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乳魔の愛

作者: ろん


 小国・ウェスタリアとマーラン帝国による国家存亡をかけた戦争は、大量の魔族・魔人を擁するマーラン側の完勝で幕を閉じた。人間離れした肉体や異能をもつ生物たちを味方につけた帝国軍に、ウェスタリアの兵士たちは為す術もなく蹂躙され、その大勢は半日のうちに決したという。特筆すべきは全滅を悟った男性兵士の多くが、「どうせ死ぬなら」と人生最後の快楽を求め、ラミアやサキュバスなどの容姿端麗な敵に押しかけては、一人、また一人とその胸に飛び込んでいったことだ。


 血と子種、懇願と断末魔が入り乱れた地獄絵図。

この物語は、あのパニックから数時間前にさかのぼる。





「あら……囲まれちゃった」


 銃声と悲鳴だけが飛び交う中、透き通るような声が鼓膜をくすぐる。たった一人の女性に四人がかりとは情けないが、相手がまぎれもなく「妖魔」である以上、こちらも万全の態勢で挑むしかない。真っ青な肌に四本の腕をもつ異形に加え、目のやり場に困るほど巨大な双乳——乳魔だ。


「さて、大人しくしてもらおうか」


 曹長のグレイが前に踏み出る。その手に握られている鋼鉄製のロープを恐れる気配もなく、身長二メートルはあろうかという高みから、彼女はクスリと妖艶な笑みを落とした。


「あなた達、本物の軍人さんじゃないわね」

「……なぜそう思う?」

「私を生け獲りにする気だもの。こちらが投降したならともかく、最初から剣も抜かずに近づいてくるなんて、まともな兵士のすることじゃないわ。軍の戦闘服は着ているけれど……本業はハンターってところかしら」


 正鵠を射た発言に、俺を含めた三人の部下は一斉にグレイを見る。彼はロープを肘に掛け、手を叩きながら笑っていた。


「ハハッ、脳みそよりパイオツがデカい乳魔にしちゃ、意外と知恵もあるじゃないか。こいつは高く売れるぜ」

「ふふっ、褒め言葉として受け取っておくわ。何か『我慢』していることがあるなら、遠慮なくこの胸に飛び込んでくれていいのよ?」


 挑発的な言い回しとともに、乳魔は四本腕のうち二本を胸の下に回した。乳房全体の三割程度しか隠す気のない服といい、おそろしく長い脚を覆っているニーハイといい、その大胆な出で立ちはバニーガールも同然だ。唯一魔女らしい要素があるとすれば、やたらつばの広いとんがり帽子が頭に乗っていること、くらいだろうか。


「……前言撤回だ。そんな恰好で戦場にノコノコやって来るとは……戦闘を舐めてるか、どうしようもない馬鹿のどちらかだな」

「あら、失礼な人。これはれっきとした戦闘服よ? 肌を多く見せた方が有利に闘えるなんて、殿方にはわからない感覚でしょうけど」


 彼女は一瞬肩をすくめたが、すぐさま首を横に振った。末広がりの青い髪がかすかに揺れる。


「失礼、こちらも撤回させてもらうわ。私は『闘う』ためにここに来た訳じゃないの。そういう意味では、あなた達と似てるかもね」

「なら何が目的だ?」


 グレイの問いに対し、乳魔は不敵にほほ笑む。


「……食事♡」

「ほざけ!」


 さすが、軍の方でも「瞬間湯沸かし器」と恐れられているだけのことはある。相手の物言いが癪に障ったのか、グレイはロープを鞭のごとく地面に打ちつけ、正面から彼女に飛びかかった。ターゲットが熊や狼であれば、あの強靭なロープを身体に巻きつけた時点で捕獲終了なのだが、魔人相手だとそれも簡単にはいかない。乳魔はロープをひらりと躱すと、重力をものともしない身軽さで宙を舞った。


