桜、舞
いよいよ桜が満開となる季節になってきましたね。春とは「変化」の季節であり、出会いと別れの季節でもあります。本作品は、別れによって折れた主人公が、出会いを通して変化するというお話となっております。是非最後まで読んで頂けると幸いです。
「じゃっ、まったな〜、秋元」
「おう」
温かい春風を肌で感じる。桜はまだ咲かないが、もう冬はすでに過ぎ去った季節。
ちょうど春休みで、サークル活動を終えた俺は、友人と別れて帰路についた。
俺は秋元凛太郎。国立大学に通う大学2年生。ごく平凡な、どこにでもいる学生だ。
(にしても今日のサークルも退屈だったな…。)
最近はやたらと面白いことがない。
そう、本当に面白くない。
本来楽しいはずのサークル活動も全然楽しめない。
あの日から、俺の見ている世界は変わってしまった。
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昔は俺にだって、恋人がいた。名前は、舞。
才色兼備で、明るくて人あたりが良く、そんでもって無垢で周りの憧れの的のような存在だった。
俺と舞は中学の同級生で、3年生で初めてクラスがいっしょになって知り合ったのだが、成績がたまたま同じくらいで2人でクラス1、2位を争っていたような仲だった。
そのお陰もあってか彼女とはずいぶん親しくなり、勿論同じ高校へ進学した。
高校へ進学した後、運良くまたクラスが同じで、しかも互いに他の知り合いが誰もいなかった。
席も近くて、できる友達は共通の人ばかりで、更に仲良くなって、そして恋仲にまで発展した。
恋人同士になってから、舞との時間はますます楽しいものになった。一緒に遊びに行って、勉強して、たくさん話して、笑い合って。
その幸せがずっと続くと思っていた。
彼女こそが運命の人だとも信じていた。
でも、違った。
いつも優しくて、明るくて、天真爛漫で、可愛くて……ずっと守り続けたいと思った最愛の彼女は、高校2年の3月、死んだ。
事故死とかよりもっと残酷なものだった。
彼女は病死した。
癌患者だった。
もともと小児癌で、一度は早期発見できたので手術も成功していた。
けれど高校生になってしばらくしてから再発が発覚した。
症状がなかなか現れない部位で、気づいたときにはもう遅い。かなり進行しており、転移もしていた。しかも転移先が手術不可能な場所だった。
彼女が死ぬ間際、俺はひたすら泣いていたのは覚えている。
でも、それだけだ。彼女がなんて言っていたか、どんな会話をしたのか全く思い出せない。
あの日が過ぎてから、記憶が抜け落ちたのだ。そんな過去の存在自体を否定するかのように。
そしてそれと同時に、俺も心の中の「何か」を落としてしまった。
それからは空虚感ばかりが俺の中にあった。なにをするにもやる気がでない。楽しめない。友達も減った。と言うより減らした。4月になっても受験勉強に殆ど身が入らず、本来は第3志望にしていた今いる大学も、落ちるはずないと言われていたのに一度浪人してから入ってしまっている。
勿論精神科やカウンセリングにも行った。けれど効果なんてものは皆無だった。
そして、舞以外のことが、ほとんど何も考えられなくなるほどに、俺の心は荒んでしまった。
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(今日も帰ったらゲームでもするか…)
虚無感を紛らわすためにもゲームをいろいろやってるが、最近どれも大体クリアしていてやることもなくなってきている。
しかも俺はまだ大学生なだけあってそんなに金もないので新しいものを買おうにもそう簡単にはいかない。
そうしてぶらぶらと帰り道を歩いていると
「そこのおにーさん、ちょっといいですか?」
どこからかそう声をかけられた。
声のした方向に振り向くと、1人の少女が立っている。
その姿を見て、一瞬愕然としてしまった。
(舞……!?)
でもよく見てみればわかる。舞ではない。
…こんな所にアイツが現れるわけないのだ。
その少女は黒髪でロングヘアの美人だった。顔貌も舞にそっくりだ。
この娘、年は高校生くらいだろうか?制服を着ていないのでもしかしたら大学生かもしれないが、直感でそう感じてしまった。
「…?」
(あ。)
つい黙ったまま直視すぎてしまったと、その少女が首を傾げたのを見て我にかえった。
「えっ、…俺?」
「そうですよー」
(え、まじかよ。)
見知らぬ女の子に急に話しかけられ戸惑いを隠せないでいると、彼女は笑顔でこちらに近づいてくる。
そして上目遣いで信じられないことを言いやがった。
「一晩だけでいいですから…私をお兄さんの家で泊めてもらいませんか?」
「はぁ!?」
俺が仰天して声を上げるも、彼女はお構いなしに続けた。
「そう驚かないでください。私、進路のこととか、生活のこととか、家族とそりあわなくて大喧嘩して、家出しちゃって。行くあてもないので、泊めて欲しいんです!」
いやそういう問題じゃないんですけどね!?俺が驚いてるのは!
