婚約破棄ですか。では、その歩幅でお一人でどうぞ
「セリア。君との婚約を、破棄する」
王太子ルシアン殿下の声は、舞踏会の音楽よりもよく響いた。
大広間の中央。
明日の夜明けに継承舞踏を控えた王太子が、その前夜祭で、10年連れ添った婚約者を捨てる。
誰がどう見ても醜聞だった。
けれど殿下は、それが見えていない。
金の髪。青い瞳。民の前では完璧に微笑む、美しい王太子。
その腕には、桃色のドレスをまとった子爵令嬢マリアンヌ様が寄り添っていた。
「殿下……わたくしのせいで、セリア様がお傷つきになるのでは……」
「君のせいではない。悪いのは、10年も私の隣にいながら、私を少しも楽しませなかったセリアだ」
広間が、しんとした。
わたくしは、殿下を見上げた。
10年。
その言葉の重さを、殿下は知らない。
10年前、王妃様に言われた。
『ルシアンは王家の魔力が強すぎて、歩調が乱れるの。あなたには歩調を整える才がある。あの子の隣で、支えてあげて』
支える。
幼いわたくしには、それが誇らしかった。
未来の王妃として必要とされているのだと信じた。
だから、殿下の半歩後ろを歩いた。
殿下が速くなれば、遅らせた。
殿下がつまずけば、先に床を踏んで揺れを殺した。
殿下の魔力が足元で乱れる夜は、踵の痛みを噛み殺して、音のしない銀の飾りで振動を吸った。
10年。
誰にも気づかれなかった。
気づかれないほど、うまく支えた。
それが、わたくしの失敗だったのだろう。
「セリア」
殿下が不機嫌そうに眉を寄せた。
「何とか言ったらどうだ」
「承知いたしました」
わたくしは、静かに膝を折った。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
広間がざわめいた。
殿下の眉が、わずかに動く。
「……ずいぶん、あっさりしているな」
「殿下がお決めになったことでしょう」
「引き止めないのか」
「引き止めてほしかったのですか?」
マリアンヌ様が、小さく息をのんだ。
殿下の頬が赤くなる。
「そういう冷たいところが嫌だった。君はいつもそうだ。下を向いて、地味で、退屈で、歩くのも遅い」
「そうでございますか」
「私の隣に立つ女性なら、もっと軽やかでなければならない」
マリアンヌ様が、殿下の腕に甘えるように寄り添った。
「殿下……わたくし、殿下の隣を歩けるように頑張りますわ」
「ああ。君といると、私は息がしやすい」
息がしやすい。
そのひと言で、わたくしはようやく諦めがついた。
殿下は、息がしやすかったのだ。
それなら、わたくしの10年は完全な無駄ではなかった。
ただし、もう十分だ。
わたくしは立ち上がり、右足の踵に指をかけた。
そこには、小さな銀の飾りがついている。
鈴のように見えて、決して鳴らない飾り。
音を出すためではなく、音を消すためのもの。
殿下の歩調が乱れたとき、床に落ちる魔力の震えを吸い、足音を整えるためのもの。
王妃様から与えられた、王太子妃教育の最後の道具。
わたくしは、それを外した。
かすん。
銀の飾りが、大理石の床に落ちる。
その小さな音だけが、妙にはっきり響いた。
「何だ、それは」
殿下が眉をひそめる。
「不要になったものです」
「不要?」
「はい」
わたくしは顔を上げた。
「では殿下。あなたに合わせていた歩幅を、今日でやめます」
殿下は、ぽかんとしたあと、鼻で笑った。
「歩幅? 最後まで意味のわからない女だな」
「そうかもしれません」
わたくしは、1歩下がった。
左足から。
10年ぶりに、誰かの呼吸ではなく、自分の重心で床を踏んだ。
足裏が痛む。
けれど、不思議なほど身体が軽い。
「明日の継承舞踏、どうぞお健やかに」
わたくしは背を向けた。
「セリア!」
殿下の声が追いかけてくる。
「その歩き方は何だ」
わたくしは振り返らなかった。
広間の床を、靴音が渡る。
こつ。
こつ。
こつ。
誰かの半歩後ろではない。
誰かの揺れを受け止めない。
誰かの不安を、自分の足で殺さない。
ただ、わたくしの速さで歩く。
たったそれだけのことが、こんなにも怖く、こんなにも自由だとは知らなかった。
広間の出口で、黒い礼服の青年が壁際から身を起こした。
北方ヴァルト公爵家の嫡男、エリアス様。
銀灰色の髪に、冬の湖のような瞳。
昨日、王都に着いたばかりの客人で、無口で近寄りがたい方だと噂されている。
そのエリアス様が、わたくしの靴を見ていた。
