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婚約破棄ですか。では、その歩幅でお一人でどうぞ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/25

「セリア。君との婚約を、破棄する」


 王太子ルシアン殿下の声は、舞踏会の音楽よりもよく響いた。


 大広間の中央。


 明日の夜明けに継承舞踏を控えた王太子が、その前夜祭で、10年連れ添った婚約者を捨てる。


 誰がどう見ても醜聞だった。


 けれど殿下は、それが見えていない。


 金の髪。青い瞳。民の前では完璧に微笑む、美しい王太子。


 その腕には、桃色のドレスをまとった子爵令嬢マリアンヌ様が寄り添っていた。


「殿下……わたくしのせいで、セリア様がお傷つきになるのでは……」


「君のせいではない。悪いのは、10年も私の隣にいながら、私を少しも楽しませなかったセリアだ」


 広間が、しんとした。


 わたくしは、殿下を見上げた。


 10年。


 その言葉の重さを、殿下は知らない。


 10年前、王妃様に言われた。


『ルシアンは王家の魔力が強すぎて、歩調が乱れるの。あなたには歩調を整える才がある。あの子の隣で、支えてあげて』


 支える。


 幼いわたくしには、それが誇らしかった。


 未来の王妃として必要とされているのだと信じた。


 だから、殿下の半歩後ろを歩いた。


 殿下が速くなれば、遅らせた。


 殿下がつまずけば、先に床を踏んで揺れを殺した。


 殿下の魔力が足元で乱れる夜は、踵の痛みを噛み殺して、音のしない銀の飾りで振動を吸った。


 10年。


 誰にも気づかれなかった。


 気づかれないほど、うまく支えた。


 それが、わたくしの失敗だったのだろう。


「セリア」


 殿下が不機嫌そうに眉を寄せた。


「何とか言ったらどうだ」


「承知いたしました」


 わたくしは、静かに膝を折った。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 広間がざわめいた。


 殿下の眉が、わずかに動く。


「……ずいぶん、あっさりしているな」


「殿下がお決めになったことでしょう」


「引き止めないのか」


「引き止めてほしかったのですか?」


 マリアンヌ様が、小さく息をのんだ。


 殿下の頬が赤くなる。


「そういう冷たいところが嫌だった。君はいつもそうだ。下を向いて、地味で、退屈で、歩くのも遅い」


「そうでございますか」


「私の隣に立つ女性なら、もっと軽やかでなければならない」


 マリアンヌ様が、殿下の腕に甘えるように寄り添った。


「殿下……わたくし、殿下の隣を歩けるように頑張りますわ」


「ああ。君といると、私は息がしやすい」


 息がしやすい。


 そのひと言で、わたくしはようやく諦めがついた。


 殿下は、息がしやすかったのだ。


 それなら、わたくしの10年は完全な無駄ではなかった。


 ただし、もう十分だ。


 わたくしは立ち上がり、右足の踵に指をかけた。


 そこには、小さな銀の飾りがついている。


 鈴のように見えて、決して鳴らない飾り。


 音を出すためではなく、音を消すためのもの。


 殿下の歩調が乱れたとき、床に落ちる魔力の震えを吸い、足音を整えるためのもの。


 王妃様から与えられた、王太子妃教育の最後の道具。


 わたくしは、それを外した。


 かすん。


 銀の飾りが、大理石の床に落ちる。


 その小さな音だけが、妙にはっきり響いた。


「何だ、それは」


 殿下が眉をひそめる。


「不要になったものです」


「不要?」


「はい」


 わたくしは顔を上げた。


「では殿下。あなたに合わせていた歩幅を、今日でやめます」


 殿下は、ぽかんとしたあと、鼻で笑った。


「歩幅? 最後まで意味のわからない女だな」


「そうかもしれません」


 わたくしは、1歩下がった。


 左足から。


 10年ぶりに、誰かの呼吸ではなく、自分の重心で床を踏んだ。


 足裏が痛む。


 けれど、不思議なほど身体が軽い。


「明日の継承舞踏、どうぞお健やかに」


 わたくしは背を向けた。


「セリア!」


 殿下の声が追いかけてくる。


「その歩き方は何だ」