「ちっ、乳魔ごときが……」

「私の名前は『グラミル』よ。よろしく」

「興味ねえな。素直に捕まってくれりゃ、俺がもっといい源氏名を考えてやるよ!」


 その発言を一概に無礼とも言い切れないのが、俺たちの乳魔に対するイメージに起因していることは間違いない。給料日前の金曜日、華やかな夜の街で股間を膨らませた男たちが、財布の中を溜め息まじりに確認し、ひっそりと人目を気にしながら向かう先。通りの外れに店を連ね、自慢の谷間をガラス越しに見せつけながら客を誘う、青い肌の女性たち。胸の大きさ、腰の締まり、肉付きのいい太もも——文句の付けようもない容姿でありながら、まぐわうのに一般女性の半値もかからないという事実が、その社会的地位の低さを物語っている。生物学的に妊娠するリスクもないため、週末のオスにとってこれほど都合のいい存在はない。魔人を嫁に迎えるような物好きでもなければ、彼女たちの「本名」を聞いたことがある男性も少ないはずだ。


 しかし、この乳魔はどこか違う気がする。


「……まずはオードブルから頂きましょうか。油断している『あなた』からね」


 二度目のロープをかいくぐるや否や、乳魔・グラミルは上空でくるりと一回転し、最も若いデューイの目の前に着地した。先輩方のサポート役から一転、いきなり敵と向き合うことを余儀なくされた青年の動揺ぶりは言うまでもない。おまけに女性経験に乏しい彼のことだ。魔人とはいえ、あんなに豊満な胸の持ち主から突然距離を詰められたことに、内心では相当ドキマギしているはずだ。


 俺はリーダーに代わって叫ぶ。


「デューイ、落ち着け! 昨日コブリン相手にやった通りだ!」

「あら、随分とレベルの高い練習をしてるのね」


 グラミルは感心する素振りを見せつつ、二つの手をデューイの肩に置いた。他の地域では評価が異なるようだが、この大陸に棲むゴブリンはかなりの大柄で、しかも凶暴なことで知られている。グレイがまだ見習い中のデューイを実戦に連れてきたのは、そんなゴブリンを彼が昨日、誰よりも手際よく仕留められたからだ。


「でも、ゴブリンは『こんなこと』してくれなかったでしょう?」


 逃げろ——三人がそう口にする間もなく、グラミルは彼の後頭部まで手を回し、その顔を胸の谷間へときつく押しつけた。きつく、と断言できる根拠はいくつかあるが、行き場を失った乳肉がバニー服のエナメルから押し出される迫力に、俺もつい生唾を飲んだことは事実だ。


「んぶっ! むぐぅぅ……!」

「乳魔のおっぱいの感触、いかがかしら。気持ち良いのは最初だけだから、今のうちに存分に味わっておくことね」


 グラミルはそうアドバイスしながら、耳の手前まで沈み込んだデューイの頭を撫でる。彼の方も抵抗する素ぶりは見せているが、妙にわざとらしい呻き声から、胸を押し返そうとする手の弱々しさまで、どこか余裕を感じるのは気のせいだろうか。


 その様子を遠くからグレイが冷やかす。


「ははっ、それで色仕掛けのつもりかよ。乳魔といいサキュバスといい、つくづくワンパターンだな!」

「面白い意見ね。あなた達みたいな男性を堕とすのに、これ以上『パターン』なんて必要かしら?」

「勝手に言ってろ。どのみち動けないのはテメエの方だ……ログ!」


 名前を呼ばれた俺は「はい!」と返事し、自分のロープを構えながらグラミルに近づく。グレイが考えている通り、いくらジャンプ力の高い彼女とはいえ、十七歳の男を抱きかかえたまま空中に逃げられるとは思えない。最悪はデューイごと縛り上げることも念頭に入れつつ、その「四肢」ならぬ「六肢」にロープを巻き付けようとした瞬間、俺は紺色の唇がわずかに動くのを見た。


