表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄の瞬間、隣国の王子が私をさらっていきました — 監査妃は契約条項で恋をする

 王都中央広場。真昼の鐘が三つ鳴ると、壇上の王太子は「ここに婚約を破棄する」と宣言した。歓声とざわめき。私は泣かない。泣くより先に、契約書を開く。


「殿下。第七条“解消事由”には『不貞・反逆・故意の虚偽申告』とあります。私、どれに該当しました?」


「監査の女は口が減らぬな。身分不相応だ。それで充分だろう」


「……条文にない語での運用は、無効です」


 広場に笑いが走り、紙の端が日差しで透ける。王太子は眉をつり上げ、近習に何事か囁いた。書記官が慌てて羊皮紙をめくる。私の心拍は静かだ。怖さはとっくに監査局の廊下に置いてきた。


 その時、白い外套が風を切った。

 壇下の群衆が割れ、男が歩み出る。銀糸の縁取り、肩章に小さな鷹。隣国アルヴェールの第二王子ノア——外交席で見た横顔が、真昼を正面から見返している。


「王太子殿下。あなた方の婚約契約書、第三王国条約に抵触している可能性がある。異国民の人格権と監査独立を侵食する条項は条約上の無効だ。よって、保全措置として彼女を我が王家の保護下に移す」


「何勝手を——!」


「勝手ではない。手続だ」


 ノアは外套の内側から、黒革のフォルダを取り出す。剣の鞘のようだが、中に収まるのは紙と印と紐だけ。彼は私の前に立ち、声を低めて問う。


「リリア・アーデン。あなたの意思は?」


 私の名前を、淀まずに呼んだ。初めて会話した日の控えめな頷き方まで、きちんと覚えている声だ。

「保護を申請します。ただし——条件付けで」


 彼の口元が、ほのかに笑う。「話が早い」


 私はノアから羽根ペンを受け取り、白紙の暫定保護契約に記す。


 一、保護は公的であり、私的でないこと。

 二、私の監査職務の独立は全件維持。

 三、感情に関する要求は後日別紙。


 ノアは頷き、自分の名の横に印璽を押した。印が布に滲み、赤い輪が昼の真ん中に咲く。


「成立だ。——王太子殿下、続行を」


 王太子は顔を赤くして叫ぶ。「国境を越えて口出しとは無礼千万!」


「条文に沿う助言は無礼ではない。ではまず、あなたの違反から」

 ノアの目が冷える。「リリア嬢を公衆の前で侮辱した。人格権侵害。違約金は——」


「お待ちを」私は手を上げる。「違約金の算定は私の職務です」


 場が静まる。私は壇の木目を数え、深呼吸を一度。

「第一に、公表の場の選定の違法。契約第九条『解消時は私室にて関係者のみで行う』。これに反し公開で実施。基礎額に加算二倍。

 第二に、虚偽の事実摘示。『身分不相応』などという未定義語での断罪。加算一倍。

 第三に、婚約期間中の財務干渉——私の監査報告を殿下の印刷所が廃棄した件。記録は保全済み。三倍」


 ざわめきが風のように広がる。王太子の唇がわずかに震えた。

 私は淡々と続ける。「合計、六倍。王家歳出からの支払いを求めます」


「証拠が——」


「あります」私は巻物を開く。紙に埋め込んだ糸封印が、昼光で薄く光る。「監査局式の改竄防止。糸が切れていない。真です」


 沈黙。

 広場の端で、誰かが乾いた息を飲む音がした。


 ノアが一歩進み、王太子の前に書類を差し出した。「支払い不能なら、代替措置として王家所領の南谷学校を市民へ移管しろ。教育条項だ。王家が破るなら、民に譲る」


 王太子は拳を握り、やがて吐き捨てる。「——好きにしろ。女と紙切れに国が振り回されるがいい」


「国は紙で動き、人で温まる」ノアは静かに返した。


 決裁の印が落ちる音は、午睡を妨げない程度に柔らかい。それでも世界は、少しだけ組み替わる。


 ◇


 迎賓館の応接室で、私は湯気の立つカップを前にノアへ礼を述べた。

「助力に、感謝します」


「助力ではなく協働。あなたが主語だ。僕はただ、条文の重さを外へ伝えた」


「そういう言い方、すこし助かります」


「助ける気は、ある」


 笑い合う間にも、扉の向こうで靴音。現れたのはアルヴェールの文官長オルド。「急ぎの案件だ。王国側が差止申立。移管の効力停止を求めてきた」


 私は即座に立ち上がる。「準備します」

 ノアが頷いた。「評議は一刻後。証拠は?」


「監査日誌・印刷所の廃棄帳簿・王太子側からの圧力が示唆された納品停止指示書。加えて——」私は鞄の底から、小さな錠前箱を出す。「封緘箱。開錠は三人合意が必要。今日、三人がそろった」


