ぷくぷく、ぴちゃん
空気の中で溺れそうになるのは、魚だった記憶が残っているから。
そんなとりとめのない妄想がふとよぎる。
びちゃん……びちゃん……
また今夜もあの音だ。
私は水が滴る音を聞くと、窒息しそうな感覚にさいなまれる。
雨の日は憂鬱になり、ひどいときは耳栓をして過ごすほどだった。
精神科の先生によると、パニック障害の予期不安による発作だという。水音はそのトリガーになっているようだ。
交感神経の昂進によりアドレナリンが分泌過多になり、その体調変化への不安によってさらに昂進し、酸素を求めて過呼吸になり、窒息感をおぼえる。
そんな風になってしまった理由はわからない。そもそもパニック発作に理由などない。ただ、小さな子供の頃に公園の池で溺れたことはある。それがいわゆるトラウマになってしまっているのかもしれない。本当のところはわからない。
発作が起こると、どんなに強く息を吸っても、まだ苦しい。
溺れる感覚――。
ぷくぷく、ぷくぷく。
呼吸を。
呼吸を整えなきゃ――
いつもなら、それは雨の日だけの不安のはずだった。
しかし最近は――この二週間ほど、毎夜、不気味な水音が私を悩ませていた。
びちゃん……びちゃん……
びちゃん……びちゃん……
キッチンの方からだ。
最初は水道の締め忘れかと思った。しかし朝になって確かめても、蛇口からは一滴の水も垂れてはいない。
びちゃん……びちゃん……
雨音を恐れるあまり、ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのだろうか?
それも毎晩――
毎晩、毎晩、毎晩、毎晩!
ベッドの中で懊悩して、のたうち回り……
もう、呼吸を整えようが薬を飲もうが、治まりようがない。意識を保てているのが不思議なくらいだ。このままでは発狂してしまう!
このアパートに住み始めたころは、こんな音なんて……
我慢にも限界がきて、私は深夜の闇の中で起き上がり、水音の原因を確かめるべく、キッチンに赴いた。
安アパートゆえワンルームみたいな間取りだが、一応は1Kという事になっており、寝室とキッチンの間は引き戸で仕切られている。
私は恐る恐るその戸をあけて、隙間から中をうかがった。
暗闇――そして水音。
びちゃん……びちゃん……
意を決して、キッチンに一歩踏み入る。
ふと、何か小さな影が素早く移動し、足元を横切ったような気がした。
かさり、かさり……
ととん、ととん……
ごみ箱のあたりから、冷蔵庫の裏へ――まさかゴキブリ?
――いや、違う。
その小さな影はやがて私に近寄り、あまつさえ素足のままの私の足先に触れてきた。
かゆみを覚えるほどの、しかし鋭く爪を立ててくるような小さな感覚が、それを予期していなかった私の足の触覚に、ぞわりとおぞましい感触をもたらした。
背筋に寒気を覚え、声も出ない。
私は反射的に脚を強く前方に蹴りだして、足先にまとわりついた「それ」を振り払った。
小さな断末魔の鳴き声と共に、「それ」は向かいの壁にたたきつけられ、跳ね返って動かなくなったようだった。
私は腰がくだけたようになり、付近の壁にすがるようにして、電灯のスイッチをいれる。
ようやく明るくなったキッチンの床を確かめると――向こうの壁際に横たわっていたのはやはり虫ではなかった。
黒に近い灰色の柔毛と、小さな牙をもつ小動物――いや、おぞましき害獣が一匹。
大山鳴動してネズミ一匹、という言葉を、私はため息とともに思い出す。それは大人の親指ほどの大きさの小さなネズミだった。
ぎっとりと油にまみれたような不快な光沢をもつ、毛羽だった体毛。体格に不相応な長細い尻尾。そして鋭い牙――
私は理解した。
きっとあの水音も、この不潔で不快な畜生が水回りのどこかを齧り切ったのに違いない。
くそ、くそ、くそ!
齧歯目の分際で!
私はネズミの死骸を新聞紙越しにつかんでそれに包み、そのまま乱雑にゴミ箱へ放り込んだ。
ぴちゃん……ぴちゃん……
しゃがんで床を拭いていると、また水音が――
心臓を握りつぶされるような圧迫感。
そして、空気の中で溺れそうになるような窒息感。
この水音を止めなければ、私は――
意識で制御できない交感神経の昂進にいらついたまま、過呼吸を自覚しつつ、私は流し台を見た。水音は確かにそちらから聞こえているようだった。
やはり蛇口から水が垂れて――は、いない。
水音はシンクよりもっと下の方から……。
シンクの下にある収蔵庫には、買いだめてある砂糖や塩の袋、サラダ油の入ったペットボトル、小麦粉の袋などが置いてあった筈だ。
越してきたばかりの頃に、自炊用に買いおいた食材だった。
だけど最近は横着してフードデリバリーに頼りっきりだった。食材はほとんど使っていない。収納庫を開けることすら稀になっていた。
そして耳を澄ますと、その収蔵庫の戸の向こう側からも……。
かさり、かさり……
ととん、ととん……
まさか、ネズミがもう一匹……?