てか進路って、やっぱり高校生なのか。
「いやいやいや!そうだとしても男の家に見知らぬ女子を入れるのはどうかと…ってかどうして俺??」
「いやぁ、なんとなく優しそうだったから?ってことでお願いしますよぅ。」
「人を見かけで判断するものじゃありません。」
「お願いしますって!なんでもしますから!朝からなんにも食べてないからお腹もすいちゃってるし…」
「君みたいな年の子がなんでもしますなんて言っちゃだめだろう…」
なかなか頑固である。呆れたものだ。
とにかく人に聞かれでもしたらまずい。早くこの場を脱しなければ。でも――
この少女と、舞がどうしても重なってしまう。
本当に舞が目の前にいて、話しているように思えてしまう。
―心の表面では、受けるべきことじゃないと考えているのに、深部にある、「もっと話していたい、舞と笑い合いたい」
という叶わぬ思いが、それを受け入れない。
暫くはぎゃーぎゃー言い合ったが
「いいじゃないですかー、ね?」
なんて、こちらをじっと見てくる。
引き下がる気はどうやら微塵もないらしい。
「……もう、わかったよ…。勝手にしてくれ……。」
「やったぁ!お兄さんやさしい!」
そうやって、俺は承諾した。してしまった。半分くらい、無意識に。
そうして再度家に向かって歩き始めると、にこにこしながらついてきた。
数分無言で歩いた後俺から口を開いた。
「…ほんとになんでなんだよ。見知らぬ男に声かける時点でおかしいのになんであんな引かなかったんだ?」
「なんとなく優しそう、なんて、そんな軽い理由だけなのか?本当に。」
「……。なんだろ」
少し間をおいて彼女が答えた。
「大半それなんですけど…。しばらく一緒に歩いてて、なーんか初めて会った気がしないなーっては感じてますね。」
そう言う彼女に、再び舞の姿が重なってしまう。
…いやいや、赤の他人だろう。こんなこと考えたらあいつにもこの子にも失礼だ。
ああああ駄目だ。どうしても考えてしまう。
(というか、初めて会った気がしないだと?
…まさか。いやいやいや、そんな馬鹿な。)
変に悩んでも仕方ないので、取り敢えずなんか返しておくことにした。
「大半それなのかよ」
「なんでツッコミがそんな遅いんですか?」
己の邪念を振り払うためにも突っ込んでみたらなんか変な空気になった。
「いや…いいでしょそんなこと…。」
「そーゆー貴方もそんなこといいつつ結構あっさり承諾した気がしますけど。」
「うぐっ」
やめてくれ。そこを突かれるのはちょっと痛い。
「いやさ、ほら、人にあんなとこ見られても嫌だろ?」
「現に結構見られてると思うんですけど…。まぁ私も私服だしそんなに怪しくはないですから大丈夫ですよ」
「…………」
そうあれこれ話しているうちに家に着いた。
「着いたよ。この部屋だ。多少荒れてるけど勘弁してくれな。」
「は〜い!」
そして玄関の鍵を開け、中に入ろうとすると、彼女が何か思い出したように「あ、」と言った。
「自己紹介がまだでしたね。私は瀬名香澄っていいます。高校2年です!貴方は?」
「秋元凛太郎。Y大の2年生。」
「そうなんですね!よろしくお願いします凛太郎さん!」
「…おう。」
そうして俺たちは部屋の中に入った。
高校2年…か。やけに彼女と――舞と姿が重なるわけだ。
家に入ってからも舞のことばかり考えている。
「あ、このゲームやってるんですね!スマッシュヒーローズ!私これ大好きなんだ〜。」
そう言って彼女が取り出して来たのは結構多くの男子学生がハマっているような対戦アクションゲーム。そこらの格ゲーとは少し違った要素があってはじめは楽しんでいたが、最近飽きてきた代物だ。
「お、そうなんだ。暫くやってなかったしな。折角だしやるか?」
「えーー、いいんですか?やった!」
それからゲームを立ち上げ、2人で没頭した。どのキャラが好きかとか、どんなアイテム持ってるかとか、好きな対戦ステージとかあるかとか、他愛もない話をしながら結構長い時間プレイした。
「20戦目も勝ち。俺の全勝だな。」
「あ゛〜〜〜もうまた負けたぁ〜!凛太郎さん手加減はしてくださいよぉー。」
「…最初の2、3戦までは本気だったけどそっから手抜いたぞ…?」
「えー、うそだぁ〜」
そして互いに顔を見合わせてクスクスと笑いあった。
…なんだか、久しぶりに楽しめた気がする。
「あー、もうこんな時間だ。」
瀬名さんが時計を見ながらそう言うので、俺も時計の方に目をやると、それはもう夕方5時半を指していた。
「あ、やっべ。夕飯が…。2人分の材料なんか無いぞ今…。」
今ちょうど食材を切らしている所であり、本当は今日買いに行こうかななんて思っていたのだが、すっかり忘れていた。
「行ってきていいですよ、買い出し。ちゃんとお留守番してますから。あ、その代わり夕飯作るのは私も手伝いますね!」
ん?なんか押し付けられた?
「買い出しは俺が行く前提なのね。」
「だってもしお母さんとかに見つかったら私殺されちゃう…」
「君親に虐待でも受けてんのか???」
「いやいや冗談ですって〜。でも会いたくないな…。」
そう駄弁ってから俺は立ち上がり、「行ってくる」と一言添えて部屋を出た。
「行ってらっしゃい」と声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
買い物の間も、彼女と舞のことを考えていた。
彼女に対しては多少なりとも罪悪感がある。
彼女を招き入れたのは俺の善意なんかではない。
ただ、勝手に舞と重ねて、舞がいない寂しさを、虚無感を紛らわすため。俺のエゴでしかない。
舞とよく似た容姿、高校2年生、春。
――もしかして、彼女は舞の生まれ変わりなのか…?