「ふふっ……『四角四面テーブルマナー』♡」


 一瞬の出来事だった。グラミルの前後左右にまばゆい光の点が現れたかと思いきや、それらが線となって四角い枠を形成する。このとき反射的に後ろに飛び退いたことは、今までの人生で最も賢明な判断だったと言っていい。あとコンマ一秒逃げるのが遅かったら、驚異的な速度でせり上がってきた「壁」にソーセージのごとく切断されていたのは、鋼鉄製のロープではなく、俺の腕の方だっただろう。


「なっ……」


 持ち手から先が失われたロープの美しい断面を見て、俺は開いた口が塞がらなかった。おそらく他の二人も同じ気持ちだろう。出現した壁は薄紫色の半透明で、一辺3メートルほどの立方体の中にグラミルとデューイを閉じ込めている。いや——守っていると言うべきか。


「そんな……ありえない……」


 グレイが任務中にロープを落とす場面など見たことがない。衝撃を顔に貼り付けている彼に、グラミルは結界の中から笑みを送る。


「そんなに驚かれるなんて意外だったわ。お忘れかもしれないけど、乳魔の『魔』は魔女の『魔』よ?」


 壁一枚隔てているとは思えないほど透明感を保った声が、そのキューブが明らかに魔法の産物であることを証明していた。乳魔の正しい語源など知る由もないが、少なくとも俺たちが住むウェスタリアにおいて、ここまで高度な魔法を操る個体は見たことがない。


「さてと、そろそろこの子も苦しくなってきたみたい」


 彼女の魔力に面食らっている場合ではない。両腕でがっちりと頭を固定されたまま、必死に胸から顔を引っ張り出そうとしているデューイの背中には、もはや一ミリの余裕も感じられない。それでもいまひとつ危機感を共有できないのは、やはり彼の呼吸を封じているモノが海水や土砂ではなく、「おっぱい」という特殊な状況だからだ。本気で苦しんでいると理解する一方で、心の片隅に「本当は嬉しいくせに」という気持ちが芽生えてしまう。そんな嫉妬にも似た感情さえなければ、俺はもう少し早く彼の元に駆けつけていたかもしれない。


 ただ、いずれにしても結果は同じだった。殴ろうが蹴ろうがタックルしようがびくともしない壁を前に、俺は早くも息が上がってしまう。


「ふふっ、そんなことをしても無駄。私の『四角四面テーブルマナー』はね、こうして誰かを抱きしめている間だけ、周囲に強力な結界を張ることができる術なの。この壁は大砲にだって破れないわ」

「ぶむぅっ、んぐぐぅ……!」


 死の恐怖が頭をよぎったらしく、デューイはさらに強くグラミアを押し返し始めた。突然のハグにドキドキしているだの、女性に手荒な真似はできないだの、もうそんなことは言っていられない。


「あら、細身のわりに力があるのね。でもダメよ……絶対に離さない」


 束の間見えた希望を押しつぶすように、グラミルは余っていた二本の腕をデューイの背中に回し、優しくホールドした。その際、両腕を「気をつけ」の形に折り畳まれてしまったことで、彼の反撃はあっけなく終焉を迎える。


「ぶぐっ、むぐぅ、んんっ……!」

 

 やがて顔全体を引きはがすことを諦めたのか、デューイは首をもぞもぞと動かし始めた。鼻か口のどちらかだけでも外に出そうとしているようだが、おっぱいの圧倒的なボリュームがそれを阻んでいる。四本の腕で上半身を固められている以上、フリーの下半身で抵抗すればいい、と考えるのはごく自然なことだが、グラミルがデューイの体を微妙に持ち上げているため、不安定に浮き上がった彼のつま先は、壊れたコンパスのようにでたらめな線を地面に描いていた。


