待雪草 -スノードロップ-
中学の頃に書いていた小説の、違うキャラに視点を置いた短編です。
スピンオフとなっておりますので、分かりづらいところもあるかもしれません。
このお話だけでもわかるように書いたつもりですが、不十分でしたらすみません。
少しでも心に残ってくれたらうれしいです。
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あの男は決して「駄目」だと否定しない。貰ったドレスや宝石を窓から投げ捨てても、出された温かい食事を目の前で倒しても。そして訊く。「君は作り手の気持ちを捨てるのか?」と、まるで親が子供に言い聞かせるように。スノウがあの男の言葉に反応を示した試しがない。同じ部屋にある息遣いは、風の音。ふいに話しかけられる声は、小鳥の囀り。両手に持ちきれないほどのプレゼントは、街路で人々に踏みつけられる落ち葉。だから気にしない。だから捨てる。そんなスノウの動きに、あの男は決して「駄目」だと否定しない。
だって言えるわけがないのだ。
双子の兄の目の前で、スノウを手籠めにした張本人なのだから。
けれど、たった一度だけ。
あの男が「駄目」だと、スノウの行動を否定した。
十階建ての塔に連れてこられ、最上階の個室で過ごし始めてから一年の月日が流れた。必要最低限の調度品と、日除けのカーテンすらない簡素な室内である。煉瓦造りの塔には、びっしりと蔦が巻きつき、スノウの置かれた部屋の窓からも、いくつかの蔦や葉がむき出しに顔をのぞかせていた。
一日のうち、数回のお手洗いと、決められた時間のお風呂。当番の男に連れられて出ていく部屋の外が唯一の「外出」だ。
「……また手をつけていないのか。いくら不死身の身体だとしても、少しは口にしないと倒れるぞ」
相変わらず男の存在そのものを見ようとしないスノウに、重い息を吐いて部屋を退出する。
部屋の扉が閉じる音がして、ようやくスノウが振り返ると、一瞬だけ男と目が合った。慌てて視線をそらし、脳裏に入り込んできた男の姿を追い出そうと窓の外を見た。
よく晴れた昼である。
閉じられた扉からは風の音ひとつ聞こえない。十階ともなると、小鳥が窓の縁に訪れることもほとんどない。晴れた日は、一日の流れがとても遅い。雨の日ならば、窓にたたきつける雨粒を見つめ、強くなったり弱くなったりする雨音を聞いているだけでも、とても心が安らぐ。囚人のような生活を強いられる前は、あんなにも晴れた日を楽しみにしていたというのに。日差しの中で泳ぐように舞う蝶を眺めるのも、兄と共に丘の上まで駆けていくのも、綺麗に洗濯したシーツに顔をうずめたときに香るお日様の匂いも、大好きだった。
ふと思い出の中の兄が、醜く顔を歪めた。
あの男にスノウが肌を触れられた瞬間だった。大きな目にいっぱいの涙をため、けれど大人数の男に身体の自由を奪われた兄がスノウを助けることなどできはしなかった。
スノウは唇を噛み、思いを振り切るように視線を窓の外から再び室内に戻した。
机の上には冷めた食事が置かれたままだ。
部屋に運ばれてきたときから、なにひとつかわりない食事。スプーンの配置から、皿の中にある野菜の場所も、どれも動いていない。ただひとつだけ変化があるとすれば、牛乳のスープに膜が張ったくらいだろう。切られていない林檎の隣に置いてあるナイフの輝きも――
スノウの目に躊躇いつつも、光がともった。
のろりとした動作でナイフに近づき、細く骨ばった指が伸びる。
兄と暮らしていた頃は、ナイフよりも大きな包丁を握ったことだってあった。重いなんて感じたことはないというのに、今スノウが手にしているナイフは小ぶりなのにすごく重たく感じた。
ナイフをゆっくりと自分の左手に向けて動かす。白い肌に、くっきりと浮かんだ血管。もともと細い腕ではあったが、今では枝のようになってしまった。自分から食事を拒絶した結果だ。後悔はないが、もし今の姿を兄が見たら悲しむだろうかと想像すると、なんだか心に鉛の塊が落ちたような気分だった。
