敬意を払う気すら起きない。この骨を、俺は人間的に好きになれるだろうか、とふと思った。
「申し訳ありません、殿下。何分田舎育ちなもので」
しかしトーマは慇懃に言った。途端に髑髏は声を上げて笑った。快男児らしい声だった。「失敬、失敬。からかっただけさ、構わないよ。あんたには砕けた口調を許そう。俺には何の権力もない訳だしね。偉いのは亡き父上と兄上さ」
「あんたも十分偉いと思うが。バール公だったんだろう?」バールは王都の南西に広がる、国内で最も豊かな地域だ。土地が肥沃で、地形は天然の要害となっている。そこが領地であったということは、第二王子だったのであろう。
「いきなりそこまで砕けるかい。俺よりあんたの方が偉そうだなァ」骨は茶化すように言った。「確かに俺はバール公だった。あんた、行ったことあるかい?」
「いや……。行こうかと思ったが出来なかった」街には大きな門が等間隔で配備されていた。高い壁に阻まれ、街の様子は分からなかった。中を見ようにも、駐屯兵は余所者のトーマを入れることを肯じなかった。
「もったいないことをするね。美しい街だよ。低い軒を連ねる街も良いが、街の外に広がる山並みがまた素晴らしくてね。俺の誇りさ。でも、その土地だって所詮は兄上のものだ。俺のじゃない」
トーマは返答せずに考え込んだ。髑髏の言葉を頭の中で反芻する。この野郎、骨董品じゃねえか、と混乱しながら思う。嘘を語る髑髏であるという可能性はこの際考慮しない。言葉の真偽など今はどうでも良い。
「おい、兄さん、トーマ君よ。黙らないでくれよ。久々の会話なんだ、もっと話したいし聞きたい」
「……とりあえず俺が聞き手をするから、あんたが話してくれ」
「俺はあんたの故郷の話とか聞いてみたいんだがね。ここに来た理由とか」
「それは後だ」腕を組み、聞く姿勢をとる。トーマは聞くためにここに来たのだ。髑髏は盛大に溜息を吐いた。声帯も肺もないのに、どうやって発声しているのだろうか、と今更ながら疑問に思った。
「あんたが話してくれたら、何でも話すよ」
「何でも、ってほど、あんたは何かを知っているのかい?」
「ああ、同じ年頃の他の人間よりはいくらかましなつもりだ」そうは言ってもトーマもまだ駆け出しの若僧である。故郷の人間が聞いたら臍で茶を沸かすであろう。「だから、あんたの話をしてくれよ」
「……何から話そうか。話せることなどそうないのだが」髑髏は思案するように呟いた。下町風味が引っ込み、いかにも育ちの良い言葉遣いになる。
「あんたがここに来ることになった経緯を話してくれないか。俺はこの国の歴史を知らないんだ」トーマはゆっくりと言った。髑髏が頷くように微かに揺れた。
「歴史、ね。学校の子どもはこのちっぽけな政変を学校で習うだろうかね? 俺は忘れられるだけの存在さ。素行不良のどら王子が消えたことなど、王国の歴史にとってどうでも良いことだ。俺の親しんだ下町の子どもは、きっと俺の登場する『歴史』は知らないだろう」
王族を名乗る骨はそっと溜息を吐いた。「忘れられてしまうのは、嫌だな」
「俺が記憶している」トーマはぼそりと言った。それがトーマの役目のひとつだ。忘れ去られる記憶を探し出し覚えていることが、彼が旅をする理由だ。
「ありがとうよ。……しんみりしても、俺がここにぶち込まれちまったことは変わらねぇ。さて、どこから話そうかね」陽気な下町言葉に戻り、髑髏は言った。
「ええ、俺はご覧の通り、まあ駄目な奴でね。おつむの出来が悪い。おまけに素行不良だ。父上たちにも早めに匙を投げられた。出来物の兄上がいたから不肖の次男坊などどうでも良かったんだろう。伸び伸びと生きていた訳さ。王都の下町でふらついて子どもや女と遊んだりね」
「だから下町口調なのか」トーマは小さく呟いた。独り言のつもりだったが、髑髏はそれを拾い上げた。
「そうさね。威厳ある王侯貴族の言葉は俺には合わない。責任も自尊心もない人間に、あの言葉は重すぎる。あんたは下町風の言葉遣いも宮廷式の言葉遣いも上手だねえ。さっきの方言も違和感がなかった。この国の言葉の遣い方は結構難しいと思うんだが、誰かに習ったのかい?」
「いや、独学だ。それしか特技がないんだ。……話を続けてくれ」