 三つの鍵が卓上で触れ合い、澄んだ音を立てた。オルドが目を細める。「用意がいい。まるで、こうなる未来を見ていたみたいだ」


「監査は未来を読む仕事です。数字の癖と、人の癖」


 ◇


 政務評議の間は、天井が高く、声が冷える。円卓の向こうで、王国側の老貴族が杖を鳴らした。

「移管は拙速。教育は王家の慈善あってこそ——」


「慈善なら、帳簿に費目があるはずです」私は即答する。「しかし王家歳出の教育費用は、三年続けて名目だけ。実支出は祭礼費に付け替えられている。証憑、提出します」


 紙束がテーブルを滑る音。老貴族の眉間に皺。

 別の評議員が身を乗り出した。「だが婚約破棄は私事。公の場に持ち出したのは君の感情だろう」


「私事であれば、私室で行うべきでした。公衆の前で行われ、監査官の独立が侮辱された時点で、公共性が発生します。条文は感情を否定しません。ただ手続を要求するだけです」


 ノアが淡々と補足する。「差止の根拠である『回復困難な損害』は、むしろ市民側にある。教育は時間資産で、日々失われる。一日の遅延は、子ども一人の将来収益の現在価値を下げる」


 静寂のあと、評議長が木槌を軽く打つ。「暫定判断。差止申立は棄却。ただし移管手続の透明性確保のため、三十日以内に公開監査を実施せよ」


「受けます」私は即答した。


 ◇


 公開監査は、市場の日の広場で。帳場机の向こう、私は絵を描くように数字を並べる。

「ここが付け替えの痕跡。祭礼費の増加が不自然に月末集中している。ここで印刷所が一時閉鎖。王太子の近習が納品停止を指示した日に一致。ここに見積差額。同じ机なのに、発注先が変わった途端、単価が二倍」


 人々の顔が、眉根から理解へほどけていくのを見るのが好きだ。理解は、恐怖を一段小さくする。


 その時、広場の端から怒号。「監査官のくせに、王家に盾突くのか!」粗末な布を肩に掛けた男が石を掲げる。

 私は石ではなく、紙を掲げた。「王家の歳出を守るための監査です。あなたの税と、子どもの机を守るため」


 男の手が下がる。群衆の中から、小さな声。「机、ほしい」

 振り向くと、薄い靴の少女が母親のスカートを握っていた。私は膝を折り、「木陰の図書棚もね」と笑う。


 監査が終わるころ、空は蜂蜜色になっていた。公開掲示板には、市民の投書が重なり、箱はぱんぱん。私は一枚を抜く。

《ありがとう。数字が初めて“言葉”に見えた》

 胸の奥に、金具がゆるむ音がした。


 ◇


 迎賓館の庭。草の匂い。ノアが水差しを持って現れ、私にグラスを渡す。

「今日の口頭更新、“好き”の定義は?」


「うーん……“相手の得意を、奪わないこと”。あなたの外交を私が乗っ取らない。あなたは私の監査を奪わない。助言は歓迎、指揮は不可」


「採用」ノアは笑う。「じゃあ、嫉妬条項は?」


「未定義のまま。未定義は未然防止」


「言葉遊びがうまい」


「遊びじゃなくて、運用」


 彼は少し視線を落とし、言いにくそうに切り出した。「実は……王太子側が、国外の印刷工組合に圧力をかけてきた。学校用の教本が止まる」


 私は即座に机へ行き、地図を広げる。「近郊の修道院製本所に回し印刷を依頼。紙は——港の卸が在庫過多、単価を落として契約できる。木版の図版は市井の職人に分散、小口契約でリスク回避。納期短縮の代わりに、職人側へ図版権の一部を戻す」


