8 このマグロ漁はフィクションです。ご了承ください。
たんたんたんたんたんたん……
近海一本釣り漁船のエンジンが鳴る。
風は凪。波は穏やか。
「マグロの群れが見えたぞおおおぉおっっl」
誰かの叫びとともに、いかにも歴戦の漁師といった姿のNPCがたちが一斉に太く長い釣竿を振り、釣り糸を飛ばす。
無数の釣糸が絡んで菊池祭り……じゃなかった、オマツリしないのはご都合主義だ。
漁船はNPCだけでは無い。プレイヤーもいる。
ついさっきまでモップ片手に甲板を掃除していた学ランの男子プレイヤーが、ストレージから釣竿を取り出し、餌の鰯を返しの無い釣り針に刺そうとするが。
「えっと……どこに刺すんだろ?」
VRが普及して数十年になる。もちろん釣りのゲームは存在するが、ほとんどの場合仕掛け等はメニュー画面などで簡単操作でできてしまう。
ちくわフルスロットルーー略してちくフルは、ロケットのように火を吹くちくわでレースをする……いわゆるバカゲーに分類されるVRゲームなのだが、本筋とは言いにくい漁業要素に無駄に力が入っていた。
学ランの少年のプレイヤーネームは離凡と言う。
離凡は鰯を観察する。漁業や自炊と無縁の離凡は、加工されていないイワシを始めて手に取った。
とっくの昔に〆られているイワシだ。はらわたが抜かれていないので生臭い。その生臭さが鼻の奥に達したとき、漁業への好奇心は完全に霧散した。
「まあ、口の中……なんだろうな」
イワシの中途半端に開いた口を覗く。やっぱり生臭い。離凡は鼻を摘まんで釣り針の先端を、床に置いたイワシの口に恐る恐る押し込む。
これで良いだろ、と釣糸を持ち上げるとイワシがポトリと落ちた。
「ドゥラッ!」
吼えるNPC。ヒレの黄色いマグロが宙を舞い、離凡の側に落ちる。
「邪魔だ!ドケェッッッッッ!」
自身の一本釣りで揚げたキハダマグロを取りに来たNPCが、離凡を突き飛ばす。
何すんだ、と言い返そうとしたら、細くしなやかな指が離凡の手を掴んだ。
「ごめんなさ~い。知り合いなのよ、ウフフ。よく言い聞かせときますんで」
ライダースーツを来た髪の長い女性が離凡の手を引いて船倉へ連れていく。良い匂いがしそうな気がした離凡は、思わず鼻を膨らませるが塩と魚の臭いしかしなかった。
「あんたが悪い」
女性ーー頭上のネームは『菊池白菊』は、離凡を船倉の床に突き飛ばす。
「ふげっ」
顔を打った離凡だが、そのまま前転し鮮やかに立ち上がった。
「何よ、ヤル気?初心者じゃあるまいし、プレイヤー同士じゃ戦闘はできない仕様よ」
戦闘の代わりにちくわでレース……なのだが、この漁船の中ではせいぜいミニチュアの四駆しか走らせられなさそうだ。そもそもミニチュア四駆自体実装されていない。
「いや、今のはあのNPCが僕にマグロを……」
「彼、当たらないように着地点をずらしたわよ。イワシの付け方がわからなければ誰かに聞けば良いじゃない」
テキトウにぶっ刺しなさいよ、と菊池はイワシの腹に釣り針を刺した。
「アタシらプレイヤーはNPCを攻撃できないのは知ってるでしょうけど「そうなの?」
大きくため息をついた菊池。
菊池の言う通り、プレイヤーは他のプレイヤーやNPCを直接攻撃できない。離凡が顔を打ったのは足を滑らせたからだ。
逆にNPCはプレイヤーを攻撃できる。ちくフルでは魚以外死亡しないが、殴られれば痛い。
「ああ、ガチの初心者なのね。なんでこんなところにいるのよ……」
「いや、初心者に支給されるちくわ全部使い切っちゃって……」