「ええ、どこまで話したっけね。まあ俺は適当に生きていたけど、それを誰かに咎められることはなかった。商人の息子なら若隠居して兄の店の金で悠々自適だったんだろうが、腐っても王族だったことを思い出した輩がいてね」
「担ぎ上げられた」トーマは口を挟んだ。
「そう。俺を舞台に立たせようと思う演出家がいた。大根役者をきらきらに飾り立てて英雄の役に仕立てようって不届きものがね」
これは随分気取った言い回しだと、トーマは思った。役者がきらびやかなのは宮廷演劇だけだった筈だ。素朴だった民間の劇が華やいだものになったのは、ごく最近だと聞いた。下町風だと嘯きつつ、やはり根本は王侯貴族なのであろう。
「何があったのかなんて、俺の鈍い頭じゃ分からないよ。おだてられて少し気持ちが良くなったことだけは覚えている。なるほど俺こそこの国の王か、とね。でも俺たちの――馬鹿の演出家と大根役者の企みは露見した。『企み』がばれただけで、何かをする前だったんだがね。しかし折悪いことに、父王が逝去した。病は前々からあられたものの、亡くなるなど誰も考えていなかった。まあ兄上一派がこれを利用しようと思うのは自然なことさ。兄上は抜け目ない。馬鹿の弟が何も分からず舞台に立っているのを、せめて花を持たせて退場させようとしたんだ。思えばあれが俺の一世一代の晴れ舞台だった。とちったがね」
髑髏は肩があるなら竦めていただろう。まるで他人の失敗譚を話すかのように、その口調は淡々としている。
「憲兵に引き立てられた俺に、兄上は問うたよ。『お前は父王を弑したのか?』と。俺は応えた。『いいえ』兄上は溜息を吐いた。『しかしお前は企てた。自らが次の王たらんと、この私を害そうとした』『そうですね』と、俺は応えたよ。兄上は嘆いた。『罪深い弟だ! お前は兄殺し、父殺しだ。そんなことが赦されることがあろうか!』俺はとりあえず首を横に振った。俺はしばらく王城に監禁された後、この荒野に投げ出された。魔術師が魔法をかけたのかね、俺の身体は動かなくなった。ただ荒野で一人つまらぬ人生を振り返る時間だけが与えられた。もう何日も経ったが、初日のうちに思い返す思い出は尽きた」
髑髏は口を噤んだ。埃に塗れた歯が動くのを止める。
「父殺しで兄殺しの王子は、荒野に打ち捨てられた。それが彼の罪で、罰なれば」物語を詠うように、トーマは言った。
「どこの言葉だい?」
「遠い国の、故郷を持たない吟遊詩人たちの言葉さ。あんたの語りは、彼らの調子に似ていたよ」
「そうかい。嬉しいね。俺は酒場に屯する吟遊詩人の語りが好きだった。宮廷詩人よりずっとね。彼らは俺の知らない世界を知っていた。俺も吟遊詩人になりたかった」髑髏は自嘲するように言った。「あんたの――旅人の語りは、どんな意味だい?」
「父を殺し兄を殺した王子は、その罪の罰として荒野に捨てられた、と」
「どちらも殺しちゃいないがな。悪くないが、ひとつ大事な文句が抜けている。俺の身体は荒野にあって動かない」
「身体は、動かない」トーマはゆっくりと反芻した。
「そう。さっきもあんたに起こしてもらっただろう? 指ひとつ動かせないんだ」
トーマは些か逡巡した。しばしの思考の後、ゆっくりと言った。
「訊いて良いのか分からないが」
「訊いて良いのか分からないことを問うなら、先に俺にもあんたの話を聞かせてくれよ」
トーマの前置きを髑髏は遮った。「あんたはどこから来た? 何故ここに来た? どこに行こうとしている?」
トーマは空を仰いだ。乾いた青が広がっている。由来・理由・目的地、と『白の言語』でぼんやりと考えた。
「……俺は、そう、『白の島』からやって来た。地図にはない、小さな島だ。俺はこの歪んだ世界を巡って、たくさんの言葉と不思議な出来事を見て回っている。その一環で、ここに来た。次の行き先はまだ決まっていない。どこかで野盗に殺されるかも知れないし、この世界の神秘を解明するかも知れない」
「歪んだ世界……」
「そう、歪んだ世界だ。この世界はどこか歪んでいる。誰かがどこかで無理やり帳尻合わせして、それでようやく辛うじて存在しているかのように。俺たちはそう感じている」
