婚約破棄の瞬間、隣国の王子が私をさらっていきました — 監査妃は契約条項で恋をする
王都中央広場。真昼の鐘が三つ鳴ると、壇上の王太子は「ここに婚約を破棄する」と宣言した。歓声とざわめき。私は泣かない。泣くより先に、契約書を開く。
「殿下。第七条“解消事由”には『不貞・反逆・故意の虚偽申告』とあります。私、どれに該当しました?」
「監査の女は口が減らぬな。身分不相応だ。それで充分だろう」
「……条文にない語での運用は、無効です」
広場に笑いが走り、紙の端が日差しで透ける。王太子は眉をつり上げ、近習に何事か囁いた。書記官が慌てて羊皮紙をめくる。私の心拍は静かだ。怖さはとっくに監査局の廊下に置いてきた。
その時、白い外套が風を切った。
壇下の群衆が割れ、男が歩み出る。銀糸の縁取り、肩章に小さな鷹。隣国アルヴェールの第二王子ノア——外交席で見た横顔が、真昼を正面から見返している。
「王太子殿下。あなた方の婚約契約書、第三王国条約に抵触している可能性がある。異国民の人格権と監査独立を侵食する条項は条約上の無効だ。よって、保全措置として彼女を我が王家の保護下に移す」
「何勝手を——!」
「勝手ではない。手続だ」
ノアは外套の内側から、黒革のフォルダを取り出す。剣の鞘のようだが、中に収まるのは紙と印と紐だけ。彼は私の前に立ち、声を低めて問う。
「リリア・アーデン。あなたの意思は?」
私の名前を、淀まずに呼んだ。初めて会話した日の控えめな頷き方まで、きちんと覚えている声だ。
「保護を申請します。ただし——条件付けで」
彼の口元が、ほのかに笑う。「話が早い」
私はノアから羽根ペンを受け取り、白紙の暫定保護契約に記す。
一、保護は公的であり、私的でないこと。
二、私の監査職務の独立は全件維持。
三、感情に関する要求は後日別紙。
ノアは頷き、自分の名の横に印璽を押した。印が布に滲み、赤い輪が昼の真ん中に咲く。
「成立だ。——王太子殿下、続行を」
王太子は顔を赤くして叫ぶ。「国境を越えて口出しとは無礼千万!」
「条文に沿う助言は無礼ではない。ではまず、あなたの違反から」
ノアの目が冷える。「リリア嬢を公衆の前で侮辱した。人格権侵害。違約金は——」
「お待ちを」私は手を上げる。「違約金の算定は私の職務です」
場が静まる。私は壇の木目を数え、深呼吸を一度。
「第一に、公表の場の選定の違法。契約第九条『解消時は私室にて関係者のみで行う』。これに反し公開で実施。基礎額に加算二倍。
第二に、虚偽の事実摘示。『身分不相応』などという未定義語での断罪。加算一倍。
第三に、婚約期間中の財務干渉——私の監査報告を殿下の印刷所が廃棄した件。記録は保全済み。三倍」
ざわめきが風のように広がる。王太子の唇がわずかに震えた。
私は淡々と続ける。「合計、六倍。王家歳出からの支払いを求めます」
「証拠が——」
「あります」私は巻物を開く。紙に埋め込んだ糸封印が、昼光で薄く光る。「監査局式の改竄防止。糸が切れていない。真です」
沈黙。
広場の端で、誰かが乾いた息を飲む音がした。
ノアが一歩進み、王太子の前に書類を差し出した。「支払い不能なら、代替措置として王家所領の南谷学校を市民へ移管しろ。教育条項だ。王家が破るなら、民に譲る」
王太子は拳を握り、やがて吐き捨てる。「——好きにしろ。女と紙切れに国が振り回されるがいい」
「国は紙で動き、人で温まる」ノアは静かに返した。
決裁の印が落ちる音は、午睡を妨げない程度に柔らかい。それでも世界は、少しだけ組み替わる。
◇
迎賓館の応接室で、私は湯気の立つカップを前にノアへ礼を述べた。
「助力に、感謝します」
「助力ではなく協働。あなたが主語だ。僕はただ、条文の重さを外へ伝えた」
「そういう言い方、すこし助かります」
「助ける気は、ある」
笑い合う間にも、扉の向こうで靴音。現れたのはアルヴェールの文官長オルド。「急ぎの案件だ。王国側が差止申立。移管の効力停止を求めてきた」
私は即座に立ち上がる。「準備します」
ノアが頷いた。「評議は一刻後。証拠は?」
