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038-2

 一番上の踊り場まで来て、アルフレッドはフェリクスの目を見る。


「ここなら、誰も来ないな」


「いいの? もし僕が兄様を突き落としても、目撃者がいないことになるよ?」


 ははっとアルフレッドが笑う。


「お前は、僕にそんなことをしないさ」


「信用してくれるんだ?」


「当然だろ。……お前は、僕の大事な弟だ」


「…………」


 ストレートな言葉に、フェリクスの方が目線を逸らして下を向く。

 そのフェリクスの顎を軽く掴み、上を向かせた。


「でも、…………どんなにお前が可愛くても、譲れないことがある」


「…………」


「フェリクス、お前、メリーローズが好きなのか?」


 その瞬間、フェリクスの体がビクリと動いた。

 長い沈黙の後、フェリクスが溜息をつくような声で囁く。


「…………うん…………」


 記憶をたどりながら、フェリクスが話し始めた。


「高等学院で、初めて学校生活をすることになって……最初はすごく不安だった。僕は王族ということになっているから」


「王族だよ、お前は」


「……一応王族の一員だから、他の学生から直接何かされたりすることは、ないだろうとは思っていた。でもそうではない、身分という後ろ盾がない学生は、容赦なくいじめの対象になっていると聞いて、憤りを感じていた」


(ミュリエル嬢のことか)


 すぐにアルフレッドは察した。


「兄様たちが教えてくれた『ノブレス・オブリージュ』。王族や貴族という立場にある者は、当然常識だと思っていたのに、貴族としての矜持も誇りもないような奴がそんなに多いのか、と頭に来た」


「……うん、そうだね」


 フェリクスは集団生活をしたことがなく、いわば純粋培養で育っている。

 それだけに曲がったことを許せない、純粋な心の持ち主であった。


「でも、そんなとき、メリーローズ嬢が颯爽と問題を解決した」


 フェリクスが顔を上げた。

 その表情には、正義のヒロインたるメリーローズへの憧れがありありと浮かんでいる。


 ――本人としては、単に苦し紛れに「ごきげんよう!」と叫んだだけのことだったが、フェリクスの中では恐ろしく美化されてしまっていた。


「すごい、と純粋に感動したんだ。たった一言『ごきげんよう』と言うだけで、ミュリエル嬢にまつわる問題を、解決してしまったのだから」


「……ああ」


 その通り。単に挨拶しただけである。


「他の誰を傷つけるわけでない、かしこくて優しい解決方法。そんなやり方、誰にも思いつかない」


 重ねて言うが、単に挨拶しただけである。

 しかも元はと言えば、フェリクスからのヘイトポイントを稼ぎたくないばかりに、苦し紛れに挨拶しただけである。


 だがフェリクスの中に芽吹いた「メリーローズ美化の花」は、そのまま彼の中ですくすくと育ってしまったようだ。


「僕も驚いたよ。メリーローズのかしこさは知っていたつもりだったのにな」


 アルフレッドの「惚れた欲目」が肥料となって、フェリクスの「メリーローズ美化の花」に更に降り注ぐ。


「単に頭がいいだけじゃない。その裏には身分を超えた思いやりと『ノブレス・オブリージュ』の精神があり、そのうえ……美しい」


「……ああ」


 メリーローズについて語るフェリクスの顔は紅潮していたが、やがて悲しげに眉を顰め、そして振り切るようにアルフレッドを正面から見た。


「彼女は素晴らしい。兄様の未来の伴侶に相応しい女性です」


「そう……言ってくれるか」


「はい!」


 今アルフレッドもまた、フェリクスの真っ直ぐな視線を真正面から受け止めている。


「最初に婚約が決まった頃こそ、僕はメリーローズに特別な感情はなかった。でも今は、心から彼女を愛しているんだ。……例え相手がお前でも、大事な弟であるお前でも、彼女は譲れない」


「勿論です!」


 笑顔で返すフェリクスの瞳には、涙が浮かんでいた。

 その涙を、アルフレッドの指が(ぬぐ)う。

 しかし涙はあとからあとから流れ落ち、指だけでは拭いきれなくなった。


 ついにアルフレッドがフェリクスを抱き寄せる。

 フェリクスはアルフレッドの背中にしがみつき、その胸の中で泣いた。



 もしメリーローズがこの場にいて二人の様子を見ていたら、歓喜のあまり踊り場から跳ね落ちていただろう。


「もうこの際、血が繋がった兄弟とか、関係ないわ! はい、萌え!」


 とかなんとか、倫理観の欠片もない言葉を叫んで、シルヴィアから突っ込みを入れられているはずだ。

 そんな女のために、フェリクスの美しい涙は流され続けたのであった。

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