いやいや、何を考えているんだ。そんな非科学的なこと…起こるわけ…。
それでも、心の奥底でどうしてもそんなようなことを期待してしまう。
買い出しを終えて急いで家に戻り、鍵を開けて中に入る。
すると、瀬名さんが1枚の写真を眺めていた。
「あ、お帰りなさーい」
「おう。――ってお前その写真どこから…。」
「机の上に置いてありましたよ?」
――彼女が見ていた写真、そこには俺と…舞の姿があった。
昔、旅行先で撮った思い出の1枚。
「凛太郎さんと一緒に写ってる人、綺麗な人ですね。きょうだいですか?…それとも彼女さんとか?」
「彼女」。たったこのひと単語で、俺は深く抉られたような心持ちになった。
「……後者が当たりだな。」
「へー!…って、じゃあ私を家に入れたのそれこそ拙くないですか?あ、もう別れちゃったとか…?」
そう言われて、俺は顔を上げられなくなった。
「え、もしかして聞いちゃいけませんでした?だとしたらごめんなさい…。」
彼女が申し訳なさそうにそう言った。
でもこのまま塞ぎ込んでいていいのだろうか。
いつもなら誰に対しても何も話さないだろうが、今はそう考えてしまう。――この娘なら、舞の面影さえ感じるこの娘なら、話をちゃんと聞いてくれるんじゃないか。
「…死んだんだよ。」
「へ?」
彼女が素っ頓狂な声を上げる。
「だから、死んだんだ。4年前、その人は病死している。」
「えええっ。ウソ…。そんなことなら尚更聞くの失礼でしたよね…。すみませんほんと…」
「いや、いいんだ。折角だし、話させてほしい。」
そうして、俺は舞のことを全て打ち明けた。
どこで出会ったのか、どんなやつだったのか、もともとどんな感じの仲だったのか、…そして、彼女が癌だったこと。
「…こういうわけだ。」
全て話し終えて、俺も瀬名さんも俯いて暫く沈黙が流れた。
目頭が熱い。頬に液体の流れる感触、止まらない肩の震え。
俺は泣いていた。それは舞のことを、初めてまともに他人に話して、彼女の笑顔を、声を、彼女との楽しい思い出を、鮮烈に思い出したから。
そして、何よりも目の前にいるその「他人」が瀬名さんだからこそ、より一層…………。
その沈黙を最初に破ったのは、瀬名さんの方だった。
「あの…、そんな辛いこと、話してくれてありがとうございます。…まさかそんなことがあったなんて思いもしなかったから…。」
「ごめん…っ…。こんなッ…過去をいつまでもずるずると引きずるような…ッ……重い奴で…。」
自分から話しておいて、申し訳なかった。
初対面の人がこんなネガティブじゃあ、彼女も引くだろう。
けれど彼女から返ってきた言葉は意外なものだった。
「ううん、全然いいですよ。だって辛いに決まってるじゃないですか。そんなの。そんなことをずっと独り抱えてきてたんでしょ?仕方ないですよ。そんな状態でポジティブになろうって方が無理です。それに、…私恋愛経験ないのでちょっとわかりかねますけど、――今になっても引きずってるってことは、それだけ彼女さんを一途に想ってるってことなんじゃないですか?」
そう言って彼女は俺の背中に片腕を回してきた。
それからも暫く、俺は泣いていた。そしてその間ずっと舞は俺に寄り添ってくれていた。
いや、正確にはそれは舞じゃない。
けれど俺には、彼女がかける言葉が、全て舞の声に聞こえてしまっていた。
「舞が慰めてくれる」
そう感じるから、いつもより早く立ち直れた。
いつもの俺なら、こうなってしまったら1日中泣き続けるか、舞の墓に行かないとおさまらなかった。
「もう、落ち着きました?」
「うん、もう大丈夫だ。ありがとう。」
「さて、夕飯にするか」と、俺はキッチンに行って用意を始めた。すると彼女もついてきて手伝ってくれた。
(意外と手慣れてるな…。)
瀬名さんは結構料理が上手かった。
舞は料理もできたから、再び彼女のことを無意識の内に考えてしまう。
特に言葉は交わさないまま夕飯を作って、食卓に運んだ。
「わぁっ、これも美味しい。料理上手なんですね!」
「お前もすごいな…高校生なのに」
舞の手料理を食べている気分だった。
しかし、勿論舞の手料理の味がするわけではない。違う。
結局は瀬名さんも他人である。そのことを痛感して、再び胸が痛くなる。
「…大丈夫ですか?」
「…ん?ああ、大丈夫だよ。」
さっきあんなことがあったんだ。彼女も彼女なりに俺のことを心配してくれているのだろう…。
でもあまり迷惑はかけられないな。
「あ、そうだ!凛太郎さん、大学生ですよね?学部とかどこなんですか?あとサークル?とか!」
突然彼女がそう話題を振ってきた。
まぁ、無言で食事して気まずくなるよりはマシか。
「そうだな、学部は――」
そういって大学の話で盛り上がって、夕飯を食べ終えた。
食器を片付けて、2人並んで居間に座った。
「よーしっ、洗いものも終わったし、さっきの続きしません??」
今度は瀬名さんの方からゲームに誘ってきた。
どうやらさっきの格ゲーのリベンジがしたいようである。
「やってもいいけど、また連敗しても知らないぞ?」
「次は勝ちます!!」
そう言ってゲーム機を立ち上げて、数戦やったのだが…また全勝してしまった。
「うっそおお、強すぎ〜」
彼女が遂にうなだれた。
「遂に降参か?」
「…もう降参です……。」
「じゃあ、次はこのレースゲームとかどうだ?」
「レース!?やりたい!」
子供か。この娘は。
しかし彼女、なかなかのゲーマーである。
そこは、瀬名さんだな。舞じゃない。
…それでもこの一時が、何故か心の底から楽しく思えた。
そうしてまた長時間俺たちはゲームに明け暮れた。
「ふわぁ…。そろそろ寝るかぁ…。」
真夜中になると、俺は結構眠くなってきた。