 わたくしは振り返らなかった。


 広間の床を、靴音が渡る。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 誰かの半歩後ろではない。


 誰かの揺れを受け止めない。


 誰かの不安を、自分の足で殺さない。


 ただ、わたくしの速さで歩く。


 たったそれだけのことが、こんなにも怖く、こんなにも自由だとは知らなかった。


 広間の出口で、黒い礼服の青年が壁際から身を起こした。


 北方ヴァルト公爵家の嫡男、エリアス様。


 銀灰色の髪に、冬の湖のような瞳。


 昨日、王都に着いたばかりの客人で、無口で近寄りがたい方だと噂されている。


 そのエリアス様が、わたくしの靴を見ていた。


「セリア嬢」


 低い声だった。


「はい」


「痛むのですか」


 そのひと言に、わたくしは初めて足を止めた。


 誰にも気づかれなかった。


 父にも、母にも、侍女にも。


 10年かけて作った右足の歪み。


 殿下の歩調に合わせるため、いつも外側へ重心を逃がしていた癖。


 銀の踵飾りを外したせいで、今、足先が震えている。


 この方は、それをひと目で見た。


「少しだけです」


「少しだけ、と言う人ほど、長く痛めている」


「北方では、そう教わるのですか」


「凍傷も、骨折も、我慢する者から悪くなります」


 エリアス様は、わたくしの前に膝をついた。


 広間の出口で。


 貴族たちが見ている前で。


「エリアス様、そのようなことをなさってはいけません」


「では、許される理由を作りましょう」


「理由?」


「踊ってください、セリア嬢」


 わたくしは瞬きをした。


「今、ですか」


「はい」


「わたくしは、たった今、婚約破棄されたばかりです」


「だからです」


 エリアス様は、淡々と言った。


「誰かに捨てられた女性としてではなく、誰の所有物でもない女性として、1曲」


 広間の空気が変わった。


 ルシアン殿下の声が飛ぶ。


「エリアス! 何のつもりだ!」


「北方公爵家の嫡男として、今夜もっとも美しく歩いた令嬢に、舞踏を申し込んでいます」


「美しく?」


 殿下が笑った。


「セリアが? いつも足元ばかり見ていた女が?」


 エリアス様は、わたくしから目を離さずに言った。


「足元を見て歩ける人間だけが、隣の人を転ばせずに歩けます」


 胸の奥が、熱くなった。


 婚約破棄されても泣かなかった。


 退屈だと言われても、歩くのが遅いと笑われても、何もこぼれなかった。


 なのに、そのひと言だけで、喉が詰まった。


「わたくしは、上手に踊れません」


「知っています」


「ご存じなのですか」


「あなたは、他人に合わせる踊りが上手すぎる」


 エリアス様が、右手を差し出した。


「今夜は、あなたの歩幅で」


 その手は、わたくしを掴まなかった。


 急かさなかった。


 ただ、待っていた。


 わたくしは、そっと手を重ねた。


 音楽が戻る。


 戸惑った楽師たちが、ゆっくり弓を動かし始めた。


 エリアス様は、最初の1歩を踏み出さない。


 わたくしを見ている。


 待っている。


 だから、わたくしが先に歩いた。


 左足から。


 こつ。


 エリアス様が合わせる。


 右足。


 こつ。


 重心が揃う。


 3歩目で、わたくしは息をした。


 いつもなら、ここで殿下の魔力が乱れる。


 肩が強張り、足元に力が落ち、踏み込みがずれる。


 そのたびに、わたくしは半歩遅らせ、床の揺れを吸い、殿下の美しさを守っていた。


 けれど、今は違う。


 エリアス様は、わたくしを支えすぎない。


 寄りかからない。


 わたくしの速さを奪わない。


 ただ、隣にいる。


 それだけで、踊りはこんなにも楽になるのか。


「笑いましたね」


 エリアス様が言った。


「え?」


「今、少し」


「失礼いたしました」


「謝らないでください。見たかったので」


 わたくしは、顔を上げた。


 その瞬間、エリアス様の瞳がほんの少し揺れた。


「10年前も、そうでした」


「10年前?」


「冬の狩猟祭で、足を怪我した少年を覚えていますか」


 胸の奥で、小さな扉が開いた。


 雪の日。


 王宮裏庭。


