歯磨き
※食前食後には、お読みにならない方が良いかもしれません。
いつもと同じように、口の中をゆすいだ水をシンクに吐き出した涼子は、ふとシンクの端に目を取られた。
真っ白なシンクに、小さな赤い糸くずのようなものがへばりついている。
──歯ぐきから血でも出たかな?
そう思い、鏡で口の中を見てみても、異常は見当たらなかった。
定期健診に歯医者へと通い、普段からフロスを使用しているのだから、異常がある筈がない。
よくよく見れば、ただの糸くずだと納得出来た。
赤い服は持っていないけれど、何処かにくっついていたのかもしれない。
そう思い、涼子は蛇口を伸ばして、赤い糸くずを水で流した。
翌朝。
赤い糸くずのことなど忘れ、いつもと同じように歯を磨き終え、口をゆすいだ水をシンクに吐き出した涼子は、「うん?」と声を漏らした。
今度は魚の骨のような、透き通ったうんと細くて長いものがへばりついているのに気が付いた。
この数日は、魚を食べてはいない。
勿論、掃除はこまめにしているから、いつかの汚れが残っているということもない。
それならば、じっとシンクを見つめた昨日の朝に、この骨のようなものにも気が付いている筈だ。
だから、長くとも昨日の朝から今までの間にこれは何処かから現れたということになる。
──でも、何処から?
僅かに潔癖症の気のある涼子は、家具自体を少なく済ませている。
洗面所には、備え付けの洗面台と、洗濯機、タオル置きくらいしかない。続く風呂場には、シャンプーなどのボトルと洗面器くらいだ。
同居人は当然居ない。ペットなども飼っていない。
何かがこの家に在るとすれば、それは涼子に関係するものでしかありえない。
はぁ、と溜め息を吐き、涼子は魚の骨のようなものをティッシュにくるんで捨てた。
この所、胃がムカついて仕方がない。
もしかしたら、無意識のうちに変なものを口にしているのかもしれない。酷い場合は、夢遊病ということも考えられる。
仕事中もムカムカする胃に気を取られ、いまいち集中出来なかった。ミスは今のところないが、体調を気遣う声掛けが増えていた。
涼子はそうして気に掛けて貰えることに感謝していたが、それと同時に重荷にも感じていた。
心配を掛けている。
そのことが、酷く気にかかり、余計気分が沈んでくる。
しかし、そんなことを言おうものなら、変人扱いされてしまう。
そうした諸々のことが嫌で、目立たないように生きてきた。
これからも、それは変わらない。
目立たず、平凡に、粛々と。
なのに、何故この胃はムカつき続け、得体の知れないものが知らぬ間にシンクに現れるのだろうか。
こんな変化は要らない。
今日と同じ平凡な毎日の繰り返しで良いのに。
翌朝、歯磨きをしている途中、涼子は込み上げてくるものを感じ、胃の中身を吐き出した。
さっき食べたばかりの朝食に混じり、ネバネバとした糸のようなものが吐き出された。
それは胃液などではなかった。
もっと粘度の高いもの。
それが朝食を覆うように糸を引いている。
「なに……これ……」
声が絡みついてしゃがれている。
喉を鳴らしてから、涼子はシンクに吐き出された吐瀉物を掴み上げ、ゴミ箱へと捨てた。
糸のようなものが巻きついていたせいで、辺りに飛び散ることもなく、回収出来た。
それはいいことだったが、手に付いたネバネバとしたものが、糸を引いて気持ちが悪い。
会社に電話をかけて、休む旨を伝えると、すぐに了承の声が返ってきた。「最近調子悪そうだったものね」という言葉に、今は少しだけホッとする。
これで、状況を説明せずに済む。
午前中のうちに病院へと予約の電話を掛け、マスクをして家を出る。
平日のこんな時間に外を歩いていたら、変な目で見られるかもしれない。だから、マスクをして、出来るだけ具合の悪そうに歩く。
あまりに重症そうだと、それはそれで目を引くから、足取りは出来るだけ軽めに。
実際、嘔吐してからは、何処か体が軽くなっていた。
ただ、吐き出したものが異常だった。
粘つくような物など食べていないのに、あんなものを吐くなんて、絶対に可笑しい。
これはきっと内臓の何処かが炎症を起こしたりして、免疫反応か何かを起こしているんだ。
涼子はぐるぐると考えながら、病院に向かった。
病院ではいくつかの検査を行い、その結果「異状なし」の診断を受けた。
愕然とする涼子に、医師は難しい顔をして言う。
「血液検査の結果は後日聞きに来てもらうとして……。糸のようなものを吐く、という症状は聞いたことがないんですよね。実物が診られればいいんだけど、他の考えられる症例も違うと思うし」
そこで医師は窺うような視線を涼子に向けた。
「もしよければ、他の病院を紹介するけど」