「セリア嬢」
低い声だった。
「はい」
「痛むのですか」
そのひと言に、わたくしは初めて足を止めた。
誰にも気づかれなかった。
父にも、母にも、侍女にも。
10年かけて作った右足の歪み。
殿下の歩調に合わせるため、いつも外側へ重心を逃がしていた癖。
銀の踵飾りを外したせいで、今、足先が震えている。
この方は、それをひと目で見た。
「少しだけです」
「少しだけ、と言う人ほど、長く痛めている」
「北方では、そう教わるのですか」
「凍傷も、骨折も、我慢する者から悪くなります」
エリアス様は、わたくしの前に膝をついた。
広間の出口で。
貴族たちが見ている前で。
「エリアス様、そのようなことをなさってはいけません」
「では、許される理由を作りましょう」
「理由?」
「踊ってください、セリア嬢」
わたくしは瞬きをした。
「今、ですか」
「はい」
「わたくしは、たった今、婚約破棄されたばかりです」
「だからです」
エリアス様は、淡々と言った。
「誰かに捨てられた女性としてではなく、誰の所有物でもない女性として、1曲」
広間の空気が変わった。
ルシアン殿下の声が飛ぶ。
「エリアス! 何のつもりだ!」
「北方公爵家の嫡男として、今夜もっとも美しく歩いた令嬢に、舞踏を申し込んでいます」
「美しく?」
殿下が笑った。
「セリアが? いつも足元ばかり見ていた女が?」
エリアス様は、わたくしから目を離さずに言った。
「足元を見て歩ける人間だけが、隣の人を転ばせずに歩けます」
胸の奥が、熱くなった。
婚約破棄されても泣かなかった。
退屈だと言われても、歩くのが遅いと笑われても、何もこぼれなかった。
なのに、そのひと言だけで、喉が詰まった。
「わたくしは、上手に踊れません」
「知っています」
「ご存じなのですか」
「あなたは、他人に合わせる踊りが上手すぎる」
エリアス様が、右手を差し出した。
「今夜は、あなたの歩幅で」
その手は、わたくしを掴まなかった。
急かさなかった。
ただ、待っていた。
わたくしは、そっと手を重ねた。
音楽が戻る。
戸惑った楽師たちが、ゆっくり弓を動かし始めた。
エリアス様は、最初の1歩を踏み出さない。
わたくしを見ている。
待っている。
だから、わたくしが先に歩いた。
左足から。
こつ。
エリアス様が合わせる。
右足。
こつ。
重心が揃う。
3歩目で、わたくしは息をした。
いつもなら、ここで殿下の魔力が乱れる。
肩が強張り、足元に力が落ち、踏み込みがずれる。
そのたびに、わたくしは半歩遅らせ、床の揺れを吸い、殿下の美しさを守っていた。
けれど、今は違う。
エリアス様は、わたくしを支えすぎない。
寄りかからない。
わたくしの速さを奪わない。
ただ、隣にいる。
それだけで、踊りはこんなにも楽になるのか。
「笑いましたね」
エリアス様が言った。
「え?」
「今、少し」
「失礼いたしました」
「謝らないでください。見たかったので」
わたくしは、顔を上げた。
その瞬間、エリアス様の瞳がほんの少し揺れた。
「10年前も、そうでした」
「10年前?」
「冬の狩猟祭で、足を怪我した少年を覚えていますか」
胸の奥で、小さな扉が開いた。
雪の日。
王宮裏庭。
転んで、膝を押さえていた少年。
泣くのを我慢していたから、わたくしは隣を歩いた。
誰にも怪我を悟られないように、少年の歩幅に合わせて門まで歩いた。
「まさか、あのときの」
「はい」
エリアス様の声は静かだった。
「あなたは、私の怪我を誰にも言わなかった。私の遅さを笑わなかった。ただ、同じ速さで歩いてくれた」
「たいしたことでは」
「私には、たいしたことでした」
音楽が少し明るくなる。
「私はあの日から、速く歩けることが強さではないと知りました」
視界がにじんだ。
「あなたは、覚えていてくださったのですね」
「3歩目まで、正確に」
わたくしは、とうとう笑ってしまった。
「それは、少し怖いです」
「申し訳ありません。北方では恩を忘れるなと教わります」
「北方の教えは、ずいぶん多いのですね」
「便利です。今後も使います」
小さく笑いが起きた。
広間の空気が、少しずつ変わっていく。
王太子に捨てられた哀れな令嬢を見る目ではない。
ただ、ひとりの女性が踊っているのを見ている。
わたくしは、初めて舞踏会で息ができた。
曲が終わる。