 転んで、膝を押さえていた少年。


 泣くのを我慢していたから、わたくしは隣を歩いた。


 誰にも怪我を悟られないように、少年の歩幅に合わせて門まで歩いた。


「まさか、あのときの」


「はい」


 エリアス様の声は静かだった。


「あなたは、私の怪我を誰にも言わなかった。私の遅さを笑わなかった。ただ、同じ速さで歩いてくれた」


「たいしたことでは」


「私には、たいしたことでした」


 音楽が少し明るくなる。


「私はあの日から、速く歩けることが強さではないと知りました」


 視界がにじんだ。


「あなたは、覚えていてくださったのですね」


「3歩目まで、正確に」


 わたくしは、とうとう笑ってしまった。


「それは、少し怖いです」


「申し訳ありません。北方では恩を忘れるなと教わります」


「北方の教えは、ずいぶん多いのですね」


「便利です。今後も使います」


 小さく笑いが起きた。


 広間の空気が、少しずつ変わっていく。


 王太子に捨てられた哀れな令嬢を見る目ではない。


 ただ、ひとりの女性が踊っているのを見ている。


 わたくしは、初めて舞踏会で息ができた。


 曲が終わる。


 エリアス様が、わたくしの手を取り、深く礼をした。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


「足は?」


「少し、痛みます」


「では、座りましょう」


 わたくしが返事をする前に、彼は近くの椅子へ案内した。


 急がせない。


 触れすぎない。


 けれど、必要なものはすぐに差し出す。


 侍女に温かい布を頼むその声に、押しつけがましさはなかった。


 その様子を見て、マリアンヌ様がくすりと笑った。


「まあ。セリア様ったら、今度は足の痛みで殿方の同情を引くのですか?」


 広間の温度が下がった。


 昔のわたくしなら、黙っていただろう。


 殿下を困らせないために。


 殿下の顔を立てるために。


 でも、もう合わせない。


「マリアンヌ様」


「はい?」


「足が痛いと言うことは、同情を引くことではありません」


 わたくしは、静かに言った。


「痛いものを、痛いと言っただけです」


 マリアンヌ様の目が見開かれる。


「それを弱さだと思う方は、誰かの痛みを踏むことに慣れていらっしゃるのかもしれませんね」


 誰かが息をのんだ。


 ルシアン殿下の顔が赤くなる。


「セリア、言い過ぎだ」


「殿下」


 わたくしは、10年見続けた顔を見た。


「明日の継承舞踏は、マリアンヌ様と踊られるのですね」


「ああ」


「では、どうぞお大事に」


「何?」


「マリアンヌ様は先ほどから、倒れそうなお顔をなさっていますので」


 マリアンヌ様の肩が跳ねた。


「殿下はお優しい方ですもの。きっと、何度でも看病に向かわれるのでしょう」


 エリアス様が、小さく咳をした。


 笑いを堪えたのだと気づき、わたくしは少し楽しくなった。


 殿下は、わたくしをにらんだ。


「君は、本当に変わったな」


「いいえ」


 わたくしは首を振った。


「やっと戻っただけです」


 その夜、わたくしは王宮を出た。


 馬車に乗る前、振り返る。


 10年通った王宮。


 10年、半歩後ろを歩いた廊下。


 もう、見上げる場所ではない。


「セリア嬢」


 馬車の外から、エリアス様の声がした。


「はい」


「明日の継承舞踏、来られますか」


「招待状は返しました」


「私の同伴者としてなら、入れます」


「なぜ、わたくしを?」


「見届けてほしいからです」


「何を」


「殿下がひとりで歩けるのか。それとも、あなたがいたから歩けていたのか」


「エリアス様は、意地が悪いですね」


「北方では、事実確認と言います」


 わたくしは、少し笑った。


「考えておきます」


「では、明日の夕刻、迎えに参ります」


「まだ行くとは申しておりません」


「はい。考えておいてください」


 馬車が動き出す。


 窓の外で、エリアス様が深く礼をした。


 その姿が見えなくなってから、わたくしは靴を脱いだ。


 足裏は赤くなっていた。


 けれど、痛みはもう怖くなかった。


 痛いと言ってもいい。


 歩けない日は休んでもいい。