「えー、もうですか?」
「だってもう日付も変わったぞ?…あっっ」
俺は変わった日付を見て開いた口が塞がらなかった。
やってしまった。と思った。
すっかり忘れていた。今までこんなことなかったのに。
「…?どうしたんですか?」
「明日…じゃねえ、今日、だな。舞の命日だ…。墓参りに行かねえと。」
「えええええっ!?そんな大事なこともっと早く教えてくださいよぉ〜!」
突然のことで瀬名さんも慌てだした。
…もっとも彼女は明日家に帰すし焦ってもらわなくてもいいんだが…。
とにかく、もう今夜は早く寝よう。
「あ、そだ」
俺はふと思い出した。
「流石に明日には家に帰ってもらいたいからな。安全報告のためにも君の家に電話を入れたい。電話番号わかるか?」
こういうことはちゃんとしないと、後で誘拐とかと間違われでもしたら溜まったもんじゃない。
「あ、うう……そうですね、わかりました。」
彼女は嫌々ながら承諾してくれた。
親は子供が心配なものだ。
大切な我が子が失踪したとなれば、不安できっとこの時間でも眠れないでいるだろう。
そう思いながら俺は受話器を手に取り、瀬名さんが言う番号を入力した。
「もしもし、どなたでしょうか」
電話をかけると、彼女の母親らしき人物が応答した。
「もしもし、こんな夜更けにすみません。瀬名さんで間違いないでしょうか。」
「ええ、そうですが…。」
「よかった。娘さんのことなんですれど…」
そして俺は事の次第を漏れなく話した。
「つまり、娘は無事なんですね?」
「はい。なので明日の朝には――」
そう言いかけると突然瀬名さんに受話器を奪われた。
「お母さん!朝じゃなくて、昼に帰るね。まだ用事があるから。それじゃ!」
そう言って電話を切ってしまった。
「おいおい、なに勝手なことしてんだよ…。てか用事って、一体なんのことだ?」
俺が問うと、彼女は突拍子もないことを言い出した。
「お墓参り、私もついていく。」
「!?」
この言葉にはしっかり驚いた。どうして彼女まで来なければならないのか、その理由がさっぱり分からなかった。
「なんで??君が来る必要なんてないだろう。家族に余計な心配をかけるだけだぞ。」
すると彼女は少しうつむいて
「ひとりで、舞さんの墓参りに行って、それで貴方は耐えられるんですか?」
「…っ」
「さっきだって、私に過去を話してくれたとき、貴方はあんなにも辛そうだった。…お墓に行ったら、それこそ舞さんのことまた思い出して、泣いちゃうでしょう?そんなこと、繰り返していても過去は乗り越えられない。……私じゃ力不足かもだけど、少しは心の支えになればいいかな、と。それだけです。」
なにも、言い返せなかった。
これ以上彼女に心配かけたくなかったし、どうにか退いて貰いたかった。けれど、何も言葉が見つからない。…声すらでなかった。
「凛太郎さん…。」
彼女が心配そうにこちらを見ている。
俺は「心配かけて悪い」となんとか一言絞り出し、そそくさとひとっ風呂済ませ、洗濯だけして寝た。彼女にはまともに顔も合わせずに。
客人に床とかで寝てもらうのはよくないということで、俺のベッドは瀬名さんに貸してある。そのため俺が床で下に毛布を敷いて寝転んでいる。
眠れない。
今もまた彼女と舞のことばかり考えている。
まったく、ここまで来ると俺も気持ち悪いな。
どうして瀬名さんは俺のことをあんなに心配するのか。
やっぱり舞の生まれ変わりとかそういうもので、俺をこんな状況下から抜け出させようとしてくれているのだろうか。
……そうであってほしい。彼女が舞であるならば、舞の何かであるならば、それだけで俺は立ち直れそうだ。
そんな妄想ばかり繰り返している。
朝になって、俺はむくりと起き上がる。
昨晩は結局2、3時間程しか眠れなかった。
「おはよーございまぁす。」
と、欠伸をしながら瀬名さんが起きてきた。
「おはよう、よく眠れたか?」
「はい、私は。貴方は?」
「うん、よく寝れた。…っとっと。」
立ち上がろうとしてよろめいてしまう。
「…嘘つき。全然眠れてなさそうじゃないですか。」
彼女がしかめっ面でそう言う。まぁ流石にバレるか。
「はは…。まぁな。でも大丈夫だって。」
「ホントですか?」
「ホントだよ。」
俺は敢えて強気になる。
眠い、なんて理由で舞の所に行くことを疎かにするなど考えられない。
「まぁ、それならいいですけど…。」
そうして俺たちはすぐに朝食を済ませ、出発の用意をした。
「お墓ってどの辺なんですか?」
「こっからだと自転車で行ける距離だな。歩いたら40分くらいかかるけど。」
「じゃあ歩いて行きましょう。その間に聞きたいことあるんです。」
墓地といっても勿論地元にあるから、さほど遠い場所にあるわけではない。俺たちは早速出発した。
「あれ」
暫く歩いてから、俺は違和感に気づいた。
「なぁ、瀬名さん、昨日親に見つかりたくないから出かけたくないとか言ってなかったっけ?」
「ふふっ、聞いちゃいます?それ。だって昼に帰るってお母さんに言っちゃったんだし、別に出かけてもいいじゃん。」
「あーまぁ、それもそうか。」
また彼女がくすり、と笑った。
その笑顔が再び俺の心に突き刺さってしまう。
そして、次は彼女の方から口を開いた。
「それで、聞きたいことなんですけど。…昨日の、凛太郎さんの過去の話。舞さんが亡くなる直前に、貴方も病室にいたんですよね?その時、…舞さん、意識あったんですよね?」
「そうだけど…?」
「その時何か話さなかったんですか?」
ああ、なるほど。そのことか。
なんという話しづらい話題を振るんだろうか。この娘。
「それがな、覚えてないんだよ。」
俺はきっぱりと言った。