エリアス様が、わたくしの手を取り、深く礼をした。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「足は?」
「少し、痛みます」
「では、座りましょう」
わたくしが返事をする前に、彼は近くの椅子へ案内した。
急がせない。
触れすぎない。
けれど、必要なものはすぐに差し出す。
侍女に温かい布を頼むその声に、押しつけがましさはなかった。
その様子を見て、マリアンヌ様がくすりと笑った。
「まあ。セリア様ったら、今度は足の痛みで殿方の同情を引くのですか?」
広間の温度が下がった。
昔のわたくしなら、黙っていただろう。
殿下を困らせないために。
殿下の顔を立てるために。
でも、もう合わせない。
「マリアンヌ様」
「はい?」
「足が痛いと言うことは、同情を引くことではありません」
わたくしは、静かに言った。
「痛いものを、痛いと言っただけです」
マリアンヌ様の目が見開かれる。
「それを弱さだと思う方は、誰かの痛みを踏むことに慣れていらっしゃるのかもしれませんね」
誰かが息をのんだ。
ルシアン殿下の顔が赤くなる。
「セリア、言い過ぎだ」
「殿下」
わたくしは、10年見続けた顔を見た。
「明日の継承舞踏は、マリアンヌ様と踊られるのですね」
「ああ」
「では、どうぞお大事に」
「何?」
「マリアンヌ様は先ほどから、倒れそうなお顔をなさっていますので」
マリアンヌ様の肩が跳ねた。
「殿下はお優しい方ですもの。きっと、何度でも看病に向かわれるのでしょう」
エリアス様が、小さく咳をした。
笑いを堪えたのだと気づき、わたくしは少し楽しくなった。
殿下は、わたくしをにらんだ。
「君は、本当に変わったな」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「やっと戻っただけです」
その夜、わたくしは王宮を出た。
馬車に乗る前、振り返る。
10年通った王宮。
10年、半歩後ろを歩いた廊下。
もう、見上げる場所ではない。
「セリア嬢」
馬車の外から、エリアス様の声がした。
「はい」
「明日の継承舞踏、来られますか」
「招待状は返しました」
「私の同伴者としてなら、入れます」
「なぜ、わたくしを?」
「見届けてほしいからです」
「何を」
「殿下がひとりで歩けるのか。それとも、あなたがいたから歩けていたのか」
「エリアス様は、意地が悪いですね」
「北方では、事実確認と言います」
わたくしは、少し笑った。
「考えておきます」
「では、明日の夕刻、迎えに参ります」
「まだ行くとは申しておりません」
「はい。考えておいてください」
馬車が動き出す。
窓の外で、エリアス様が深く礼をした。
その姿が見えなくなってから、わたくしは靴を脱いだ。
足裏は赤くなっていた。
けれど、痛みはもう怖くなかった。
痛いと言ってもいい。
歩けない日は休んでもいい。
誰かに合わせない日があってもいい。
そんな当たり前のことを、わたくしは10年かけてようやく知った。
翌日。
継承舞踏の大広間は、昼過ぎからざわめいていた。
王太子が婚約者を替えた。
しかも、前夜祭で。
その噂は、ひと晩で王都を駆け回ったらしい。
わたくしは結局、エリアス様の同伴者として広間に入った。
薄青のドレス。
踵の低い靴。
銀の飾りは、もうつけていない。
「緊張していますか」
エリアス様が尋ねた。
「少し」
「帰りますか」
「いいえ」
わたくしは前を向いた。
「今日は、最後まで見ます」
広間の中央には、ルシアン殿下とマリアンヌ様が立っていた。
殿下は美しい。
昨日より少し顔色が悪いけれど、それでも王太子らしく背筋を伸ばしている。
マリアンヌ様は白いドレスをまとい、花のように微笑んでいた。
王妃様の顔は、青ざめている。
わたくしと目が合うと、唇が震えた。
けれど、何も言わない。
言えるはずがない。
わたくしに銀の踵飾りを渡したのは、王妃様だったのだから。
やがて、夜明けの鐘を模した3つの音が鳴る。
継承舞踏が始まった。
1歩目。
殿下は問題なく踏み出した。
広間に、安堵の空気が流れる。
2歩目。
マリアンヌ様が、少し速い。
殿下が合わせようとする。
3歩目。
殿下の右足が、わずかに滑った。
ざわり、と広間が揺れた。
4歩目。
殿下の肩が強張る。
魔力の光が足元に落ち、青白い火花が床を走った。
マリアンヌ様が悲鳴を上げる。
「殿下っ」
「合わせろ」