静かにナイフを引く。
鋭い痛みが脳天から走り、腕に赤い珠が浮かび――
「――駄目だ!」
声に驚いたスノウは、ナイフを滑らせ床に落とした。
細い右手を、あの男が力強く握っている。指がかすかに震えている。
振り仰いだ先にいたあの男は、今まで見たこともないような焦燥を目に浮かばせていた。それとも、スノウが見ようとしなかっただけで、この男はいつも悲しそうな目をしていたのだろうか。
「命を絶つことだけは許さない。駄目だ」
「……なぜ? ならばわたしを兄のもとへ返して!」
スノウの唇が震えて、声がかすれた。目じりにたくさんの涙が浮かぶ。
「それもできない……。私の顔を見るのが嫌だというのなら、もう二度とここには姿を現さないと約束する。――だから生きてくれ」
男が頭を下げた瞬間、スノウはわめくように泣きだした。声がかれてしまうのではないかと思われるほど強く、激しく。男は一瞬ためらい、そして静かにスノウの体を抱きしめた。男の指がスノウの体に触れた瞬間、泣き声がやみ、呼吸が止まったかのように硬直した。だが、突き放すことも、蹴り上げることもなく、再び泣き出した。静かに、声も出さず肩だけを震わせていた。
男はスノウの耳元で「すまない」と小さな声でつぶやくと、抱きしめていた力をいっそう強くした。
あの一件以来、男はスノウの元を訪れなくなった。眠りから覚めると部屋には大量のプレゼントが置かれている。けれど、姿を見ることはなかった。そればかりか、当番の男がいつものようにやってきて、「塔の外に出ますか?」と訊いてきた。あの男の指示で、監視の目があるところならば、塔を出ても構わないのだという。
プレゼントは、相変わらず窓から投げ捨てている。あの男からの贈り物など、触れたくもない。だが、スノウは当番の者の問いかけに、迷わず頷いていた。
初めてあの男からのプレゼントを受け取ったのだ。
それから一日に一度だけ、スノウは塔の外に出ることを許された。
再び晴れた日を楽しみにできるようになるとは思ってもいなかった。
塔は高台の上に建てられているらしく、外に出ると遠くの景色が一望できる。塔の周りは山々に囲まれ、町も村もない。人の生活が全く感じられない景観である。ぼんやりと時間を忘れたいときにはいいが、ときおり思い出して寂しくなる。自分は本当に孤独なのだと思い知らされる。
草地の上にぺたりと座り込み、いつものように流れる雲を眺めていた。
ふと、塔の周りに花が咲いていることに気づいたスノウは、立ち上がり歩み寄る。白い花。まだスノウが兄と暮らしていたとき、修道院に植えられていた花と同じだ。寒い冬、降った雪を、天使さまが励ましのためにお花に変えてくれたのよ、と優しく語りかけてくれたのを思い出す。
スノウは胸の中に浮かんでは沈む思いを自覚していた。
あの男の腕の強さ。
兄の目の前で凌辱しておきながら、甘い言葉をかけるあの男。その後スノウに触れたのは、あの日たった一度きり。乱暴に扱われたことがまるで夢だとでも言うように、あの男はスノウに優しかった。
スノウは白い花を摘み取ると、監視の男にそっと渡した。あの男にこの花を渡して欲しい、と。
そうなのだ。
自覚はあったのだ。
だからこそ、スノウはあの男の存在を無視した。一度認めてしまえば、スノウは罪悪感に苛まれる。自分を手籠めにしたことはもちろん、生きているか死んでいるかもわからない兄に申し訳がない。憎まなければいけない相手。決して心を見せてはいけない相手。それなのに、あの男が部屋に訪れるたび、心がざわついた。
あの男に魅力なんてひとつもない。
憎んで憎んで、殺したいくらい憎い相手。
しかし、姿を現さなくなってから、スノウは安堵するどころか、さらに心が荒れた。
いっそのこと死んでしまえばいい。この世から消えてしまえばいい。そうすれば、スノウがわからない不安に夜中目を覚ますこともなくなる。
だから彼に白い花を贈った。
あなたの死を望みます。
口にはできない、願いを込めて。