 誰かに合わせない日があってもいい。


 そんな当たり前のことを、わたくしは10年かけてようやく知った。


 翌日。


 継承舞踏の大広間は、昼過ぎからざわめいていた。


 王太子が婚約者を替えた。


 しかも、前夜祭で。


 その噂は、ひと晩で王都を駆け回ったらしい。


 わたくしは結局、エリアス様の同伴者として広間に入った。


 薄青のドレス。


 踵の低い靴。


 銀の飾りは、もうつけていない。


「緊張していますか」


 エリアス様が尋ねた。


「少し」


「帰りますか」


「いいえ」


 わたくしは前を向いた。


「今日は、最後まで見ます」


 広間の中央には、ルシアン殿下とマリアンヌ様が立っていた。


 殿下は美しい。


 昨日より少し顔色が悪いけれど、それでも王太子らしく背筋を伸ばしている。


 マリアンヌ様は白いドレスをまとい、花のように微笑んでいた。


 王妃様の顔は、青ざめている。


 わたくしと目が合うと、唇が震えた。


 けれど、何も言わない。


 言えるはずがない。


 わたくしに銀の踵飾りを渡したのは、王妃様だったのだから。


 やがて、夜明けの鐘を模した3つの音が鳴る。


 継承舞踏が始まった。


 1歩目。


 殿下は問題なく踏み出した。


 広間に、安堵の空気が流れる。


 2歩目。


 マリアンヌ様が、少し速い。


 殿下が合わせようとする。


 3歩目。


 殿下の右足が、わずかに滑った。


 ざわり、と広間が揺れた。


 4歩目。


 殿下の肩が強張る。


 魔力の光が足元に落ち、青白い火花が床を走った。


 マリアンヌ様が悲鳴を上げる。


「殿下っ」


「合わせろ」


「む、無理ですわ。速い、速すぎます」


「違う。君が遅いんだ」


 わたくしは目を伏せた。


 その言葉を、何度も聞いた。


 君が遅い。


 君が重い。


 君は退屈だ。


 違う。


 殿下は、自分の乱れを、いつも隣の人間のせいにしていただけだ。


 音楽が揺れる。


 殿下が踏み込みすぎる。


 マリアンヌ様の靴がもつれ、白いドレスが大きく傾いた。


 殿下は彼女を支えようとした。


 しかし、その瞬間、殿下自身の足が崩れた。


 大広間の中央で、王太子は片膝をついた。


 誰も声を出さなかった。


 継承舞踏で片膝をつく。


 それは、王権を受け取る足が整っていないことを意味する。


 大神官が立ち上がった。


「舞踏を中断いたします」


「待て!」


 ルシアン殿下が叫んだ。


「もう一度だ。もう一度やれば」


「規定により、夜明けの三鐘で一度乱れた舞踏は、その年の継承認定から外れます」


「そんな馬鹿な!」


 殿下は立ち上がろうとした。


 けれど、足元の魔力はまだ震えている。


 彼は、初めて自分の足を見た。


 初めて、わたくしのいない床を見た。


「セリア」


 その声が、こちらへ向いた。


「セリア、来い」


 広間中の視線が、わたくしに集まる。


 エリアス様が1歩前に出ようとした。


 わたくしは、手で制した。


 自分で歩く。


 今度は、自分の足で。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 広間の中央まで進む。


 殿下は汗を浮かべていた。


 マリアンヌ様は床に座り込み、震えている。


「セリア。踵飾りを戻せ」


「お断りいたします」


「これは命令だ」


「わたくしは、もう殿下の婚約者ではありません」


 殿下の顔が歪んだ。


「10年だぞ」


「はい」


「10年、私の隣にいただろう」


「はい」


「なら、最後まで支えろ」


 胸の奥が、静かになった。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 ただ、ようやく終わったのだと思った。


「殿下」


 わたくしは、静かに言った。


「わたくしは、あなたの杖ではありません」


 広間のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。


「あなたが転ばないように歩くことはできました。あなたが息をしやすいように、半歩遅れることもできました。あなたの魔力の揺れを、わたくしの足で受け止めることもできました」