「おい、頼むからそいつを離してくれ! 本当に窒息しちまうぞ!」

「窒息? ふふっ、その程度で終わらせるわけないじゃない。この子はもう『私の物』だけど……それが単なる比喩じゃないってこと、あなた達にも見せてあげる」


 グラミルは頭を押さえ込んでいた右手を外し、優雅に前髪を直した。

その隙をついて、青ざめた顔をようやく浮上させるデューイ。


「ぷはああっ! た、だすげてく……むぶっ」


 同じ一瞬なら、流れ星の方がよっぽど願いを聞き入れてくれたに違いない。水を張った洗面器に顔を沈める拷問のように、彼は再び谷間へと押し戻された。くぐもった声で鳴き続ける獲物を「シーッ」とあやしながら、グラミルはその頭に口づけをする。


「『乳内封印ミルキージェイル』♡」


 次の瞬間、臨界点を迎えていたデューイの悲鳴が、ぐぽり、という不快な音とともに消える。生涯で最も強く抱きしめられた結果が、頭蓋骨の骨折や窒息死ではなく、おっぱいに頭ごと「呑み込まれる」未来だったとは、まさか彼も思わなかったはずだ。スライムによる捕食シーンのごとく、その身はゆっくりと胸の中に引きずり込まれていく。上半身を取り込まれてもなお息はあるようだが、残った下半身で空を蹴り、その行為が呑み下されるスピードを速めていることにも気付けない様子は、まさに悲壮そのものだった。


 そして——


封印完了ごちそうさま♡」


 巨竜が兵士を嚥下する音にも劣らない、ゴキュンという生々しい響きを終止符に、グラミルを囲っていたバリアが解除される。これも魔法のなせる業なのか、男一人を丸呑みしたにもかかわらず、彼女の扇情的な体型は「まったく」変化していなかった。少なくとも、俺の目には。


「な、なんだ? ちょっと胸が大きく……」


 口を半開きにして立ち尽くしていたグレイが、その姿を見てポツリと呟く。真偽を判定するために俺が目を凝らすまでもなく、彼女は口に手を当てて笑う。


「ふふっ、よくお気付きですこと。さすがリーダーは『観察力』が違うわね」

「ち、ちが……っ」


 俺たちに誤解されたくないと思ったのか、グレイはすかさず首を振る。


「貴方の言うとおり。食後は誰だってお腹が膨らむでしょう? それと同じことよ」


 グラミルはそう口にすると、ひと回り豊かさが増したバストに手を添えた。デューイは消化されてしまったのか? もしそうなら、彼はなぜ最後まで抵抗し続けることができたのか? こんな疑問すら強引に片付けるほどの「魔力」が彼女にあるとすれば——俺たちの取るべき行動は一つしかない。


「おまえら、逃げるぞ!」


 グレイの指示に従い、俺と俺の同僚はすぐに地面を蹴った。この天才的なリーダーにひとつ文句が許されるなら、せめて「彼自身」は最後に走り出してほしかったものだ。スタート位置が違うとはいえ、俺たちがグラミルから五メートルほど離れた時点で、既にその背中ははるか前方にあった。


「あら、今さら逃げるなんて許さないわ。次は『スープ』を頂かなくちゃ」


 彼女がそう言って前屈みになるのを、俺は後ろ目に捉えていた。爆乳をくっきりと縦断している谷間を、まるで砲門のごとく俺たちに向ける体勢から、何かを「発射」するのではないかという疑念さえ脳裏をよぎる。


——二秒後、俺はその答えが「真逆」であることを思い知らされる。


「『浮気者ラブ・ペナルティ』♡」

「な、なんだ……⁉」


 生温かい風がうなじを吹き抜けると同時に、俺は首から下が動かなくなるのを感じた。両足の自由が利かなくなり、彫像のようにその場に立ち尽くすことを強いられる。隣を走っていた同僚のピートも同じ状況のようだが、先頭をゆくグレイだけは様子が違った。


