表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

家紋師レイナ・ヴァシュタールの日常

作者: nukoto
掲載日:2025/10/22

ヴェルダ・クローネの旧街区。

石畳の裏路地は、昼を過ぎても薄暗い。

雨上がりの匂いがまだ残り、濡れた石が淡く光を返していた。


その奥に、一軒の工房がある。

扉の上に掲げられた銀の羽根と赤い盾――〈記録〉と〈守り〉を象徴する印章。

家紋工房《アルマ=ヴェルク》。


硝子越しの光が静かに揺らぎ、室内には紙と油の匂いが漂っていた。

その扉を、ひとりの老女が叩いた。



序章:忘れた家の名


「……ご相談があってまいりました。」


扉を開けたのは、右目に淡い光を宿す女――レイナ・ヴァシュタール。

家紋師として登録され、紋章教会とも契約を結ぶ者。

無駄のない所作と静かな声が、この場所の主を証していた。


「こちらへどうぞ。お足元にお気をつけて。」


老女は小さく頷き、杖を支えながら中に入る。

彼女の手には、布に包まれた小さな包みがあった。

震える指先でそれを差し出すと、包みの中から――焦げ跡の残る木片が現れた。


それがどんな形だったのか、今はもう判然としない。

しかし、焼け焦げた木肌の下には、わずかに線の名残があった。


「家の……形を思い出したいのです。」


レイナはわずかに眉を寄せた。

「“思い出すために”、ですか。」


「ええ。」

老女の声は震えていた。

「……私は、幼い頃に家族を失いました。

 戦で、家も村も焼かれてしまって。

 母の顔も、兄の声も、もう思い出せません。

 けれど、この破片だけは……残っていたのです。

 どうか――この形を蘇らせてください。

 思い出すために。」


言葉の最後に、老女の目からひと粒の涙が落ちた。


レイナはしばし黙してその涙を見つめ、

やがて静かに口を開いた。


「……わかりました。

 この焦げ跡だけでは何も読めませんが、血があれば“理”を呼び戻せます。

 形を再び刻めば、あなたの家は記録として生き直します。」


老女は深く頭を下げた。

「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。」


レイナは頷き、木片をそっと持ち上げた。

「“思い出すための記録”――いい依頼です。」



一章:解析と再現


工房の奥、白布を敷いた作業台。

灯りの火を落とし、レイナは手元の灯を調整する。

古い木の表面に浮かぶ微細な線を見逃さぬよう、光を斜めに当てた。


「盾紋系の構造……ただし、標準型とは違う。

 蔦の痕跡があるけれど、棘が外ではなく内側を向いているわね。」


老女はおそるおそる問う。

「……それは、悪い印、なのでしょうか。」


「いいえ。」

レイナは首を横に振る。

「外に向けた棘は“守る”。内に向けた棘は“包む”。

 つまり、これは拒むための形じゃない。抱くための構造です。」


老女はわずかに目を見開いた。

「抱く……。」


「ええ。守るよりも、迎え入れる意志。

 防御ではなく、赦しの意匠ですね。」


その声はどこまでも穏やかで、

研究者の言葉というより――祈りに近かった。


「ですが、これ以上は推測です。」

レイナは木片を置き、指を組む。

「次に必要なのは、血の媒介。

 “家の理”を呼び戻す鍵となるものです。」



二章:血の儀


「あなたの血を、少しだけ貸してください。」


老女は頷き、震える手で袖をまくった。

皺を刻んだ腕に青い静脈が浮かぶ。

レイナは無言で針を取り出し、消毒を終えると、

その先端をためらいなく皮膚に触れさせた。


一滴の血が、皿の上に落ちる。

その赤を煤と混ぜ、焦げた木片の上に薄く塗り広げた。


沈黙が訪れた。

灯の火が小さく揺れる。


血が木に吸われ、乾いた線がわずかに浮かび上がる。

それは光ではなく、木が理を思い出すような動きだった。

途切れていた線がつながり、かすかな蔦の輪郭を描く。


老女が息を呑む。

「……動いている……木が……」


「理が戻っているだけです。」

レイナは穏やかに微笑んだ。