これで彼女も「なぁんだ」とかって引き下がると思った。
けど、彼女の返答はこうだ。
「やっぱりそうじゃん…。」
「え…?」
思いがけなくて面食らってしまった。
すると彼女が俺にぐいっと詰め寄ってきてこう続けた。
「思い出してあげましょうよ!じゃないと舞さんだって悲しみますよ!」
「いや、でもさ…」
「もしかしたら、その時に何か貴方にとって大切なことを言っていたかもしれないじゃないですか…。」
それはあまりのど正論だった。
確かにこれまで、「思い出せない」だけで終わって、現実から目を背けてきたという自覚くらいある。
しかし今の俺は少々困惑している。
まさか初めて会ってから1日も経っていない人間にこんなことまで言われるなんて、誰もが想像しないだろう。
それにほぼ付き合いがない人間にそんなこと言われたって、「はい分かりました」なんてすぐ受け入れられるものではない。
あの会話を思い出すことが、正直言って怖かった。
だが俺は敢えて何も言わなかった。
ここで下手に突っぱねて彼女に良くない思いもさせたくはない。
その後気まずい無言が続いて、そのまま舞がいる墓地にまで辿り着いた。
「着いた。ここだ。」
俺が舞の墓に向かって歩き出した。
が、瀬名さんは何故か動かない。
「瀬名さん?」
「1人で、行ってきて。あ、いや、そんな一緒が嫌とかそんなのじゃなくて、……2人でいる方が、きっと何か得られるものがあるのかなって、急に思っちゃって。私はここで待ってますから。何かあったり、耐えられなくなったりしたら、戻ってきて下さい。」
「………そうか。じゃあ、行ってくる。」
彼女の言うことが何もかも予想外でなんだか混乱気味だ。
一緒に行くとか言っといて、目の前に来ていきなり1人で行ってこい、か。
一体全体何がしたいのだろう。
俺はそのまま墓の前へ歩みを進めた。
「よう、また来たよ、舞。」
墓の前に立ち、いつものように呟く。
暇さえあればここへ来るので、もう何百回来たか分からない。
つぼみが付き始めたばかりの桜にぐるりと囲まれた、誰もいない狭い墓地。風が吹いても木々が揺れる音は聞こえるわけもなく、桜たちは寂しげに、ひっそりと立ち並んでいる。
もう、この景色も見慣れてしまったな。
「なぁ、舞。昨日変なことあってさ、…こんなこと聞いたら怒るかもだけど………」
俺は昨日のことを中心に最近のことを色々と彼女に報告した。勿論、一方的に喋っているだけだが、それでも俺は、彼女と本当に会話している感じがする。
心が少し満たされる。虚無感という心の穴が、小さくなる感覚がある。いつもなら。
でも、今回は違う。
(おかしいな…。)
今回は、なんだかはっきりとしたモヤモヤが胸の中に残っていた。どうもスッキリしなかった。
しかもなんだかふらつく。昨夜眠れなかったのが悪かったのだろうか。
さっきまでずっと歩いていた疲れも相まって、その場に座り込んでしまった。
(はぁ…やっば…さすがにねむいわ…これ)
「舞、悪い…ちょっと寝るな。」
異常にクラクラし始めて意識も朦朧としてきたので、俺はその場で仮眠を取ることにした。
…ここで寝れば、舞の夢をまた見られるかもしれないしな。
そうして俺の意識は闇に落ちていった。
――ここは、どこだろう。病室…?
気がつくと、俺は病室らしき場所にいた。
しかし、妙であることに気づいた。
辺りを見渡すと、病室のベッドに横たわる、人工呼吸器をつけているやつれた少女と、そのすぐ隣で泣きじゃくる少年の姿があったのだ。
そして、見間違えるはずもない。その少年は、まさしく俺で、少女の方は舞だった。
(これは…夢……?ああ、夢だな。)
すぐに俺の夢だと分かった。よく見る舞の夢。
いつもなら、その度に本当に過去に戻ったのか、とか、舞が生き返ったのか、とか思ってしまうんだが、夢の中の「登場人物」に自分自身がいるという点でどうしても現実味に欠ける。
(「過去」そのものを夢に見る、か。まぁ、舞の夢だし別にいいか。)
そんなことを考えても、夢は覚めなかった。
何か話し声が聞こえる。折角だ。彼ら…いや、俺たちの会話に耳を傾けてみよう。――思い出すことも、思い出そうともできない、最愛の人との最期の会話に。
「舞…ッ…頼むよ………死ぬなってぇ…。グスッ」
「舞」という名前と「死ぬな」とか「嫌だ」とかいう言葉。
夢の中の「俺」は、悲痛にそのようなことをただただ繰り返していた。
不思議とこちらには苦しいという感覚がない。
うなされて起きるということはなさそうだ。少し安心する。
暫く見つめていると、やがて舞の手が動き出した。
そして、…いよいよ彼女が目を開けた。
「………ッ舞…!?」
夢の中の「俺」が驚きの声を上げる。
そうだ、嬉しかったんだ。
最後に舞が目を開けた時は、死んでいた希望が甦った気分がしていた。奇跡が起こったと思った。
「舞…?…舞!起きた…?生きてるのか!?」
「俺」が体を前のめりにして、すがるように確かめる。
「……ん…」
「……!!!!」
舞が声を上げると、途端に「俺」の顔に輝きが戻った。
…この時抱いていたであろう淡い希望は、この後すぐに融けて消えていくのだろうと考えると哀れなものだ。
「舞!い…いまナースコールをするから……」
慌ててナースコールを手繰り寄せようとする「俺」に、舞が弱々しい、けど強い意志を感じさせる声で「待って」と言った。
そして力の入らぬ手で、ナースコールを取ろうとする「俺」の右手に触れた。いや、押し戻そうとしたのかもしれない。
「凛ちゃん、ダメ。」
「え…?どうして……」
舞の目は、虚ろだった。もう今にも力尽きそうなくらいに。
けれど、その奥には何かまだ、はっきりと灯っている炎がある。命の灯火も確かに消えてはいないが、それ以上に。