「む、無理ですわ。速い、速すぎます」
「違う。君が遅いんだ」
わたくしは目を伏せた。
その言葉を、何度も聞いた。
君が遅い。
君が重い。
君は退屈だ。
違う。
殿下は、自分の乱れを、いつも隣の人間のせいにしていただけだ。
音楽が揺れる。
殿下が踏み込みすぎる。
マリアンヌ様の靴がもつれ、白いドレスが大きく傾いた。
殿下は彼女を支えようとした。
しかし、その瞬間、殿下自身の足が崩れた。
大広間の中央で、王太子は片膝をついた。
誰も声を出さなかった。
継承舞踏で片膝をつく。
それは、王権を受け取る足が整っていないことを意味する。
大神官が立ち上がった。
「舞踏を中断いたします」
「待て!」
ルシアン殿下が叫んだ。
「もう一度だ。もう一度やれば」
「規定により、夜明けの三鐘で一度乱れた舞踏は、その年の継承認定から外れます」
「そんな馬鹿な!」
殿下は立ち上がろうとした。
けれど、足元の魔力はまだ震えている。
彼は、初めて自分の足を見た。
初めて、わたくしのいない床を見た。
「セリア」
その声が、こちらへ向いた。
「セリア、来い」
広間中の視線が、わたくしに集まる。
エリアス様が1歩前に出ようとした。
わたくしは、手で制した。
自分で歩く。
今度は、自分の足で。
こつ。
こつ。
こつ。
広間の中央まで進む。
殿下は汗を浮かべていた。
マリアンヌ様は床に座り込み、震えている。
「セリア。踵飾りを戻せ」
「お断りいたします」
「これは命令だ」
「わたくしは、もう殿下の婚約者ではありません」
殿下の顔が歪んだ。
「10年だぞ」
「はい」
「10年、私の隣にいただろう」
「はい」
「なら、最後まで支えろ」
胸の奥が、静かになった。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、ようやく終わったのだと思った。
「殿下」
わたくしは、静かに言った。
「わたくしは、あなたの杖ではありません」
広間のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。
「あなたが転ばないように歩くことはできました。あなたが息をしやすいように、半歩遅れることもできました。あなたの魔力の揺れを、わたくしの足で受け止めることもできました」
「なら」
「けれど、それを当然だと思われた瞬間から、支えることは愛ではなくなります」
殿下の瞳が揺れる。
初めて、わたくしを見た。
顔でも、肩書きでも、役目でもなく。
たぶん、初めて。
「セリア、私は……知らなかった」
「はい」
「言ってくれれば」
「言いました」
「いつ」
「毎日、歩きながら」
殿下の唇が止まった。
「殿下、今日は少しゆっくりと。殿下、右足に力が入りすぎております。殿下、その靴では痛むでしょう。殿下、今日はお疲れですから、お休みを」
わたくしは微笑んだ。
「殿下は、そのたびに『細かい』『退屈だ』『君は歩くのが遅い』と仰いました」
ルシアン殿下の顔から、血の気が引いた。
マリアンヌ様が、震える声で言う。
「で、でも、王太子妃になるなら、それくらい当然では……」
「当然ではありません」
エリアス様の声だった。
低く、広間を貫く声。
「誰かが痛みを引き受けていることに気づかない者は、王冠の重さにも気づけない」
大神官が、静かに頷いた。
王妃様が顔を覆う。
王が、重い声で告げた。
「ルシアン。継承認定は1年延期する」
「父上!」
「1年、自分の足で歩け」
それが、裁定だった。
断罪の剣も、怒号もない。
けれど殿下にとっては、何より重い罰だった。
王太子として完成していると思っていた自分が、実はひとりでは真っ直ぐ歩けなかった。
それを、王国中の貴族の前で知られたのだから。
マリアンヌ様は、すでに殿下から手を離していた。
「わ、わたくし、こんな大事になるなんて……」
誰も慰めに行かなかった。
それが、社交界の答えだった。
「セリア」
殿下が、かすれた声で言う。
「私は、やり直せるだろうか」
「できます」
わたくしは答えた。
殿下の目に、わずかに光が戻る。
「なら」
「おひとりで」
光が止まった。
「殿下は、ご自分の歩幅を知らなければなりません。誰かに合わせてもらう前に、ご自分の足で立たなければなりません」
「君は、戻らないのか」
「戻りません」
はっきりと言えた。
胸は痛まなかった。
「わたくしも、わたくしの歩幅を知りたいのです」