「図版権?」


「次版以降の印税。対価は金だけじゃない」


 ノアは短く息を漏らす。「そうやって君は、世界をほどくんだな」


「ほどいて、結び直すだけ。固結びはほどけないから、二度と同じ場所に結ばない」


 彼が頷いた時、日の向こうで燕がひと筋、空を切った。

「ところで、附則の件」ノアがわざとらしく咳払いする。「口づけは、どの条に——」


「附則一号。“当事者が合意したとき、予告なく施行できる”。ただし反射的に施行した場合は、笑いで相殺」


「相殺は万能だな」


「笑える間は、たいていのことが」


 彼が半歩寄る。私も半歩寄る。影が重なる。

 口づけはまだ附則の中。実施要件は満たしていない。けれど、予告はじゅうぶんだった。


 ◇


 移管式当日。南谷学校の校庭は、木漏れ日と粉塵でまぶしかった。子どもたちの声は、誰の契約よりも伸びやかだ。

 壇上で私は宣言する。「今日からこの学校は、みんなのものです。掲示板に意見箱を置きました。投書が百を超えたら、校庭に木陰の図書棚を作ります」


 拍手と笑い。ノアが横で小さく親指を立てる。私はうなずき、続ける。

「授業の見える化のため、学期末に公開授業を実施します。先生も生徒も、うまくいかなかった授業を一つずつ出してください。失敗を共有資産に」


 式の終盤、王国から派遣された若い役人が近づいた。「監査官殿、王太子からの伝言です。『いつでも戻ってこい』と」


 私は一瞬だけ目を閉じ、すぐ開いた。「伝えてください。条文と机が待っているので、戻らないと」


 役人は困った顔で去り、ノアがくすりと笑う。「最後の言い回し、温度があった」


「温度は戻らないのです」私は掌を太陽に透かす。「印は乾いても」


 ◇


 公開監査から三十日。評議は最終判断を出した。

「移管手続は適法。王国は監査妨害の再発防止策を提出せよ。監査官リリア・アーデンは独立性を保ったまま、南谷学校の会計検査を継続すること」


 広場に再び、人の波。

 私はノアにささやく。「確認会、今夜できる?」


「もちろん。今日の議題は?」


「家の定義。あなたの屋敷を“家”と呼んでいいのか、口頭更新で決めたい」


「それは議題というより、願いだね」


「条文はいつだって、願いから始まるの」


 彼の横顔が、夕暮れで薄く縁どられる。私はふと、前の生活を思い出した。

 朝、監査局の廊下に積まれた箱。誰も読まない報告書。王太子の横顔だけが近く、机は遠かった。

 今は逆だ。王子は遠い肩書きで、近い人だ。机は目の前。手を置けば、木目が返事をする。


 ◇


 夜。迎賓館の広間に紙が広がる。二人で**別紙“温度に関する覚書”**を更新する。


【第三条(時間)】

一、口づけ・抱擁・手を取る等、儀礼外接触は、当事者の気力・体力・案件進捗を勘案し、無理しないの原則で運用する。

二、深夜の議論は翌朝へ持ち越し。眠気は過失相殺の対象とする。


【第五条(争論の場所)】

一、相手の得意分野で戦わない。外交はノアの卓上、監査はリリアの卓上。

二、卓を離れても決着しないとき、散歩をする。歩幅が揃ったら、だいたい解決する。


【第七条(秘密)】

一、二人だけの失敗は二人のもの。外部に出す場合は、物語に変換してから。

二、笑えない日は、笑えるまで待つ。待てない日は、温かい飲み物を淹れる。


「追記」私はペンを置いた。「帰る場所の定義。“机と人と、寝不足を叱る声があるところ”。どうでしょう」


「完璧だ」ノアは印を押す。「じゃあ、附則は?」


「“当事者が合意したとき、予告なく手をつなぐことができる”。施行の都度、幸せを計量する義務はない。ただ、覚えておく」


「覚えておく」


 印台の赤が、日暮れの赤と混ざって、部屋の温度を上げた。

 私は紙を閉じ、ノアの袖をつまむ。「午後の確認会、覚えてる?」


「もちろん。今日の議題は?」


「“好き”の定義、日次更新の方式について」


「それは議題というより、口実だね」


「条文はいつだって、口実から始まるの」


 二人で笑う。鞘は静かに揺れ、刃は眠っている。

 鐘が一つ、遠くで鳴る。

 恋約は本日も有効。印は乾いたが、温度は乾かない。


 ◇


 後日譚を少し。

 南谷学校の図書棚は、投書が三百五十を超えた日に完成した。棚の影で、初めて文字を読む少年が、口の中で音をほどくのを聞いた。世界が増える音だった。

 王太子は? あの人は叫ばない。叫びの代わりに、王国歳出の一部が、新しい机とチョークになって届く。赤字はまだある。でも、赤面は減った。


 監査は続く。契約も続く。

 そして、附則も。


— 完 —

〔契約×恋の系統〕

・「条文でぶん殴るな、包め。」(学園×契約)

・「監査官令嬢は“ざまぁ”を量る」(断罪×証拠)

・「聖地は畑から生まれる」(行政×再設計)


あとがき

“正しさ”は刃になりがちなので、鞘としてユーモアをまぶしました。推し条文があれば番号で教えてください。なお現実の法とは関係ありません。たぶん。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