「せっかく、ふたり…なみたいだから、……最期に、凛ちゃん、に…お願いしたいことがあるんだ。」
そう「俺」に語りかける舞の声は、どこか子供をあやす母親のようでもあり、母親に甘える子供のようでもあった。
「なんだよ…最期って……折角目を覚ましたんだからさ、まだ生きれるんだろ??また…よくなってさ、一緒にすごせるんだろ……?な――」
「凛ちゃん…!」
俺が言葉を言い終わる前に、舞が声を強めて遮った。
まったく、死にかけの病人に気を遣わせるなんて、我ながら情けないもんだ。
そして、舞がゆっくりと話し出す。
「あのね…?凛ちゃん…よく聞いて。」
「君……はね、わたしのこ……愛してく…てるの………知ってるし、……れは、嬉しい…ど、私が……なに…も、言わな…ったら、ずっ……と、そのことで……悩んで、…くるし…み続け……でしょ…?」
余りにも弱々しい声のため、とぎれとぎれにしか聞こえない。
舞はもう、虫の息ですらなかった。人工呼吸器から酸素を吹き込んでも、まるで肺胞がガス交換を拒否するように、呼吸していなかった。
本当はしていたのかもしれないけど、今はそう見えた。
「お…おい、なに言ってんだよ……?」
夢の中の「俺」は滑稽なほどに切羽詰まった顔をしていた。
しかし舞は気にせずに続ける。
「でも……ね、そんなんじゃ…だめ、だから……。君は、辛くても…………寂しくても、生きて……。生きて、生きて、ひたすら生きて………そうして、――私の分も、しあわせになって……。」
「おい…もう喋るなって……!なんか苦しそうじゃないか…!」
更に、緩やかな笑みを浮かべながらも、真剣な声色で、舞はこう続ける。
「君の、過去を……そして君自身を全て、受け入れてくれる人に出会って。たったひとりだけ……その人にだけ、浮気してもいいことにします……!…ううん、して。そうして……幸せに…なって。………これが、わたしの、最期の…お願い。」
そして、最後に
「凛ちゃん……いや、凛太郎、大好きだよ…。わたしは……君と過ごせて……とってもしあわせだった。」
と締めくくって、そのまま
ぱたりと、夢の中の「俺」を掴む手が落ちて、ゆっくりとその瞼が閉じた。
「舞……?舞…!舞!」
「俺」が悲痛な叫びをあげる。
それと同時に、その光景に白いもやがかかりはじめ、声はだんだんと遠くなっていって、――俺は夢から醒めた。
最後に聞こえたのは、命の消失を告げる、残酷で、頭を割るような単音だけだった。
はっと目を開けて、俺は前を見る。
そこには、なんの変哲もない舞の墓があるだけだった。
「…ははっ、あんなのってありかよ…。」
あれは俺の「記憶」なのだろうか。はたまた、ただの「妄想」にすぎないのだろうか。
どっちにしても構わない。あれはきっと舞が見せてくれた夢だ。彼女の真意を教えてくれたのだ。
「舞、ありがとな。俺を励ますために見せてくれたんだな…。」
そう思うと死してなお自分を愛してくれているようで、心底嬉しくなった。
舞のお陰で希望が持てた。「生きよう」心からそう思えた。
初めて生きることを意識した。
生きなきゃだめだ。生きて、幸せにならなければ。彼女のために。すぐには毎日に充実感を持てないだろう。だが、それでも。
「さて…行くか。」
瀬名さんはまだ向こうで待っているだろう。あまり待たせても悪い。俺は舞に「ありがとう、また今度な。」とだけ言ってその場を後にした。
「瀬名さん、戻ったよ。……瀬名さん?」
彼女が待っている筈の場所まで来てみたが、姿が見えない。
まぁあんな子のことだからもしかしたらどっかに隠れてたりでもするんじゃないか、なんて思って辺りをうろついてみる。
しかし、周辺を歩きまわっても彼女らしき人影は見当たらない。
「瀬名さん…?どこ行った?」
少し不安になってきてしまった。
さらに数分辺りを探したが見つからない。
やはりひとりでどこかに行ってしまったのだろうか。
「瀬名さーん!」
少し大きめの声で呼んでみたが返事はない。
俺はいよいよ本格的に焦りはじめる。
「瀬名さん…?瀬名さん!」
俺は走って墓地を後にした。
その後、どれくらいの時間が経っただろうか。結構経った気がするが、長い時間、俺は彼女を探し回った。
しかし、どうやっても見つからない。
(親に見つかって連れられてったか…?……それとも――)
あれ…?何故俺はこんなにやけになっているのだろう。
(いいさ…。相手は結局は赤の他人だ。たった1日しか付き合いのない他人。きっと無事に家に帰れてるんだから。もう、大丈夫だろ。)
これ以上探すアテもないし、探す必要もないのだ。自分にそう言い聞かせ、俺は家へ戻ることにした。
家に着いたころには、時計の針は既に昼過ぎの位置にあった。
結構長い間走り回っていたような気がするが、実はそんなに時間が経っていなかったようである。
だがそれでも昼は過ぎてるんだし、俺は一旦昼食をとることにした。
(なんだろう…この感覚)
あの夢のお陰で、勿論完全にとは言えないが、心の穴が埋め立てられて、少しは楽になれたはず…あの夢から覚めた直後は少なくともそうであったはず…なのに。
結局俺の感じる空虚感というものは、先日までと変わらないように思える。――更にもうひとつその「穴」が増えたかのように。
俺は昼食もさほど喉を通らず、あまり食べないままベッドに倒れ込んだ。
(これからどうしていこうかな…。)
あいつに「生きろ」と言われた以上、生きなきゃいけない。
だからってそんなの、いつも通りやっていけばいいだけのことなのに、俺はわざわざそんなことを考えていた。
きっと、どうしても拭えないこの空虚感を払拭するためなのだろう。
