第一話:幸せな世界〜あいの作るコーヒーはなぜかうまい〜
僕は虫の音色が聞こえない季節、息を白く撒いて自転車で家へ向かっている途中だった。
自転車で景色をなびかせて坂道を下っていた。最近はこんな田舎の裏道みたいなところでも道路が舗装されていて便利にはなったが、桜咲く季節を待ちわびる虫たちの気配がしなくなったのは寂しかった。
思えば僕は生まれてからこの土地に暮らし、虫の音色を子守唄にして、風をゆりかごにして、星の光が浮かぶ空をあたたかみにして暮らしていた。
そんな生活は僕にとって当たり前だっさし、昔旅行に行った都会という場所にあこがれることも無かった。都会の空気は黒く濁っていて、夜空のような優しいヴェールのような黒色とは違った印象を受けた。
僕はこの生活が続いてほしいと常に思っていたんだ……
坂道の風に髪をなびかせて軽く目を閉じた。風はまるでやさしいさざ波のように僕を包んだ。
坂道を下ると右にすぐ曲がった。こちらの道はあんまり舗装されていない砂利道なのだが左の街灯のある舗装された道より好きだった。
僕は軽く口を開けて、『あー』というとまるで扇風機に『あー』と言った時みたいに声が震えた。僕はそれが面白くて高く声を出したり低く声を出したりしていた。
木々たちは風に歌い、僕たちは合唱祭をした。
しばらくして次に左に曲がった。
その道は舗装された奇麗な道だった。僕は静かにペダルを漕ぎ、その道を通り、脇道に入って家に着いた。
『ただいま』と言うと、あいがパタパタと走ってきた。『おかえり〜』と笑いながら手を振って、『ご飯出来てるよ』と言った。僕は台所で軽く食事をとり、風呂に入った。浴槽に僕が帰りに摘んだ花や草木を浮かばせた。様々な草木の香りに、僕は目を閉じて鼻でおもいっきり深呼吸をすると目の前には夜の静かな世界が広がった。
僕は窓を開けて、星を見た。今日は満月であることを確認してそのまま星を眺めた。オリオンの蝶ネクタが夜空を際立たせていた。僕はそれから30分ほど浴槽に入って風呂からあがり、台所の椅子に座った。
かるく溜め息をつくと後ろからコーヒーの香りがした。
あいがコーヒーをつくっていた。
僕はあいに頼んでコーヒーを分けてもらい、向きあって飲んだ。
あいがつくるコーヒーはおいしかった。素材は安いのだがとにかくうまかった。僕が褒めるとあいは目をずらして笑いながら『こんなの誰でもつくれるじゃない』と照れて言うので面白かった。あいはいつも木の椅子を前に後ろに揺らしたりする癖があったので、新しい揺れる椅子でも買ってあげようかななんて考えていた。あいは喜ぶかな…
僕はこの世界、この生活を愛していた。かりそめの娯楽はなく、本当の幸せがある、と思っていた。このまま風や樹や星や水、そしてあいと一緒に生きたかった。それは僕の夢であり、現実だった。そしてこれからも………
そのはずだった………