殿下は、何も言えなかった。
わたくしは礼をして、広間の中央を離れた。
1歩ごとに、視線が変わる。
哀れみではない。
好奇でもない。
敬意。
たぶん、そう呼んでいいものだった。
エリアス様が待っていた。
「帰りますか」
「はい」
「歩けますか」
「歩けます」
「痛いときは?」
「痛いと言います」
エリアス様が、わずかに笑った。
「よろしい」
大広間を出ると、夜風が頬に触れた。
まだ夜明け前だった。
王宮の庭には、白い花が咲いている。
10年、何度も通った庭なのに、こんなに香りがするとは知らなかった。
「セリア嬢」
「はい」
「北方へ来ませんか」
あまりにまっすぐな誘いで、わたくしは立ち止まった。
「公爵家の療養地には、足を休める温泉があります。雪道は滑りますが、危険な場所では私が先に転ぶので分かりやすいです」
「それは、誘い文句として正しいのですか」
「改善します」
「今のままで結構です」
エリアス様は、少しだけ耳を赤くした。
「私は、あなたを支えたいと言うつもりはありません」
「はい」
「あなたを守りたいとも、今は言いません」
「なぜですか」
「あなたは、守られるだけの人ではないからです」
胸の奥が、また熱くなった。
「私は、あなたと歩きたい」
夜明け前の空に、薄い光が差していた。
「速い日も、遅い日も、止まる日も。あなたが自分で選ぶ歩幅の隣に、私の足を置きたい」
涙が、ひと粒だけ落ちた。
悔し涙ではなかった。
痛みの涙でもなかった。
10年遅れで、自分の足に戻ってきた涙だった。
「わたくしは、すぐには速く歩けません」
「はい」
「急に立ち止まるかもしれません」
「はい」
「誰かに合わせる癖も、きっと抜けません」
「そのときは、私が言います。今、合わせようとしましたね、と」
わたくしは笑った。
「厳しいのですね」
「北方では、好きな人には正直にと言います」
「また北方ですか」
「はい。ですが、これは本当です」
エリアス様は、わたくしの前で膝をつかなかった。
手を引かなかった。
ただ、隣に立った。
「セリア嬢。あなたが誰かの半歩後ろではなく、私の隣を選んでくださるなら、私は生涯、その歩幅を忘れません」
わたくしは、彼を見上げた。
10年前、雪の日に隣を歩いた少年。
昨日、わたくしの痛みに気づいた青年。
今日、わたくしを杖ではなく人として見た人。
「エリアス様」
「はい」
「北方には、朝食に甘いパンはありますか」
「あります。蜂蜜をかけます」
「では、考えます」
「蜂蜜で?」
「重要です」
エリアス様が、初めて声を出して笑った。
冬の空気のように澄んだ笑い声だった。
「では、北方公爵家の総力を挙げて、最高の蜂蜜を用意します」
「大げさです」
「婚約の申し込みですから」
わたくしは固まった。
「今、何と?」
「婚約の申し込みです」
「蜂蜜の話では」
「北方では、蜂蜜は誠意です」
「それは絶対に嘘ですね」
「はい。今作りました」
わたくしは、とうとう堪えきれずに笑った。
笑いながら、涙がまた落ちる。
エリアス様が慌てる。
「すみません。泣かせるつもりでは」
「違います」
わたくしは首を振った。
「嬉しいのです」
朝日が昇る。
王宮の塔が金色に染まる。
かつて、わたくしはその光を、殿下の半歩後ろから見ていた。
今日は違う。
隣に人がいる。
けれど、寄りかかってはいない。
手を引かれてもいない。
わたくしは、自分の足で立っている。
「エリアス様」
「はい」
「北方へ参ります」
彼の瞳が、静かに見開かれた。
「ただし」
「はい」
「わたくしの歩幅で」
エリアス様は、深く、嬉しそうに礼をした。
「もちろんです」
わたくしたちは、王宮の門へ向かって歩き出した。
1歩目は、わたくしから。
2歩目は、彼が隣で。
3歩目で、足音が揃った。
けれどそれは、わたくしが合わせた音ではない。
彼が奪った音でもない。
ふたりで選んだ、朝の音だった。
こつ。
こつ。
こつ。
もう誰かの影ではない。
もう誰かの杖ではない。
わたくしは、わたくしの歩幅で歩く。
そして、その隣には、同じ速さで笑ってくれる人がいる。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
と思っていただけましたら、
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