(……にしても寂しいな。あんな夢を見たあとだと。)
舞の夢だったから。この空虚感の原因はそこにあると思っていた。いや、思い込みたかった。
だって、あいつの夢を見たらいつもそうだったから。
あぁ、なんだかうとうとしてきた。
(もっかい寝るかな…。特にやりたいこともないし、それに…もう1回くらい…。)
舞に出会いたくて。
目を閉じようとしたその瞬間
ピンポーン
と、インターホンがなった。
「はーい…どちらさまで…」
誰だよ、と少し苛つきながら出てみると、玄関の前には見知らぬ中年の女性が1人立っていた。
「秋元さんでよろしいですか?」
「あ…ええ、そうですが。」
その人は俺の顔も見ずに淡々と話し始める。
どうせ宗教勧誘か悪徳業者辺りだろうとか思ったが、次に彼女から発せられた言葉は実に意外なものだった。
「瀬名香澄の母です。この度は娘が大変ご迷惑をおかけしました。」
「!?」
なんと瀬名さんの母親だという。
突然俺の家に訪ねてきたということは、彼女は無事に帰れたのだろう。そう思うと一気に安心感が芽生えてきた。
しかし。
「ただ――娘には、二度と近づかないで下さい。」
彼女の表情が一変。
それは余りにも突然すぎる、無慈悲な一言。俺は何を言われたのかわからず、「え…はい?」と聞き返してしまう。
「だから、娘には近づくなと言っているんです。言葉通じてますか?」
「え…どうして…?」
「伝えたいのはそれだけですので。それでは。……次はありませんから。」
彼女は、ゴミを見るかのような冷徹な目で、そう淡々と述べた。
いきなり来たと思ったら一体何を言っているのか。俺は全く理解できなかった。いろいろ聞きたいのは山々だったが、ただでさえ気が滅入っている俺は、ただ 「はい、わかりました…。すみません… 」と言うしかなかった。
瀬名さんの母親が帰ったあと、俺は再びベッドに倒れ込んだ。
目の前にあるのは、静寂と、からっぽの天井だけ。
目を閉じれば、虚無の空間へと吸い込まれそうだった。
そして、それもいいかもな、と思ってしまう自分がいる。
「はぁ……。」
どうして俺があんなことを言われなければならなかったのか。考えたところで見当がつかない問に、また折角埋まりはじめていた胸の奥の穴が掘り返されていく。
瀬名さんにも、もう会えないんだな。
そう思えば思うほど、寂しさがどんどん強くなる。
でも。
俺は、生涯最も大切にした人に…舞に、「生きろ」と言われた。
そうである以上、俺は生きなければならない。
生きて、生きて、生きて、生き続けなければならない。
幸せが来る、その日まで。
・
・
・
ちょうど桜が咲き始め、春の陽気を再び肌で感じられるようになった季節。
そして俺は、必死に生きた。あれからどれほど経ったろうか。
1年くらい?
もう少し経ったかな。だって今は、花々が咲き誇っている。
たった一年、そう思われるかもしれない。でも俺にはその1年が凄まじく長かった。
もはや生きるだけで辛かった。しかし、だからといって死ねなかった。死んでも、あいつを悲しませるだけだから。
でも、この1年生きて、変わったことがあった。
意識するまで結構時間がかかったけれど、確かに変わったことが。
ひとつ、変なことがあったのだ。
数日前に昼寝をしていると、夢を見たことだ。その夢の内容がどこかおかしかった。
舞の夢ではない。
その夢は、たったワンシーン。
人っ子一人いない、いつも通学に使っている道のひとつ、そこを歩いているときに、突然女の子の人影が現れた。
たったそれだけ。
その顔は見えなかったけれど、明らかに舞ではないと分かった。なぜ分かったのかは分からない。
けれど、そんな場所に、何か思い入れが少しでもあるとすれば、心当たりはひとつしかなかった。
……始めてだった。あれ以来、舞以外の人の夢を見るのは。
そして、それ以来、俺はもう舞と瀬名さんを重ねていないことに、瀬名さんのことも、ちゃんと「一個人」として、舞とは別の、ひとりの少女として見ていることに気づいた。
これが、俺の「変わったこと」である。
もしかしたら、本当は彼女がいなくなったあの日の時点でもうちゃんとそう見れていたのかもしれないが。
帰り道には俺はいつも通りその道を歩いていた。
あの夢が、予知夢か何かであるならば。
正直、無意識に、そんなことも期待しながら。
それでも現実は上手くいかないものだ。中々彼女に会うことはできない。
(やっぱり夢の見すぎだよな…。)
そんなことも考え始めた。そのとき。
奇跡なんていつ起こるものか分からないと、改めて思った。
「あ…。」
あの日、あの時出会った、まさにその場所だった。
そこにひとりの少女が立っている。
もう、見間違えやしない。
それは紛れもなく、瀬名香澄だった。
「瀬名さん…?」
俺がそう声をかけると、彼女は振り向き、こちらに目を合わせた。
「ああっ!凛太郎さん…凛太郎さんだ!」
彼女が嬉しそうな声を上げて、こちらに駆け寄って来る。
「よかったぁ…もう、会えないかと思ってた…。」
「瀬名さん……。どうして、勝手にいなくなるんだよっ…。心配しただろ…。」
「ふふっ、ごめんね。でももう大丈夫だから。」
お互いに目を見つめあって、再会を喜んだ。
不思議なもんだ。人間ってのは、こうも1日2日の付き合いでここまでの絆が生まれることがあるんだな。
人通りがなく静かな通りに、二人の笑い声だけが響く。
「ああ、あとうちのお母さんがごめんなさい。私も必死に止めたんだけど、やっぱり聞いてくれなくて…本当にごめんささなさい!私はあんな風には思ってないから……。」
ここで突然瀬名さんが思い出したように謝り始めた。
