水曜日/黄の車輪
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③水曜日は鏡の中の鏡
『さて,水曜日のことだ』
尋問官の声
低温域を往復するような声
乾いた頁を捲る音のような声
空調が少し強くなり
天井の蛍光灯が微かに揺れる
マーダーMの前髪がふわり
風にわずかに持ち上がり
その一房が彼女の眉間に触れた瞬間
だけ——この部屋のすべてが止まる。
『S高校の
美術教師が死んだのは
知っているかな?』
『……』
尋問官の言葉は
まるで報道のように簡潔だった
その奥には埋められた
砂時計のような深度がある
その奥には明らかな疑惑の目
切れ長の目は40の半ばのそれ
『彼の教室にはおかしなところがあってね…。全ての鏡が逆さに貼られていた。上下ではなく/左右でもなく/“内外”が反転していた。』
『彼の胸には……彼の着ていたジャケットの胸には……という意味だが…“TIPS”という文字が逆書きで刻まれていた。裏返された筆跡で。件の魚事変とも似ていると感じてはいる。少なくとも私はね。』
マーダーMの瞳が動く
網膜が動く/少量の瞬き
それは言葉への反応ではない
それは只の呼吸のようだった
視線を使い肺を膨らませている
『君は鏡の中の自分を疑ったことがあるか?本当の自分なのに左右が反転している。疑問に思ったりは?』
私の背筋が僅かに震えた
壁のこちら側でも言葉は「映る」。
「映る」ものに対して我々は無力だ。
人である以上,それは避けられない。
『美術教師の教え子たちは皆,
奇妙な証言をしてくれた。』
『彼が最近
よくこんなことを言っていたと——』
「……鏡は真実を写すんじゃない
魂の逃げ場を閉ざすんだ。」
「……あれは出口じゃない
偽の入口だ。」
「……自画像を描く時
必ず後ろに誰かがいると感じる。
誰もいないのに。その筈なのに。
みんなはどう感じている?」
『……』
マーダーMは再び
組んだ脚の向きを変えた
今度は左脚が上にくる
その一連の動きの中に音はない
ガーターベルトの大腿部
その貨物車に乗りかかりたがる男
その脚線美に嫉妬するのが女
美…致し方のない有無を言わせぬ造形
音…マーダーMから発せられる音は
常に「無音」である/諸行無常
彼女の存在を一層神秘的にしていた
『…彼の自宅。…アトリエの鏡には、ある“痕跡”があった…口紅で描かれた円。それも、反時計回りの渦のような円』
『……』
はじめて彼に視線を合わせる女
その刹那/私の視界には“ひび”が入る
何かが割れる音がする
鼓膜ではなく脳に直接響く音
何が割れたのだろう?
誰か教えて欲しい
『……』
沈黙
『……』
沈黙/そして
『……自分に殺されたのね…』
彼女は小声で言った
『……くす』
彼女は小さく笑いもした
(彼はずっと,
片方の世界にしか生きてこなかったの
もう片方の自分が反乱を起こしたの)
(鏡って……ずっと写してるでしょう?
写すだけ写して何も言わない。で
もね,あれは学んでるのよ。
真似してるの。)
「私」はのちに同尋問の記録を,
動画を,隅々まで確認したが
マーダーMはそのように発言していない
「私」自身が騙されていたに違いない
その唇に/その指先に/その脚線に
だからこのようなミスをする
そしてミスを正当化しようともする
尋問官はノートの1頁を破り
裏返して何かを書き留めている
それもまた何かの儀式のようだ
『なあ,どうなんだい
君は,どう感じるんだい
--君が鏡を見たとき
--本当に写っているのは君なのか?
--人の姿をした悪魔じゃないのか?
--もし悪魔だったとしたら
--その口約束は性善説と
どの程度仲良くできるんだ?』
『……』
マーダーMは目を閉じる
まぶたの裏
きっと彼女だけの鏡があるのだろう
その奥に閉じ込めたものが
まどろみ,息をしている
『死体の両目には
鏡の破片が詰め込まれていた』
『そして耳の奥には、ピアノの低音。録音されたものが流れていたらしい。延々と続く/ホ長調の和音。』
『教師は/目で見て/耳で聴いて、
“鏡の中の音楽”に
包まれながら死んだ』
尋問官はそう言い終えると
椅子に深く背を預けた。
呼吸の音が一拍だけ/部屋に満ちる。
マーダーMは
もう一度だけ唇を動かした
おそらくこの記載も誤りなのだろう
きっと彼女はそのように喋ってはいない
永遠の長さで私の脳内に刻まれているが
きっとこのような発言をしてはいない
ーーー私が彼女を偶像化しているのだ
ーーーその美しさに酔っている?
ーーーのか?????
(…水の中に住んでいる魚は
水を見ないのよ)
(…人間も同じ。
“現実”を見ていないわ。
ただ、写っていると思い込むだけ)
(…鏡の中の私が微笑んだとき
わたしは笑っていないでいられるわ
おかしい?かしら?)
私は震えながら
壁の向こうでメモを取る
5mmの方眼紙がやけに頼りなく
やけに不確かなものであると感じる
水曜日/残されたものは
みぞおちに残る車輪の図形
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