「監査日誌・印刷所の廃棄帳簿・王太子側からの圧力が示唆された納品停止指示書。加えて——」私は鞄の底から、小さな錠前箱を出す。「封緘箱。開錠は三人合意が必要。今日、三人がそろった」
三つの鍵が卓上で触れ合い、澄んだ音を立てた。オルドが目を細める。「用意がいい。まるで、こうなる未来を見ていたみたいだ」
「監査は未来を読む仕事です。数字の癖と、人の癖」
◇
政務評議の間は、天井が高く、声が冷える。円卓の向こうで、王国側の老貴族が杖を鳴らした。
「移管は拙速。教育は王家の慈善あってこそ——」
「慈善なら、帳簿に費目があるはずです」私は即答する。「しかし王家歳出の教育費用は、三年続けて名目だけ。実支出は祭礼費に付け替えられている。証憑、提出します」
紙束がテーブルを滑る音。老貴族の眉間に皺。
別の評議員が身を乗り出した。「だが婚約破棄は私事。公の場に持ち出したのは君の感情だろう」
「私事であれば、私室で行うべきでした。公衆の前で行われ、監査官の独立が侮辱された時点で、公共性が発生します。条文は感情を否定しません。ただ手続を要求するだけです」
ノアが淡々と補足する。「差止の根拠である『回復困難な損害』は、むしろ市民側にある。教育は時間資産で、日々失われる。一日の遅延は、子ども一人の将来収益の現在価値を下げる」
静寂のあと、評議長が木槌を軽く打つ。「暫定判断。差止申立は棄却。ただし移管手続の透明性確保のため、三十日以内に公開監査を実施せよ」
「受けます」私は即答した。
◇
公開監査は、市場の日の広場で。帳場机の向こう、私は絵を描くように数字を並べる。
「ここが付け替えの痕跡。祭礼費の増加が不自然に月末集中している。ここで印刷所が一時閉鎖。王太子の近習が納品停止を指示した日に一致。ここに見積差額。同じ机なのに、発注先が変わった途端、単価が二倍」
人々の顔が、眉根から理解へほどけていくのを見るのが好きだ。理解は、恐怖を一段小さくする。
その時、広場の端から怒号。「監査官のくせに、王家に盾突くのか!」粗末な布を肩に掛けた男が石を掲げる。
私は石ではなく、紙を掲げた。「王家の歳出を守るための監査です。あなたの税と、子どもの机を守るため」
男の手が下がる。群衆の中から、小さな声。「机、ほしい」
振り向くと、薄い靴の少女が母親のスカートを握っていた。私は膝を折り、「木陰の図書棚もね」と笑う。
監査が終わるころ、空は蜂蜜色になっていた。公開掲示板には、市民の投書が重なり、箱はぱんぱん。私は一枚を抜く。
《ありがとう。数字が初めて“言葉”に見えた》
胸の奥に、金具がゆるむ音がした。
◇
迎賓館の庭。草の匂い。ノアが水差しを持って現れ、私にグラスを渡す。
「今日の口頭更新、“好き”の定義は?」
「うーん……“相手の得意を、奪わないこと”。あなたの外交を私が乗っ取らない。あなたは私の監査を奪わない。助言は歓迎、指揮は不可」
「採用」ノアは笑う。「じゃあ、嫉妬条項は?」
「未定義のまま。未定義は未然防止」
「言葉遊びがうまい」
「遊びじゃなくて、運用」
彼は少し視線を落とし、言いにくそうに切り出した。「実は……王太子側が、国外の印刷工組合に圧力をかけてきた。学校用の教本が止まる」
私は即座に机へ行き、地図を広げる。「近郊の修道院製本所に回し印刷を依頼。紙は——港の卸が在庫過多、単価を落として契約できる。木版の図版は市井の職人に分散、小口契約でリスク回避。納期短縮の代わりに、職人側へ図版権の一部を戻す」
「図版権?」
「次版以降の印税。対価は金だけじゃない」
ノアは短く息を漏らす。「そうやって君は、世界をほどくんだな」
「ほどいて、結び直すだけ。固結びはほどけないから、二度と同じ場所に結ばない」
彼が頷いた時、日の向こうで燕がひと筋、空を切った。
「ところで、附則の件」ノアがわざとらしく咳払いする。「口づけは、どの条に——」
「附則一号。“当事者が合意したとき、予告なく施行できる”。ただし反射的に施行した場合は、笑いで相殺」
「相殺は万能だな」
「笑える間は、たいていのことが」
彼が半歩寄る。私も半歩寄る。影が重なる。
口づけはまだ附則の中。実施要件は満たしていない。けれど、予告はじゅうぶんだった。