が、それはもう1年前の話。この際ただ、この人に会えたという喜びをひたすら噛み締める俺にとっては、もはやどうでもいいことだった。
「うん…。そのことはもう大丈夫だよ…。君も大変だったな。あんな毒親みたいな親に育てられて。」
「実際毒親でしたよぉ。」
瀬名さんがくすっと笑う。その姿にも、彼女自身の魅力、そして強さを感じられた。
「ねぇ、凛太郎さん。」
少し間を置いてから、瀬名さんが俯いて尋ねてくる。
俺が「何?」と聞くと彼女は
「…あの日、舞さんのお墓に行った日。あの日から、何か変われましたか?」
と言う。
ああ、なんだそのことか。
俺は少し間をおいてから話しだした。
「変わったこと…か。あったよ。あった。…あの日のまでは、いつも舞のことばかり考えていたけど、それがなくなった。ちゃんと、自分のことや、瀬名さんのような他人のことも、ちゃんと考えられるようになったよ。…あの日、舞が教えてくれたから。」
「…なにか夢でも見たの?」
彼女がそう尋ねると、俺はこくりと頷いた。
「舞さんはその夢の中でなんて言ってたの?」
彼女がそう優しく続ける。
それに対し、俺は再び少し間をおいて
「俺を幸せにしてくれる人と出会って、だってさ。」
と返した。
すると、彼女は少し顔を赤らめて、ちょっと驚いたような表情をして俯いた。
「?瀬名さん?顔赤いよ?」
「…」
わけがわからなくて尋ねたが彼女は何も言わない。
俺なんかまずいことした?と思っていると
「…もーっ」
彼女がはにかんで、呆れたような声を出す。
「恋人がいたっていうのに、鈍感なんですよ凛太郎さんはぁ。」
「…あなたは、もう私のことを、一個人として見てくれるんでしょう?私は舞さんと重なるだけの存在じゃ、もうないんですよね?」
「うん、そうだよ。」
なんて答えたものの、俺はまだ少々きょとんとしている。
ただでさえそんな状態の俺なのに、彼女は「それならよかった」と胸を撫で下ろした後、こう一言続けた。
「ねぇ、凛太郎さん…私、あなたのことが好き。全部知った上であなたが大好き。舞さんが…あなたを今まで支え続けてきたのなら、今度は私にその役目、担わせて。」
「…!?………瀬名さん、それって…」
「はい。――私を、あなたの恋人にして下さい。」
それはあまりにも突然の、予期せぬ告白だった。
俺は驚きを隠せなかった。いや、これは驚きなのだろうか。
それとも困惑なのだろうか。それとも…。
それでも、彼女の「彼女としての」魅力がより強くなったことは、俺にははっきりと感じられた。
そして今、ひとつ分かったことがある。
「あぁ…そう言うことか…。」
俺は声を漏らした。瀬名さんはきょとんとする。
――これは運命なのだ。受け入れなければならない現実であり、覆すことのできぬ未来。
彼女に会ったのも、舞が亡くなったのも、偶然なんかじゃなくて、全て一種の「必然」だったのかもしれない。
そして、…舞が言った通り、きっと俺にだってまだ、明るい未来を掴むチャンスはあるのだろう。
ならば――。
「………いいよ。俺で、良ければ。」
俺はそれを、受け入れよう。
あれから暫く経って、俺たちは舞の墓がある墓地に来ていた。
美しく咲き誇る桜たちが覆うこの墓地は、墓地とは思えないほどに綺麗で、温かくて、居心地がいい。
それはまるで、ここが極楽の入り口かと思わせるほどに。
舞の墓石の前に立つ前に、俺は瀬名さんに気になったことを聞いてみることにした。
「そういえば春から大学生になるの?」
彼女がハッと振り返る。
「あっ!いっけない!私ったら大事なこと言い忘れてたよ!ああーーっ………ふぅ。」
んもーっと頭を掻きむしったと思ったら、途端に落ち着いて呼吸を整えた。
まったくメリハリが良すぎるものだ。
すると彼女はスマホを取り出してなにやら操作したあと、俺に見せてきた。
俺はそこに書かれた内容に、度肝を抜かれた。
「おまっ……これ…!」
「うん…。春から、同じ大学だね。よろしくねセーンパイっ!」
ポンッと彼女が俺の背中を叩く。
そう、そこには、俺の通っている大学の合格通知があったのだ。
「ははっ…まじか…。うん、こちらこそよろしくな。」
そして
「さ、行こう。」
俺がそう声をかけて、2人で舞の墓の前に立った。
そっと、舞の墓石に手を添える。
――彼女に、最後の別れを告げるために。
「舞、また来たよ。でももう、これで最後にしようと思う。俺はもう大丈夫だ。俺だって、新しく幸せを掴めそうだよ。だから――」
そして俺はひと呼吸おいて、
「お別れだ。舞。…今まで、本当にありがとう。」
それでもやはり寂しかった。目に涙が溜まるのが自分でもわかる。
けれど俺はそれをグッと堪えた。すると
「舞さん…。」
隣にいる、俺の新しい恋人も後押しするように舞の墓石に手を添えた。
「凛太郎くんのことは私に任せて下さい。これから先も、きっと辛いことがあるかもしれません。けれど…その時だって、2人で乗り越えてみせます。私が、彼を幸せにしてみせます。だから、貴女も見ていて下さいね。」
それは紛れもない、彼女自身の決意の言葉だった。
彼女の目は澄んでいて、その目ははっきりと、未来を見つめていた。
俺はどんな目をしているのだろう。
俺は今、きちんとその未来を見つめられているのだろうか。
そうして、少しの間そこに無言で立ち続け、やがて瀬名さんが
「さぁ、行こっ。」
と言った。
俺は「ああ、そうしよう。」とだけ言って、後ろを向いて歩みだそうとした。
けれど、俺はもう一度だけ、舞の墓石の方に振り返って、一言。
「――行ってきます。舞。」
と。
ふわぁっと、温かなそよ風が吹く。
そうして俺たちは、再び前を向いて歩みだす。
桜が、俺たちを見送るように、舞っていた。