「い、いったい、うわあああっ……!!」


 足が地面に張り付いている俺たちとは正反対に、彼の体は見えない手につまみ上げられたように浮かんでいた。空中を掻きむしる抵抗も虚しく、そのままグラミルの方へと引き戻されていくリーダーに向けて、俺はとっさに手を伸ばす。


「曹長、手を!」


 ハンター生活で鍛えられた動体視力が功を奏し、汗ばんだグレイの手を掴むことに成功した俺だったが、その異常な吸引力にすぐさま「無理だ」と悟る。よって一秒後には早々、俺はその手に力を込めることを諦め、せめて彼に恨まれない表情を作ることに全力を費やしていた。


「お前、もっとちゃんと……!」

「……ごめんなさい」


 汗で滑った感を最大限に演出しながら、俺は慎重に手を離した。瞳から希望の色が消えるのと間を置かず、グレイは空中でぐるっと半回転し、頭からグラミルの谷間へと吸い込まれていく。やがてそこに衝突した瞬間、乳房という巨大なクッションに顔を受け止められたとは思えないほど、彼は苦悶の表情を浮かべていた。


「あがっ、らめっ……つぶれるうぅぅっ!」


 それがリーダー最後の言葉だった。謎の引力に容赦なく吸い込まれ続けたグレイの体は、デューイと同様、おっぱいの中にずぶりと呑み込まれる。ただしその速度は彼の比ではなく、肩や腰などの幅の広い部分ですら難なく嚥下する様子は、彼女が言った通り、まさにスープを飲み干すかのようだった。


「……あら」


 胸当てに引っかかった大きなブーツ。グレイにとって最後の希望であるそれらを、グラミルは両足から丁寧に取り外し、残った素足をおっぱいに押し込む。つま先まで「ゴキュッ」と平らげた後、彼女の胸がさらに重量感を増したことは、今度こそ俺の目にもはっきりと分かった。


「そ、曹長……どうして……」

「ふふっ……どうして『彼』だったのか、知りたい?」


 混乱を隠しきれないピートを前に、グラミルは妖しく目を細める。


「『浮気者ラブ・ペナルティ』はね、半径30メートル以内で、私のおっぱいを最も意識している人を吸い込む魔法なの。てっきりリーダーさんには嫌われてると思ってたけど……実際は彼が一番ドキドキしてたみたいね」


 彼女に熱く抱擁されたデューイが乳房に封印される様子を見て、俺たちも「羨ましい」という気持ちがまったく無かったといえば嘘になる。ただ表向きは平静を装ったところで、最終的にその気持ちを見抜かれた挙げ句、グレイのように吸い込まれてしまうのだとしたら、もはや公開処刑以外の何物でもない。


「さてと。お次は誰かしら、と言いたいところだけど……きっとこれ以上は捕まえられそうにないわね。お二人とも、とっても『足が速そう』だし」


 皮肉っぽく言い放つグラミルに対して、俺もピートも両足を動かすことができなかった。既に金縛りの効果は切れているため、逃げようと思えば逃げられるのだが——。


「ふふっ、どうして走り出さないの? 私が怖いんでしょう?」

「ああ……ああっ……」


 俺より数センチ近くにいたという理由だけで、ピートに照準を合わせて歩み寄っていくグラミル。彼女の豊かな胸を視界に入れてしまった以上、その意識を完全に断ち切って逃げおおせる道は不可能に近い。だがそれ以上に「同僚にバレたくない」というプライド意識が、俺たちをその場に凍りつかせている最大の理由だった。