「家の記録は、血と共に在るもの。あなたが“思い出そうとした”から、木が応えたのです。」


「そんなことが……本当に……」


「“記録”は、意志の形です。奇跡ではありません。」


レイナは灯を近づけ、板を慎重に回す。

現れた線を写し紙に移し取り、角度と圧力を確認する。


「盾の円弧。内側に蔦の模様。棘は内へ。

 線の角度は柔らかい。……これは、戦の紋ではないわね。」


そして小さく呟いた。

「この意匠……盾の輪郭、蔦の角度。

 古い系譜書に似た構造がありました。

 ――もしかして、《ローデリア家》では?」


老女の肩が震えた。

「覚えています……父が、その名を刻んでいました。

 でも、長いこと……思い出せなかったのです。」


レイナはそっと頷いた。

「血が呼んだのでしょう。

 家の“理”が、まだあなたの中に生きていたのです。」


老女は嗚咽をこらえながら、

小さく微笑んだ。

「……この子たちは、まだ私の中にいたのですね。」



三章:再構築


新しい樫板を台に置く。

刃を確かめる音が響く。

焦げた記録をもとに、レイナは新しい線を刻み始めた。


「盾の輪郭は、わずかに広げましょう。

 拒絶ではなく、迎え入れる余白を残す。」


刃が木を割る。音は柔らかく、呼吸のように規則的だった。

「蔦は左下から右上へ。緩やかに上昇。

 棘は内に伏せ、痛みではなく抱擁の意匠にする。」


老女は息を殺して見つめる。

刻線が少しずつ繋がっていくたび、心臓の鼓動が早まった。


「……そして、中央に――」

レイナは最後の一線を描く。

「生長点の輪。生き続ける証です。」


「それは……命の印、なのですか?」


「いえ。理の証明です。」

レイナは微笑んだ。

「人は死んでも、理は残ります。

 あなたの家が“帰る場所”を求めて刻んだ形。それがこの輪です。」


刃音が止む。

「……これで、完成です。」


レイナは刻刀を置いた。

新しい板に浮かぶ紋は、灰ではなく白の光を宿していた。

それはまるで、長い年月の闇を越えて――

ようやく息を吹き返したように見えた。


老女は板を抱き締めた。

「……この形、覚えています。

 母の刺繍にも、これがありました。

 “家を守る花”だと教えられて。

 でも、本当は“帰る花”だったのですね。」


「名を付けましょう。」

レイナの声は柔らかく響く。

「名は、形を生かします。」


老女は涙を拭いながら微笑んだ。

「……《白薔薇の帰環》。

 帰る輪、という意味です。」


「いい名です。」

レイナは小さく頷いた。

「あなたの家は、もう一度、ここに帰りました。」



終章:記録の羽根


レイナは工房の記録帳を開き、筆を走らせた。

羽根ペンの音だけが、静かな部屋に響く。



《ローデリア家――再記録》

《家紋名:白薔薇の帰環》

《意匠構造:白盾に内伏蔦。棘は内側に。中心に生長点の輪。》

《意義:防御ではなく迎え入れる構造。赦しではなく帰還の象徴。》

《備考:末裔の血媒介により理を再接続。記録確定。》



墨が紙に沈む。

レイナは銀の羽根と赤い盾の印章を押した。


老女は板を胸に抱き、目を閉じた。

「……これで、家族の顔を思い出せます。

 あの人たちは、ずっと私の中にいたのですね。」


レイナは静かに頷く。

「家は、消えません。人が忘れても、理は残ります。」


老女は深く頭を下げ、静かに扉へ向かった。

その背中を見送りながら、レイナは記録帳に一行を添える。



《この家は、確かに在った。》



それは証明ではなく、記録。

人が忘れても、形が残る。

形は、忘れた者が帰るためにある。


老女が去った後、工房には再び静寂が戻った。

外では、雲が割れ、夕陽が路地を照らしていた。


レイナは灯りを落とし、刻刀を拭う。

硝子に映る自分の影へ、そっと囁いた。


「記録とは、消えたものを呼び戻すことではない。

 思い出す“理”を、未来へ繋ぐこと。」


その声が止んだあと――

銀の羽根が、微かに光を返した。


まるで――忘れられた家が、

風の中でそっと微笑んだように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