「なら」


「けれど、それを当然だと思われた瞬間から、支えることは愛ではなくなります」


 殿下の瞳が揺れる。


 初めて、わたくしを見た。


 顔でも、肩書きでも、役目でもなく。


 たぶん、初めて。


「セリア、私は……知らなかった」


「はい」


「言ってくれれば」


「言いました」


「いつ」


「毎日、歩きながら」


 殿下の唇が止まった。


「殿下、今日は少しゆっくりと。殿下、右足に力が入りすぎております。殿下、その靴では痛むでしょう。殿下、今日はお疲れですから、お休みを」


 わたくしは微笑んだ。


「殿下は、そのたびに『細かい』『退屈だ』『君は歩くのが遅い』と仰いました」


 ルシアン殿下の顔から、血の気が引いた。


 マリアンヌ様が、震える声で言う。


「で、でも、王太子妃になるなら、それくらい当然では……」


「当然ではありません」


 エリアス様の声だった。


 低く、広間を貫く声。


「誰かが痛みを引き受けていることに気づかない者は、王冠の重さにも気づけない」


 大神官が、静かに頷いた。


 王妃様が顔を覆う。


 王が、重い声で告げた。


「ルシアン。継承認定は1年延期する」


「父上!」


「1年、自分の足で歩け」


 それが、裁定だった。


 断罪の剣も、怒号もない。


 けれど殿下にとっては、何より重い罰だった。


 王太子として完成していると思っていた自分が、実はひとりでは真っ直ぐ歩けなかった。


 それを、王国中の貴族の前で知られたのだから。


 マリアンヌ様は、すでに殿下から手を離していた。


「わ、わたくし、こんな大事になるなんて……」


 誰も慰めに行かなかった。


 それが、社交界の答えだった。


「セリア」


 殿下が、かすれた声で言う。


「私は、やり直せるだろうか」


「できます」


 わたくしは答えた。


 殿下の目に、わずかに光が戻る。


「なら」


「おひとりで」


 光が止まった。


「殿下は、ご自分の歩幅を知らなければなりません。誰かに合わせてもらう前に、ご自分の足で立たなければなりません」


「君は、戻らないのか」


「戻りません」


 はっきりと言えた。


 胸は痛まなかった。


「わたくしも、わたくしの歩幅を知りたいのです」


 殿下は、何も言えなかった。


 わたくしは礼をして、広間の中央を離れた。


 1歩ごとに、視線が変わる。


 哀れみではない。


 好奇でもない。


 敬意。


 たぶん、そう呼んでいいものだった。


 エリアス様が待っていた。


「帰りますか」


「はい」


「歩けますか」


「歩けます」


「痛いときは?」


「痛いと言います」


 エリアス様が、わずかに笑った。


「よろしい」


 大広間を出ると、夜風が頬に触れた。


 まだ夜明け前だった。


 王宮の庭には、白い花が咲いている。


 10年、何度も通った庭なのに、こんなに香りがするとは知らなかった。


「セリア嬢」


「はい」


「北方へ来ませんか」


 あまりにまっすぐな誘いで、わたくしは立ち止まった。


「公爵家の療養地には、足を休める温泉があります。雪道は滑りますが、危険な場所では私が先に転ぶので分かりやすいです」


「それは、誘い文句として正しいのですか」


「改善します」


「今のままで結構です」


 エリアス様は、少しだけ耳を赤くした。


「私は、あなたを支えたいと言うつもりはありません」


「はい」


「あなたを守りたいとも、今は言いません」