「リーダーみたいに苦しみながら取り込まれるのは嫌でしょう? 大人しくしていれば、たっぷりおっぱいの感触を味わわせてあげる」

「うっ……で、でも……!」


 彼女の胸に顔をうずめる寸前で、ピートは我に返ったように踵を返した。しかしその行動が裏目にしかならないことくらい、俺にだってわかる——。


「やれやれ……『浮気者ラブ・ペナルティ』」


 グラミルがそう唱えた瞬間、俺は首から下が再び動かなくなるのを感じた。だがそれは、今回の標的が「俺」ではないことを意味している。案の定、体が浮かび上がったのはピートの方で、彼はグレイのように空中で一回転することもなく、足先からグラミルの胸に引き寄せられていった。


「や、待ってくれ……!」

「残念ね、素直になれば優しくしてあげたのに」


 ピートが彼女に飛び蹴りをしているように見えなくもないが、蹴りを入れる側がここまで恐怖に顔をゆがめているパターンも珍しい。彼の靴が触れただけでも、グラミルのおっぱいの柔らかさは嫌というほど伝わってくる。今の状況を楽しむ余裕がピートにわずかでも残されているとしたら、きっとこの瞬間までだろうが。


「やめ……きつっ……!」


 物理的に入るはずもない胸の谷間に沈み込んでいくのだから、そんな感想が出るのも当然だ。くるぶしから腰までずるりと呑み込まれ、捕食者と目を合わせることを余儀なくされた「獲物」の心境など、考えただけで血の気が引く。


「さあ、お友達に挨拶しましょうね」

「ロ、ログ……助け……」


 鉢植えから顔を出した苗木のように、胸から上を残すばかりとなったピート。何もできないまま数秒の時が流れた後、俺が不謹慎にも噴き出してしまった理由は他でもない。極上の乳肉に左右から押しつぶされていく彼の顔が、あまりにも「おかしかった」からだ。


「ふごっ! むぐぉぉぉぉぉっ!」


 パン生地がローラーに巻き込まれるかのごとく、ピートの頭部はバニー服の内側に引きずり込まれていく。両足の自由が戻っていることに気付いた俺は、彼を尻目にすぐさま駆け出した。逃げるチャンスがあるとすれば、奴が呑み込まれている今のうちだ——。


四角四面テーブルマナー


 背後からそう聞こえた瞬間、俺は自らの誤算を思い知る。結界の発生条件が獲物を「抱きしめている」間であることは、さっきグラミル本人の口から説明された通りだが、まさか「呑み込んでいる」最中もその範疇だとは。出現したバリアの内側に額から激突し、俺はそのまま意識を失った。





「うっ」

「あらあら、起きちゃったのね……可哀想に」


 目を開けた時、俺はグラミルの声が異様に近いことに驚いた。視界を埋め尽くす「青」が空や海のそれではなく、彼女の皮膚であることに気付いた俺は、すぐに後ろに飛びのこうとした。


 だが金縛りにあった時以上に、首から下の感覚がない。既に身体のほとんどが彼女の胸に取り込まれていることに気付いたのは、それから数秒後のことだった。


「こ、これは……」

「あなた、丸一日も気絶してたのよ。よほど打ちどころが悪かったみたいね」


 そこは戦場ではない「どこか」だった。粉塵の舞う荒野から一転、穏やかな日差しが差し込む白いベランダにいることを知った俺は、既に自分が天国にいる可能性すら疑った。


 しかし、どうやらそうではないらしい。


「ここは私の家よ。そして、今はお昼の二時五十五分。いつも『デザート』は三時からなんだけど……あなたの寝顔が可愛くてね。ついフライングしちゃったわ」


 彼女はそう言うと、谷間から頭だけを突き出している俺の頬に左手を添えた。反対側の手は今朝のものと思われる新聞が握られている。


「あなたの国……ウェスタリアは完全に陥落ですって。おたくの兵士は全員やられちゃったみたいね」

「ば、馬鹿な!」

「……気絶したあなたを連れて帰ろうとした時点で、既に戦いを諦めているウェスタリア兵を何人も見かけたわ。この記事では明言されてないけど、彼らのほとんどがサキュバスに搾り殺されたそうよ。それも『自ら』ね」

