38 無難な戦術
「レース前のあの態度で、こんな地味な戦術を選ぶか~」
メインストリートを過ぎれば20周目。観客席の珍走団風ギャラリーは中指を立てながら『万智緒』コール。横断幕には『100周差で侮恥偽劣』と書かれている。
「まさか……『ぶっちぎれ』なの?」
素晴らしい語学力である。
美しい日本語は置いておいて、この状況を打破するには決断がいる。視界のステータスバーでお互いのリソースが見えている。万智緒は前98%の後91%。菊池は前88%の後31%。ウイリーで減速し過ぎた。
いくら目を凝らしても、背後に万智緒の姿は無い。前方にも見えない。
「いよいよ腹をくくらなきゃね」
20周目、ヘアピンの手前でメインストリートの遥か彼方に敵影。遅い。その上メインストリート横のピットインへの道に入るのが見えた。菊池が減速し待ったところで、ピットインで回復した万智緒は停車……もとい停ちくわするだけだ。
コース逆走しての特攻も考えたが、逆走するだけでリソースが大きく減る。実行したところで万智緒はコースアウトしてでも避けるはずだ。コースに復帰し再び前進しても、大きく差を着けられれば取り返しが付かない。
ピットインの回復ゲートをもっと使うべきだったか。いや、どうせ万智緒は毎周回ピットインに入る。回復ゲートに菊池がいれば停ちくわして待つだけだ。
予想外、とは言え想定外。対応はできるし、いちおう備えてはいた。もう少しだ。もう少しマカジキを炭化させなくては。
ヘアピン突入でウイリー。あえてウイリーを継続し、マカジキちくわを消耗する。
あと10%……
■
2X世紀現在、日本人が乗用車やバイクなどの機械による2次元的な移動手段を用いて陸上で行うレーサーになるにはどうすればいいか?
最も確実な方法は、元トッププロを夫に持つ日本人妻の子供に生まれることだ。本人の進路希望に関わらず両親が絶対に英才教育を行い、マスコミが退路を断つ。
現役では難しい。元で無ければ。現役レーサーは本業で忙しく、子供を指導できない。優秀な指導者を雇うのも意外に難しい。指導者をとっかかりに様々な業界ゴロが父親の目を盗み子供に接触するからだ。
トッププロが妻でも厳しい……と言うか、女性レーサーが2X世紀には存在しない。
性差別では無い。女性が圧倒的に有利で、2次元的な動きのみの化石燃料でしか動かないクルマを扱う競技よりも遥かに人気と需要と収入と名誉が上回るスポーツが存在するのだ。
宇宙空間を人型ロボットで飛ぶ『ヒューマンギア』と言うスポーツだ。女性が圧倒的に有利、と言ったが間違いだ。女性の柔軟性が無ければ人型ロボットの操縦席でGに耐えられないのだ。脳髄以外を機械化すれば男性も乗れるが、サイボーグ化は未だに実験中。安全性に疑問があると言う。
人類の宇宙進出に応じて、クルマのレースは大きく廃れた。人口が大きく増加しているので数字は減っていないが、相対的に見ればファンも競技者もごっそり減った。
そのわりには、レーサーへの進路は相変わらず狭き門。貧困層が狙ってなるのはほぼ不可能だ。
競技人口が減った理由としては……中堅以下のレーサーの収入が年々減っていくのが1番の理由だろう。ひょっとしたらネット小説で1発当てた方が生涯収入が上なんじゃないか、と疑うくらいにだ。
逆に金さえあれば、幼いうちから指導と訓練は受けられる。地域単位の大会にも出られるだろう。指導、訓練、大会出場で出費は年間10億に届く、と言われているが。
それ以上の金額を動かせるなら、有力なレーシングチームや協賛企業に出資するのが有効だ。子供をレーサー志望のスタッフとして雇用し、手取り足取りホワイトな指導をしてくれるはずだ。
そう言った手段が取れない人々がレーサーを目指すとしたなら、どうすれば良いのだろう?
たとえば、万智緒のように。
万智緒がクルマに興味を持ったのは15歳の時だ。7つ歳上の従姉が化石燃料でのみ動かせるクルマを見せびらかしに来たのだ。従姉は万智緒を乗せ、ハイウェイに乗って海を見せ、一般道を通って山へ行き、ギリギリだがドリフトと呼べそうな曲がりかたで峠を攻めて見せた。
万智緒はもともとヒューマンギアに憧れていた。高校に入ったらヒューマンギア部に入って、乙女の嗜みとヒューマンギア道を進み、ヒューマンフォーなど叫びながら地区大会で優勝し、ヒューマンギア甲子園で優勝して、ドラフト1位でヒューマンギアチームに入団し、初年度でタイトル5冠を達成し国民栄誉賞を頂く、と言う現実味が皆無の人生設計を持っていた。
夢と呼ぶには薄っぺらいそれは、化石燃料独特の香りと轟く排気音で簡単に塗り潰されてしまったのだ。
従姉の助手席に乗って夜の道路を駆け抜け、時には誰もいないのを確認して運転を教わる。レーサーになりたいとは思うが、それに対する具体的な展望は無い。ただ、似たような仲間は集まった。
そう、仲間は集まった。展望を全く持たない仲間が集まった。展望など無く『俺またはアタシ……いつかレーサーになってビックになるんだ』とのたまう仲間だ。
とても残念なことだが、金も人脈も無い者には機会が無い。才能や実力があればスカウトされるかも知れない。だがこの時代では『初めてクルマを運転したのが15歳過ぎ』では遅すぎた。子供をレーサーに育て上げたい親は、幼稚園に入る前に子供をカートに乗せるのだ。ン十億円する本格VRシミュレーターを子供に与えるブルジョアだっている。
「フン」
29周目の回復ゲートをくぐり抜けた。視界のリソースを確認し、万智緒は鼻で笑う。
万智緒は前97%、後95%。菊池は前83%、……後17%。
よほどの何かをしない限り、菊池は状況を覆せない。そう万智緒は判断した。万智緒は菊池のリソースが尽きるのを待つだけだ。
菊池に残された選択肢は3つ。
万智緒を待って、チャージして落ちくわさせる。
速く周回して万智緒を後からチャージする。
速く周回して万智緒よりも多く周回する。
3番目が最も現実味が無い。
万智緒のタイムは遅い。遅いが、ちくわに使った蟹系素材のおかげで、菊池との差は3分前後。その差を今のところ維持できている。周回ごとのタイムは視界の左下に出るのだ。
難易度7は速度を出しにくいコースだ。蟹系素材の強力なコーナーリング補正で万智緒は実力以上の力を発揮している。
菊池のリソースを見る。ちくわの前後がほとんど入れ変わらなくなった。諦めたか?
だったら、いっそここで抜くか。リソースの減少に比例して、ちくわの重量は減っていく。レース開始時にはちくわそのものが1t、運転手が50Kg、シートも50Kg。
万智緒のちくわはほぼ1.1t。菊池は0.6t。
ストレートでまともに衝突する分には、重い万智緒が軽い菊池を吹き飛ばす。だがコーナーでインに入られたらどうなるか?
コーナーを曲がる途中でちくわにしろクルマにしろ、近い重量同士で衝突すればアウト側が梃子の原理で弾かれる。
万智緒は迷った。ちくわのレースは現実の物理法則を無視する部分がある。わからないことは、根拠無しに決め付けない方が良い。
結局万智緒は現状維持を選んだ。あと30周我慢すれば菊池はリソースが尽きる。そのはずだ。