トーマは口を噤んだ。乾いた風が頬を打ち吹き抜けていく。見えない刃物で切られるような、痛々しい風だった。「あんたも、世界の歪みを体現している、神秘の存在だ」
「俺が? 確かに俺はこんな辺境に一人幽閉されているが、そんな大層なもんじゃない」
「大層なもんだよ」
トーマは短く言い、髑髏を持ち上げた。骨は些か風化しているように見えた。「おい」髑髏の咎める声音は無視して、トーマはその後頭部を撫でた。汚れが落ち、その下に文字が現れる。
「……反逆罪、ドゥイリオ王1年、エゾーディオ歴273年、王都エゾーディオ、チェルソ、姓剥奪、元の名をチェルソ・ドゥオーロ『ディ・バール』エゾーディオ……」
この国には、死者の頭蓋に銘を刻む習慣があると、麓の村の老爺は語った。ここ数世代で急速に廃れつつある風習であるとも。通常は没年と出身、名前だけだ。「罪人」のバール公には、その罪名も刻まれている。
「今はエゾーディオ歴413年だ。第十二代国王アマートの治世の16年目になる。現在バール公領は廃止されて、軍が駐在する軍事都市になっている。戦争中なんだよ」現在バール地方は、隣国との戦争のための要塞であり、王の直接統治下にある。肥沃な土地は全て壁に覆われ、外部からは隠されている。髑髏はその領主だったという。つまりこの髑髏のがらんどうの頭の中では、六代国王の治世の時点で認識が止まっている。
髑髏の、ある筈もない呼吸が荒くなった気がした。トーマはそれを無視して続けた。「この国には、罪人は姓を奪われる習慣があるのだったか。それは今も続いているようだよ。敵兵の死骸にもご丁寧に文字を刻んでいるそうだ。俺が見た訳じゃないがね。あんたは自分で言った通り、罪人だ。姓はない。古き良き名ディ・バール――バール公の名も奪われている。あんたはただのチェルソだ。分かってはいたが、嘘は吐かないでほしいな……口を持つ死人よ」
トーマは再び髑髏を岩の上に置いた。がらりと虚しい音がした。
「俺は」髑髏は呻いた。本当にこの骨から人の声がしているのだろうか、とトーマは思った。「俺は、夢を見ているのだと思った。目が覚めたら俺はきっと寒村の農夫か何かで、ひもじい飯に文句を言ってばかりの存在なんだと」
トーマは黙って頷いた。
「あんたと話すまでの瞬間は、まるで走馬灯だった。俺の肉体が消え失せて百年以上が経つだって? 馬鹿な、こんなに無為に、こんなに早く時の過ぎるものか。生きる意味も死ぬ意味もない王侯だったなんて夢さ。田畑に種蒔く農夫の夢さ」
髑髏は――かつてのバール公チェルソは、一人荒野にあって自分の運命を否定し続けてきた。野辺に打ち捨てられた死骸が腐り消えても、現実感のない生を否定していた。だから骨に心が残っていた。「世界の歪みだ。思いの力が、現実を超える」トーマは『白の言語』で低く呟いた。
「ああ、俺は、俺の命は」
髑髏は口走る。かたかたと古びた歯の根が鳴っている。あんたは、とトーマはエゾーディオ語で言った。
「あんたは、しゃれこうべひとつの今が一番、生について考え執着しているんだな」
死してすら分からなかった命の価値を、今この男は知った。無為に過ごした日々の儚さを、骨だけの今嘆いている。それを滑稽であると笑う資格はトーマにはない。
「どうする? 王都まであんたを届けてやろうか? それとも麓の村の墓地に埋めてもらうか。今なら墓穴も多いだろうから、どこかでそっと眠れる筈だ」
髑髏は応えない。「おい、チェルソさんよ」
トーマはそっと溜息を吐いた。髑髏は死んだようだった。彼はようやく夢のような生を終えた。トーマはゆっくりと死んだ男の骨を持ち上げた。眼前に掲げ見る。ただの頭蓋骨だ。内部は空洞だが、重い。
「己が生死に何の意味のあることか。生きるも死ぬも、今なら同じ……。王都の流行り歌だ。あんたは政変で死んだが、今は戦争でたくさんの人が死んでいるよ。どれほどの価値が、あるんだろうな」
古き時代の骨を一人残し、旅人は荒野を後にした。
*エゾーディオ=esodio(伊):悲劇終演後の滑稽劇
*バール=burla(伊):からかい、冗談 バーレスク(滑稽劇)の語源
*ドゥオーロ=duolo(伊):悲しみ、悲嘆