「それって……」

「どうせ殺されるなら快楽の中で逝きたい、という魂胆でしょうね……貴方だって、今から私のおっぱいに呑み込まれるんだもの。昨日の仲間と同じ目に遭えるなんて、嬉しいでしょう?」


 グラミルは上下四本ある腕のうち、上の二本で俺の頭を押さえ込んできた。息を止める間も与えられず、柔らかい乳肉の狭間に沈められる俺。先に呑まれたグレイやデューイのことを、一瞬でも「羨ましい」と思った自分を殴りたくなるような息苦しさに襲われながら、俺はおっぱいの中で立ち泳ぎをするかのごとく暴れた。とはいえ、既に呑み込まれている首から下の部分がどのような状態にあるかすら分からない状況だ。消化されているような痛みはないものの、自分の腕や足がまだ形を保っている保証はどこにもなかった。


「ぶはあっ……!!」

「ふふ、苦しかった?」


 再び「水面」に顔を出すことができたが、決して立ち泳ぎが功を奏したわけではない。この気まぐれな乳魔が、俺の頭上から両手を外してくれただけだ。人外の女一人に生殺与奪を握られている状況に、やり場のない屈辱感がこみ上げてくる。


「ほらほら、そんな顔をしないで。手作りのビスケットでもいかが?」

「がふっ……!」


 こんな状況下でなければ、さぞ美味しいビスケットだっただろう。紅茶なしでは呑み込むのも難しいそれを口の中に押し込まれながら、俺は喘ぐことしかできなかった。


「ふふ……ちょっと昔話をしましょうか」






「十五歳のころ、私には好きな人がいたの。好きで好きでたまらなくて、毎日その人のことばかり考えてた。ある日、とうとう我慢できなくなって気持ちを伝えたら……向こうも私を『好きだ』と言ってくれたわ。あの時の嬉しさは今でも覚えてる」


 唐突な告白だった。


「でもね……数か月後、彼がベッドの上でおかしなことを言い出したの。ご両親の仕事の都合で、どうしても遠くの州に引っ越さなければいけない、とか何とかね。距離は関係ないだの、毎週手紙を書くだの……畳みかけるようにいろんなセリフを吐いてきた彼の頭を、私は無意識に抱きしめていた」


 当時を再現するかのように、グラミルは俺の頭にそっと両手を置く。


「『わかってもらえた』と思ったんでしょうね。彼はしばらくの間、おとなしく私の胸に顔をうずめていたわ。でも少しずつ苦しくなってくると、その両手は私を振り払おうともがき始めた。彼は初めて……私のことを引きはがそうとしたの。当然、向こうの方が力もあるから、私は少しずつ押しのけられていったわ。でもそこで彼を自由にしたら、私たちは一生離れ離れになるような気がした。その時よ……『この腕』が生えてきたのは」


 四つの手のひらが、俺の顔を優しく包み込む。


「そ、それじゃ……」

「ふふっ、お察しの通り、私たちは生まれた時から『乳魔』だったわけじゃないわ。彼をおっぱいの中に『封印』したいと強く願った瞬間から、私の腕は四本に増え、肌はみるみる青くなっていった。するとどうかしら……先に窒息しちゃった彼の顔が、私の胸に溶け込んでいくのがわかったの。その後どうなったかは、わかるでしょう?」


 到底抗いきれない力で、ぐぐっと俺の頭は胸の中に押し沈められていく。


「んぐぅ、むぐぅぅっ!!」

「ゆっくり呑み込んであげるからね。ちょうど三時になったし……お互い、思う存分『味わい』ましょう?」


 ふくよかな谷間に鼻と口を覆われたまま、空気を求めてさまようことしかできない肉のラビリンス。命乞いすらさせてもらえないまま、俺は再び彼女の中へと引きずりこまれていった。グラミルの話に出てきた「彼」も同じように、肺の中に残っている空気をブリブリと強制的にひり出される感覚を味わいながら、この豊かな乳房に捕食されてしまったのだろう。