新規で始めたプレイヤーにはスケトウダラ100%、ミナミマグロ100%、サンマ100%のレース用ちくわがそれぞれ20本、無条件で支給される。
狙って即リタイアでもしない限り、全部使い切る頃には【連合ハマグリベース】であれば干しハマグリ5万個は貯まるはずだ。
それだけあれば並未満で低品質以上のマグロが20tは揃うはずだが。
「ドンだけ疾走ったの?まあそれはアタシも言えないけど」
きっとマグロを使い切ったのだろうと菊池は思った。
「いや~市場に鰯しか売ってなくて……」
イワシは特殊素材だ。鰯100%で作成されたちくわは、品質に関係無く平均より劣るスペックになる。使いこなせないちくわの性能を落とすために使うのが一般的だ。
例えば前章の連合ハマグリベース難易度7のコースのように速度を出しにくいコースで、どうしても加速性能の高過ぎるちくわしか用意できない場合に鰯を『付与』して性能を落とす。(その場合ちくわの重量は増えない)
要はデチューン用の素材なのだ。あと、食べても美味しい。
「先週の土曜……もう月曜になったから先々週ですか。ここで蟹が揚がった影響で相場が大荒れして……」
「ギクッ」
「RMT業者が色んな素材買い占めたとかなんとか」
「ほんとクソよね業者って。麗しき善良な上級者は、それに憂いて市場に挑んだのね。うん、誇らしいわ」
よくわからない言い訳は離凡の耳に入らなかった。
「初心者向けの漁船も業者が乗り込んでほとんど占有してるようなもんですからね」
菊池は勝手に納得した。自分で近海一本釣り漁船に乗り込んで素材を釣るのは、中級者以上か釣りに魅せられた者たちだ。初心者にはハードルが高い。
それでも望んだ魚が無ければ、自ら海や河川に出るしかない。
「でもよく調べるべきだったわね。マグロが欲しければ遠洋漁船や延縄漁船に乗れば良かったのに」
「絶対釣れるってNPCに言われたんですよ」
「そりゃあ……漁師のAI積んでるうえに、アタシらプレイヤーより力のあるNPCなら釣れるわね」
「えっ、それじゃ僕騙され……」
「アンタじゃ無理って事」
菊池は離凡を手招きして甲板に出る。
「さっきのNPCを見てみなさい」
離凡を怒鳴ったNPCの竿が軋む。
「ドゥラッ!」
竿が上がり、大きな魚がNPCの頭上を舞う。さっきと同じキハダマグロだ。
マグロは頭から落ちて横に滑り、跳ねて船のへりにぶつかって止まる。NPCは満足そうにマグロを拾い、甲板に空いた穴にマグロを入れた。
穴の底は解体場。頭を打って失神したマグロの頭に杭を打ち込んで絶命させ、胸ヒレの辺りを裂いて血を抜き、はらわたを抜く……と言う設定だ。
「甲板に釣ったマグロの頭をぶつけて失神させるの。でないと暴れて大変なのよ」
離凡は表情の無い顔で海を見て、釣られたマグロの軌道を顔で追い……凄まじい勢いで菊池を見た。
「僕がいたからそれができなかったんですね」
「それだけじゃ無いわ。マグロのお腹を打ったから、その分品質も下がったわ」
人の胴体よりもやや小さい大きさのキハダマグロが、次々釣り上げられて行く。
「今釣ってるのは30Kg前後くらいかしら。キハダは……アタシは美味しいと思うけど、そんなに高い値段が付かないの。リアルでもちくフルでもね」
「大変なんですね……30Kgッッッッッ?釣れるの?」
「アタシじゃ無理ね。リアルじゃどうなのかしら?きっと機械で釣るんじゃない?」
「倉庫がいっぱいだ!釣りは終了ッッッッッ!」
NPCの1人が叫ぶと、釣り人は作業を止めた。
「えっ」
嘘、僕、マグロ釣ってない……
離凡が崩れ落ちた。
「マグロじゃなきゃ……ダメ?」