◇
移管式当日。南谷学校の校庭は、木漏れ日と粉塵でまぶしかった。子どもたちの声は、誰の契約よりも伸びやかだ。
壇上で私は宣言する。「今日からこの学校は、みんなのものです。掲示板に意見箱を置きました。投書が百を超えたら、校庭に木陰の図書棚を作ります」
拍手と笑い。ノアが横で小さく親指を立てる。私はうなずき、続ける。
「授業の見える化のため、学期末に公開授業を実施します。先生も生徒も、うまくいかなかった授業を一つずつ出してください。失敗を共有資産に」
式の終盤、王国から派遣された若い役人が近づいた。「監査官殿、王太子からの伝言です。『いつでも戻ってこい』と」
私は一瞬だけ目を閉じ、すぐ開いた。「伝えてください。条文と机が待っているので、戻らないと」
役人は困った顔で去り、ノアがくすりと笑う。「最後の言い回し、温度があった」
「温度は戻らないのです」私は掌を太陽に透かす。「印は乾いても」
◇
公開監査から三十日。評議は最終判断を出した。
「移管手続は適法。王国は監査妨害の再発防止策を提出せよ。監査官リリア・アーデンは独立性を保ったまま、南谷学校の会計検査を継続すること」
広場に再び、人の波。
私はノアにささやく。「確認会、今夜できる?」
「もちろん。今日の議題は?」
「家の定義。あなたの屋敷を“家”と呼んでいいのか、口頭更新で決めたい」
「それは議題というより、願いだね」
「条文はいつだって、願いから始まるの」
彼の横顔が、夕暮れで薄く縁どられる。私はふと、前の生活を思い出した。
朝、監査局の廊下に積まれた箱。誰も読まない報告書。王太子の横顔だけが近く、机は遠かった。
今は逆だ。王子は遠い肩書きで、近い人だ。机は目の前。手を置けば、木目が返事をする。
◇
夜。迎賓館の広間に紙が広がる。二人で**別紙“温度に関する覚書”**を更新する。
【第三条(時間)】
一、口づけ・抱擁・手を取る等、儀礼外接触は、当事者の気力・体力・案件進捗を勘案し、無理しないの原則で運用する。
二、深夜の議論は翌朝へ持ち越し。眠気は過失相殺の対象とする。
【第五条(争論の場所)】
一、相手の得意分野で戦わない。外交はノアの卓上、監査はリリアの卓上。
二、卓を離れても決着しないとき、散歩をする。歩幅が揃ったら、だいたい解決する。
【第七条(秘密)】
一、二人だけの失敗は二人のもの。外部に出す場合は、物語に変換してから。
二、笑えない日は、笑えるまで待つ。待てない日は、温かい飲み物を淹れる。
「追記」私はペンを置いた。「帰る場所の定義。“机と人と、寝不足を叱る声があるところ”。どうでしょう」
「完璧だ」ノアは印を押す。「じゃあ、附則は?」
「“当事者が合意したとき、予告なく手をつなぐことができる”。施行の都度、幸せを計量する義務はない。ただ、覚えておく」
「覚えておく」
印台の赤が、日暮れの赤と混ざって、部屋の温度を上げた。
私は紙を閉じ、ノアの袖をつまむ。「午後の確認会、覚えてる?」
「もちろん。今日の議題は?」
「“好き”の定義、日次更新の方式について」
「それは議題というより、口実だね」
「条文はいつだって、口実から始まるの」
二人で笑う。鞘は静かに揺れ、刃は眠っている。
鐘が一つ、遠くで鳴る。
恋約は本日も有効。印は乾いたが、温度は乾かない。
◇
後日譚を少し。
南谷学校の図書棚は、投書が三百五十を超えた日に完成した。棚の影で、初めて文字を読む少年が、口の中で音をほどくのを聞いた。世界が増える音だった。
王太子は? あの人は叫ばない。叫びの代わりに、王国歳出の一部が、新しい机とチョークになって届く。赤字はまだある。でも、赤面は減った。
監査は続く。契約も続く。
そして、附則も。
— 完 —
〔契約×恋の系統〕
・「条文でぶん殴るな、包め。」(学園×契約)
・「監査官令嬢は“ざまぁ”を量る」(断罪×証拠)
・「聖地は畑から生まれる」(行政×再設計)
あとがき
“正しさ”は刃になりがちなので、鞘としてユーモアをまぶしました。推し条文があれば番号で教えてください。なお現実の法とは関係ありません。たぶん。




