10 なぜあそこまで競りが白熱したのだろう?
チーン。
調理終了。カツオの刺身、たたき、寿司、焼いた切り身や煮付けがガレージのテーブルに並ぶ。
離凡の目を気にせず舌舐めずりする菊池だが。
ーーすごい。イワシが消えたッッッッッ!
菊池の心の深い部分に刺さった離凡の言葉が、もはや進行して抜く以外の選択肢が無いガタガタした虫歯のように揺らぐ。彼女はかつて無い決意を持って箸を止めた。
「……よ、よよよよければどうぞ」
初めての体験。自分の食事を他人に分け与えた。菊池は自ら他人に食事を分け与えたのだッッッッッ!
「いただきます」
緊張した様子の離凡は手を合わせてから箸を取り、切り身から丁寧に骨を外し腹の肉を行儀良く摘まんで口に入れた。
刺身からイクのかと思ってた菊池は少し驚いた。
「美味しいです。脂が無いってNPCが言ってたけど、結構乗ってますよ」
そう言うと離凡は煮付けに手を出す。
意外とオッサンなのか。
いやいや。良く考えると菊池も、若い頃はあまり刺身とか好きじゃなかった気がする。寿司も玉子とエビしか美味しいとは思わなかった。マグロや光り物や貝類の旨さがわかるようになったのは就職してからだ。
「母方の実家が農家でして、ゴールデンウィークに田植えで親戚一同集まって、みんなで火を通したカツオを食べるんですよ」
田植えの様子はTVでしか見た記憶が無い。
「秋は稲刈りで、やっぱりみんなで集まるんですけど、そのときはなぜかカツ丼が出るんですよね」
少しずつ煮付けが減って行く。菊池はタタキを……一切れ、なんといつもとは違ってたったの一切れのみを……無理やり行儀良く魅せて口に入れぎこちなく噛んで呑み込んだ。
「生魚は苦手かしら?」
だったらマカジキでも焼いた方が良かったかも知れない。菊池はそう思った。
「なかなか食べる機会が無いもので。寮では出ませんね」
寮。会社員、むしろ学生か。高校生では無さそうだ。VRゲーム用筐体を学生寮には置けない気がした。
「答えたくなければ別に良いけど……何かのスポーツでもやってるの?」
近海一本釣り漁船の船倉で倒れて顔を打った離凡は、首の力だけで跳ねて立ち上がった。まるで格闘ゲームのキャラクターのように。
菊池は実際にスキージャンプ、リュージュ、ボブスレーの選手を名乗るプレイヤーに逢ってレースをしたことがある。彼らはちくわの疾走から何か学ぶと期待してのことだが……期待外れの結果に終わった。
ここ10年、先に挙げた3つの競技の世界大会で日本人が全く活躍しないのはその証明なのでは、と菊池は結構気に病んでいる。
他にもアイススケート系競技、スノーボード系競技、クロスカントリーの選手もログインしたと噂を聞いている。おおっぴらに宣伝しない事実から……悲しい結果を察するしか無い。
「何て言うかちくわのレースはあまりスポーツに………………いえ、全く参考にならないと思……………………断言するわ」
「いえ、好きでやってるんで。それに良い体験をさせていただいてますよ」
アスリートなのは否定しなかった。なるべく追及はしない方が良さそうだ、と菊池は話題を変えた。
「そうそうアンタに渡すカツオは3tで足りる?」
「えっ、そんなに?そこまでしてもらう理由がありませんよ!」
「5周したから十分足りてるわ」
「5周?何を5周したんですか?」
「さっきみたいな漁船で、アタシの知ってる漁場を5周したの。他のプレイヤーと素材を交換したかったから、できるだけ多く押さえておきたかったのよ」
うわぁ、と離凡はドン引きした。
「僕、あんな風に釣れませんよ」
「釣りは別に必須じゃないわよ。それにゲームだから簡単に釣れるようになってるの。学生の頃にリアルで漁船に乗ったけど……あんなに釣れないから」
「乗ったんだ……」
「こまめにタイムアタックをやれば素材が尽きることはまず無いわ。うん、今は異常事態だけど」
2人は自らのガレージに戻る前に市場を見た。……正月の大間かYO!って突っ込みたくなるほど相場が高騰している。
「ねえリボン君。どのちくわに乗ってるの?」
「まだ色々試してるところです。コーナーがとても難しくて……」
ああ、きっと曲がりきれなくてコースアウトしちゃうんだなぁ。アタシもアイツに教わるまでコースアウトしまくりだったもん。
「いつも入ってすぐスピンしちゃうんですよね」
「ん?」
予想と異なる。上手く速度を殺せなくてコーナーの外にコースアウトでは無いのか?
そうか。クロックかリバースが上手く行かないのね。
「ああいうのって……」
「うんうん」
菊池だって初心者だった。出会ったプレイヤーの親切でランキング78位、いや日付が変わる前に77位になったのだ。助けてくれたプレイヤーたちはもう引退してしまった。だったら初心者を支えねば。
近い将来、確実に引退するのだからなおさらだ。
「オーバーステアって言うんですよね?」
「ん?」
初心者がその言葉を知っているのは理解できる。他のレースゲームから流れて来たプレイヤーは非常に多い。ドリフトを理解していてもおかしくは無いだろう。
「アンダーステアじゃ無くて?」
言い間違いなのだろうと菊池は解釈した。覚えたばかりの言葉を格好つけて使ってみたいのだろう。イヤミっぽく聞こえるかも知れないけど、これから先に恥をかかせないよう訂正してあげなければ。
「ええとですね……」
離凡の目が泳ぐ。非常に説教臭かったかも、と菊池は反省した。
「何て言えば良いんですかね。コーナーに高速で……そうだな、10チクワン以上で入って……減速せずに進んで……」
「長くダウンすると結構ちくわ震えたり跳ねたりするよね。軽くダウらないとお尻が持ち上がって転がっちゃうし」
速度を抑えずコーナーに突入して曲がり切れない。上手く方向転換できず、ちくわがコーナーの外へ向かってしまう。それがちくフルに置ける『アンダーステア』の定義だ。菊池はそんなにクルマには詳しくないので、実際の『アンダーステア』がどうなのかは知らない。
「まあ、コースアウトするわよね」
「そうです。コースアウトしちゃうんです」
「アウト側にね」
「イン側にです」
「えっ?」
峠とかでは、車輪が4つあるクルマではそうなるかも。
しかし菊池は知っている。コーナーの終わりでも無い限り、偏って消費したちくわでのロデオワークのミス以外では、まずそうはならない。
なぜならちくわには車輪が付いておらず、最高速度12チクワンに達するまで常に加速し続けるからだ。小学校低学年向けゆえのちくフル特有の補正……というのもあるが。
コーナーでは必ず遠心力がかかり、地面に食らい付くタイヤが無い。下手にダウンやウイリーで大きく減速すれば転がる。それこそ野球等のグラウンド整備に使うコンダラのように。
「…………1回手本見せる?」
「良いんですかッッッッッ?」
済まぬ……
ショタ属性の方々、済まぬ。
離凡の中の人は……オ●コ塾のモブに良くいるタイプのマッチョなのじゃ……