03 しづの苧環
時房が尼御所にかけつけると、蒼白な顔の政子と、苦々しい顔をした義時が待っていました。
義時は時房の顔を見るなり、「橘高明を見てどう思った」と聞きました。
時房は、事の次第を語りますが、義時は畳みかけるように、彼に見覚えは無いかと聞きます。
時房は、しいて言えば、朝時と似ているような気がすると答えました。
政子が急に語りだします。時房は幼なかったから覚えていないのも無理はないが、あの橘高明という公家は、宗時兄上と(桜子に)よく似ている。特に声は宗時兄上そっくりだと言います。
義時が、そこから御台所:信子から聞いた話を続けます。
高明は本来は藤原(三条家)の血筋であり和歌の家系だった、父親の三条高道が東国からきた白拍子と恋をして、勘当された。二人の間に娘と息子が生まれ、高道は乳人子の橘家に世話になって父の勘気がとけるのを待っていた。
流行り病でその白拍子が重病になり、高道は父親に詫びて、薬代を頼んでが、父親はそれを拒否し、彼女が亡くなった。後に、高道の兄が病死した時、父は高道に家に戻るように行ったが、高道はそれを拒否して、子供を橘家に託して程なく亡くなった。
橘家は文官で、坊門家との縁があったたので、高明と姉は坊門家に仕える形となった。
高明は和歌の上手であったので後鳥羽院にも気に入られるようになった。
高明の姉:千草は、後鳥羽院縁戚である目の不自由な皇子に気に入られ、坊門家の身内という触れ込みで皇子の側に仕えるようになる。
高明は後鳥羽院に気に入られてもいたが、院の寵姫が高明に恋の和歌を送り、高明がつれない返歌をしたのが、院の気に障り、暫く目通り禁止となっていたところに、信子から、実朝の和歌の師を探しているという手紙があったので、院は高明を関東に送ったという事であった。
院から信子あての手紙には、高明は深酒で体を壊しているので、東国で暫く静養させるように、また、昔高明が、母の故郷である東国の富士をみたいといっていたので、富士の歌をよませたいと書いてあったという。
どう考えても、高明は宗時と葵の孫である。偶然とは考えられない。後鳥羽院が、宗時の孫を鎌倉に送り込んできたとしか思えないと義時は言います。
政子は、宗時兄上の孫であっても葵の子供であるから、義時や時房に何の影響もない、宗時兄上の顔を覚えているものも、身内以外にはいないなず。
一刻も早く、時政に知らせて、陰ながらでも対面させたいと言います。
義時は、院が高明を鎌倉に送りこんできたのは、おそらく、幕府の中での院の発言力を増すためだろう。少なくとも、三浦義村は宗時兄上と桜子の事は覚えているから、高明と会えば、気が付く可能性は高い。もし、三浦が、桜子は(宗時との約束で)三浦の娘として宗時の正室にしていたと言い出したら、高明は北条の嫡男と三浦の血を引くことになる。北条家にとっては、跡目争いの火種となると主張します。
義時が、高明を殺しかねないと思った政子は、高明の身元は明かさず時政と対面させる。それは決まったことだと命じました。
京から来た、公家の高明は、御所の女房達の憧れでありましたが、政子からの命令もあり、また高明は実朝の和歌の指導をしているので、女房達の騒ぐ事をしなくなりました。
三浦義村は、高明の噂を聞き、その姿から、宗時の孫だと確信し、高明を宴に誘いますが、高明はそれを辞退し、だれも交わろうとはしませんでした。
京から来た高明の出自
時政の長男 若くして戦死した宗時の孫
時政が愛してやまなかった宗時、会わなかったことを今に至るまで公開している孫:桜子
その血を引く高明が、鎌倉にやってきたことで、北条家の中に立場の違いででてきます