「なぜですか」


「あなたは、守られるだけの人ではないからです」


 胸の奥が、また熱くなった。


「私は、あなたと歩きたい」


 夜明け前の空に、薄い光が差していた。


「速い日も、遅い日も、止まる日も。あなたが自分で選ぶ歩幅の隣に、私の足を置きたい」


 涙が、ひと粒だけ落ちた。


 悔し涙ではなかった。


 痛みの涙でもなかった。


 10年遅れで、自分の足に戻ってきた涙だった。


「わたくしは、すぐには速く歩けません」


「はい」


「急に立ち止まるかもしれません」


「はい」


「誰かに合わせる癖も、きっと抜けません」


「そのときは、私が言います。今、合わせようとしましたね、と」


 わたくしは笑った。


「厳しいのですね」


「北方では、好きな人には正直にと言います」


「また北方ですか」


「はい。ですが、これは本当です」


 エリアス様は、わたくしの前で膝をつかなかった。


 手を引かなかった。


 ただ、隣に立った。


「セリア嬢。あなたが誰かの半歩後ろではなく、私の隣を選んでくださるなら、私は生涯、その歩幅を忘れません」


 わたくしは、彼を見上げた。


 10年前、雪の日に隣を歩いた少年。


 昨日、わたくしの痛みに気づいた青年。


 今日、わたくしを杖ではなく人として見た人。


「エリアス様」


「はい」


「北方には、朝食に甘いパンはありますか」


「あります。蜂蜜をかけます」


「では、考えます」


「蜂蜜で?」


「重要です」


 エリアス様が、初めて声を出して笑った。


 冬の空気のように澄んだ笑い声だった。


「では、北方公爵家の総力を挙げて、最高の蜂蜜を用意します」


「大げさです」


「婚約の申し込みですから」


 わたくしは固まった。


「今、何と?」


「婚約の申し込みです」


「蜂蜜の話では」


「北方では、蜂蜜は誠意です」


「それは絶対に嘘ですね」


「はい。今作りました」


 わたくしは、とうとう堪えきれずに笑った。


 笑いながら、涙がまた落ちる。


 エリアス様が慌てる。


「すみません。泣かせるつもりでは」


「違います」


 わたくしは首を振った。


「嬉しいのです」


 朝日が昇る。


 王宮の塔が金色に染まる。


 かつて、わたくしはその光を、殿下の半歩後ろから見ていた。


 今日は違う。


 隣に人がいる。


 けれど、寄りかかってはいない。


 手を引かれてもいない。


 わたくしは、自分の足で立っている。


「エリアス様」


「はい」


「北方へ参ります」


 彼の瞳が、静かに見開かれた。


「ただし」


「はい」


「わたくしの歩幅で」


 エリアス様は、深く、嬉しそうに礼をした。


「もちろんです」


 わたくしたちは、王宮の門へ向かって歩き出した。


 1歩目は、わたくしから。


 2歩目は、彼が隣で。


 3歩目で、足音が揃った。


 けれどそれは、わたくしが合わせた音ではない。


 彼が奪った音でもない。


 ふたりで選んだ、朝の音だった。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 もう誰かの影ではない。


 もう誰かの杖ではない。


 わたくしは、わたくしの歩幅で歩く。


 そして、その隣には、同じ速さで笑ってくれる人がいる。

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