その意味は判っていた。
「いいです。暫く、様子を見ます」
涼子はさっと立ち上がり、頭を下げて逃げるように診察室を出た。
身体的な症状が見受けられないから、精神的なアプローチをした方が良いというのだろう。
それはきっと、涼子の様子を見て至った考えなのだろう。
──そんなの、絶対に駄目。これは、何か変わった風邪。絶対に、そう。
行きとは打って変わって、ずっと重くなった足で家に帰り着いた涼子は、吐瀉物をまとめていたビニール袋から、小さく水が垂れているのに気が付いた。
饐えた臭いがマスク越しに届き、顔を顰める。
急いで窓を開けてから、涼子はウェットティッシュを手にビニール袋に近付いた。
袋に穴が開いているという訳ではない。しかし、ビニール袋を伝った水は、トトトトトと小さく、小さく、廊下に伸びている。
そうしてある程度進んだところで、突然に途切れていた。
それを、ぼんやりと見やってから、涼子は緩慢な動きで垂れた水をウェットティッシュで拭き始めた。
嫌だった。
有り得ないことが起きている。それを受け入れることが。
──やっぱり、風邪を引いてるんだ。だから熱が出て、幻覚みたいなものまで見てる。
そう考えはするものの、風邪を引いているにしては体が軽い。咳も出なければ、頭も重くないし、鼻水などの症状もない。
胃だけが、ムカついている。
しかし、それを受け入れたくなかった。
医師に診て貰って、検査をして異常がないのに、何かがある訳がない。
涼子は、黙々と床を拭き続けた。
廊下に走る水は、粘ついていちいち手が引っ掛かる。
グチャ。
ネチャ。
グジュ……。
粘つき、糸を引く。
「もう……何なのよ!」
そう叫んだ涼子は、胸にせり上がるものを感じて、咄嗟に体を丸めた。
喉が、口が、裂けてしまいそうに痛い。
厭な音が喉から漏れ、激しくえずく。
おえ、という声と共に、べしゃりと吐き出されたものに、涼子は目を留め、固まった。
糸状のものがへばりつく楕円形のもの。
ネトネトと光を返す、僅かに潰れたもの。
つい今しがた、涼子の口から吐き出されたもの。
「……うぅっ!」
あまりの光景に、涼子の視界はぐるぐると回り始めた。
──違う、違う、違う、こんなの、絶対に、違う!
視界が回る。
胃のムカつきが強くなる。
吐き気がこみ上げる。
涼子はそれを必死に抑えた。
体を丸め、瞳を閉じ、胃のムカつきに集中し、それと同時にそれに呑まれないようにする。
パキ……。
その時、頭の上で何か微かな音がした。
ゆっくりと顔を上向ける。
床に吐き出された楕円形のものの、上になっている面の糸が小さく盛り上がっていた。
そこから目を離せない涼子の前で、パキキと音を立て、その盛り上がりは広がっていく。
触れたらチクチクとしそうな見た目に変容したそれから、もっと細い何かが、ゆっくりと伸び上がる。
パキキキ……。
ゴソゴソと音を立て、糸の中から鈍色の何かが這い出てくる。
細く、途中で折れ曲がった脚を幾つも生やした何か──涼子の中では蜘蛛に一番近しいが、それではない〝何か〟が楕円形から全身を這い出すと、トトトトトという音を立てて廊下の先を歩いて行く。
そうして、ある程度の先で、解けるように消えた。
涼子は、恐ろしさに息を呑んだ。
その瞬間、胸に込み上げるものの勢いが強さを増した。
体の内側がチクチクと痛む。
「う……うぅ……」
呻いていた涼子は、胸を押さえながら、酸素を求めて口を開いた。
──苦し……息が、出来な……い。
ぞわぞわぞわぞわ。
喉を駆け上がる不快感が、次の瞬間に口から溢れ出した。
鈍色の何かがぞわぞわと、次から次に口から溢れては床に落ち、トトトトトトと歩き去る。
涼子は悲鳴を上げることも出来ず、無理やり内側から口を開けさせられ、涙に滲む視界で鈍色を追っていた。
恐怖と不快感に、体が小さく震える。
ぞわぞわぞわぞわぞわ……。
ぶるぶると強い震えが体を揺らした。
鈍色の何かが、その動きに反応して、サァッと散る。
そうして、再びトトトトトトと歩いて行く。
暫くそれに耐えていると、突然に呼吸が楽になり、涼子は目一杯呼吸を繰り返した。
涎が顎下に伝い、床を汚している。
糸を引く、粘り気のある何かも、小さく、小さく廊下に続いていた。
痺れたような頭でそれを追った涼子は、自身の体に目を落とした。
異常はない。
何処も痛くない。
咳も出ない。
涎を拭うと、涼子は歯磨きをする為に洗面所へ向かった。
ネバネバとした糸のようなものが口の中にこびりついている。
きっと、歯を磨けばすっきりするだろう。それで、全てが綺麗になる。
しかし──いくら歯を磨いても、胃のムカつきだけは残っていた。