「ふふっ……早く失神したい、なんて願っても無駄よ。あなたは今日から私のおっぱいとして生きていくの。女性のおっぱいの一部になれるなんて、夢みたいでしょう?」

「んぐぅぅぅ!!」

「活きのいい子は好きよ。このまま『空気』にバイバイしましょうね~♡」


 ぐぼり、という粘液質な音を最後に、俺は頭頂部が完全に沈むのを感じた。自分が今どういう状況にあるのか見当もつかないが、ただひとつ言えるのは、気を失いたくとも意識が変わらずはっきりしている、ということだ。巨大な怪物の胃に収まった人間と、乳魔のおっぱいに取り込まれた者の運命がイコールでないことは、何となく想像がつく。


 次の瞬間——気絶する一歩手前で時が止まったような苦しさの中、聞き覚えのある「声」が頭の中にこだました。


(出してくれ……もう……いやだ……)


 顔は見えなくとも、その声は明らかにグレイのものだった。どんなに暴れてもこの空間から出られないという、絶望感を露わにした声。


 いつの間にか、俺は四方八方をそんな声たちに取り囲まれていた。


(おっぱいやだ……出たいよぉ……)

(息したい……息させて……ぇ)


 デューイやピートだけでなく、それ以前に彼女に呑み込まれたと思われる連中の声も聞こえてくる。これらすべて、グラミルの胸の中にぎゅうぎゅうに押し込まれた魂たちの叫びなのだろう。


(グラミル……許して……)


 有象無象の男たちの中でも、ひときわ深い懺悔の念を発している声があった。本人から話を聞いていなければ気にも留めなかっただろうが、囚われている魂の多くが「グラミル様」などと呼んで許しを乞う一方、唯一彼女を呼び捨てにするその声の正体に思いが至った瞬間、俺は恐怖におののいた。グラミルが乳魔になるきっかけを作った「彼」も、ずっとこの中で苦しみ続けているのだ。誰もが全力で悶えているつもりだが、バストアップの養分にされた俺たちが束になったところで、このおっぱいを内側から「ぷるん」と揺らすことすら叶わないだろう。


(ぐぅ……むぐぅ……!)


 すでに魂だけとなった身体に酸素が必要なはずもない。それでもこの息苦しさが終わらないのは、きっと彼女の胸に窒息させられている感覚だけが、俺たちの魂に強く焼きついているからだ。空気を取り込む気管や肺も消化されてしまったというのに、その苦しみだけを延々と繰り返す運命にあると悟った瞬間、俺は自らにこう言い聞かせるしかなかった。


(シ……シアワセ……これはシアワセなんだ……)


 そうだ——世の中には流れ弾に当たって死ぬ兵士もいれば、身の毛もよだつような姿をした怪物に上半身を食いちぎられて死ぬ兵士もいる。あの戦場でミノタウロスに惨殺された連中のことを思えば、乳魔の胸に全身を取り込まれて死ねるなんて、むしろ数ある死に方の中でも羨ましがられる部類だ。


(だ、大丈夫……ここ天国……天国なんだ……ァ……!)






「ふふっ……なーんて言ってる頃かしらね」


 春風が吹き抜ける空の下、花柄のティーカップを口元に寄せながら、グラミルは重みを増した胸をそっと撫でる。たくさんの魂を吸って大きくなればなるほど、魔法に頼らずとも多くの男達がそれに吸い寄せられていく以上、彼女が食うに困ることはまずないだろう。


「ずっとそこで飼ってあげるからね……♡」


 世界一柔らかい監獄があるとするなら、それは彼女のおっぱい以外にあり得ない。奥深くに無数の魂を閉じ込めているとは思えないほど、その谷間は春の小庭にゆったりと鎮座していた。


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