過呼吸は止まらなくなっていた。
唸り、頭を掻きむしりながら、私は収蔵庫に速足で駆け寄り、乱暴に両開きの戸を開けた。
刹那、血が腐ったような異臭が強く鼻を突いた。これは――
獣の臭い。
獣の死骸。
獣の排泄物。
獣の――。
手前に並べてあったはずの食料品の容器は、どれも無残に食い破られ、中身がこぼれ、かつて油のボトルの蓋だった黄色いプラスチックの破片が、細かく粉砕されてそこら中に飛び散っている。
ぴちゃん……ぴちゃん……
流し台の排水口から収蔵庫の中を通っている塩化ビニールの管の一部が、油の容器と同様に齧られ、小さな穴が開いているのが見えた。その下の白くカビた木製ボードの床が、湿気に大きくたわみ、窪んで、水溜まりが出来ている。
予期した通り、水音の原因はこれか――
そこでふと、また不快な音が、夜の静寂を乱すように、キッチンに微かに響いた。
かさり、かさり……
ととん、ととん……
電灯の明かりの届かない収蔵庫の奥から、物音……?
そこで私はまた、あの小動物に関するある言葉を思い出した。
ネズミ算――。
私はゆっくりと視線を収蔵庫の奥へと移動させた。
想像通りならば、これからよりより不気味なものを見ることになる。
かさり、かさり……
ととん、ととん……
収蔵庫の奥に何かがひそみ、蠢く……
おもわず、ひっ、と息をのんだ。
一匹や二匹ではなかった。
床に、壁に、何十匹、あるいは何百匹――影に潜み、黒々とひしめく、毛むくじゃらのおぞましい獣たち。
闇の中から、こちらを見つめる無数の――
ちいさな、赤く光る目。
目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。目。
そして一斉に、収蔵庫の床板に幾つも開いた穴から穴へと走り回る……
私はそれを目の当たりにするなり、パニック発作とはまた別の、心底からの身震いを自覚した。
めまいがして、意識が遠のきそうになる。
身の毛のよだつような、恐怖――というより、それはこみ上げてくる強い生理的嫌悪感。
かさり、かさり……
ととん、ととん……
あまりにも微かで、それでいて無遠慮な蹂躙の跡――
自分の何百分の一ほどの大きさしかない、禍々しき獣の群れが、無数に思えるほどに寄り集まって、互いに身を寄せ、時に踏みつけ合いながら、縦横に行き来しつつ、我が物顔でそこを占拠していた。
幽霊や妖怪なら、まだどれだけよかったか。
目をつむったところで、そこに確かに実在する、油脂と汚物にまみれた、信じがたいほどに小さな獣の群れ――というより、集合体。
そこで、ふいに電灯が切れて真っ暗になった。停電?――ネズミに壁の中の配線が切られたのかもしれない。
先ほどまでの明るさとのギャップで、視界が真っ暗に染まる。
その消灯を合図にしたかのように、獣たちは一斉に、再び暗がりとなった台所の床へと――私の方へと、溢れるがごとくに這いだしてきた!
かさり、かさり。かさかさかさかさかさかさかさかさ……
ととん、ととん。とととととととととととととととと……
その微かな異音が周囲に、私のすぐ近くまで侵食をはじめ、拡大してくるのと共に、湿った毛筆で撫でられるような不快な感触が、私の脚の甲の上を一匹、また一匹と……
「――――――!」
私は絶叫した。
しりもちをついたまま後ずさって耳を手で塞ぎ、頭を抱えてしゃがみこむ。
その間にも、おびただしい数の赤い瞳が、私の周囲を取り囲んで――
私は必死に、足元を払うように右足の先を不器用に左右に動かした。最初の一匹のように蹴とばして――しかしネズミどもはそれを意にも介さず、耳障りな足音を小さくちいさく響かせつつ、キッチンの床を集団で、右へ左へと動き回った。
ああ――あああ!
すでに床はネズミたちに埋め尽くされ、一部は寝室の方まで入り込んでいる。
来るな! 来るな!
顔を引きつらせ、涙を浮かべながら、私はようやく腰を浮かせた。そして壁にもたれかかりながら、鉄板の上でコサックダンスを踊らされているかのように、足元を必死で動かし、蹴とばし、払い、踏みつけ……
死ね! 死ね! 死ね!
素足の裏に、いや表にも、じめっとした、あるいはぬるりとした不快感を覚えながら、私はもはや自分でも何を叫んでいるのかわからないような喘ぎを必死に繰り返した。
微かな獣の断末魔、細い骨の砕ける感触、まとわりついてくる、粘性のある液体……
そしてまた、耳には間隔をあけて、水音が――。
ぴちゃん……ぴちゃん……
ぴちゃん……ぴちゃん……
そのたび、身体がこわばる。
やめて――!
パニック発作はそれを自覚したとき、さらにアドレナリンを過剰供給させ、交感神経の昂進を促す。その負の連鎖で過呼吸がひどくなっていく。
意識が精神の暴走を、感情の奔流を制御できなくなる。
もう、だめ……
息が、できない――私……溺れ……呼吸……
ぷくぷく。ぷくぷく。
ぷくぷく。ぷくぷく。
意識……薄れ……
…………
……
…
ぷくぷく、ぴちゃん。
(※七月某日、M県S市内のアパートで白骨化した状態で発見された女性の調査報告書より再現。)
もちろんこのお話はフィクションです。実在の人物団体等とは一切関係ありません。
が、夏は食材が痛みやすいので、保存・管理には十分お気を付けを。