ワインより酔えるブドウのジュース
「卒業したら、すぐご結婚ですわね」
友人の伯爵令嬢ジョスリーヌが、うっとりしている。
「エリザベト様のウェディングドレス、お綺麗でしょうね」
はぅー、と同じテーブルを囲むご令嬢方も息を吐く。
「ご期待にそえるよう頑張りますわ」
私は、はにかみを含んだ笑みを浮かべた。
「あぁー、もう相変わらず天使? 天女? 女神ですわ!」
ジョスリーヌ様も、その反応、相変わらずですわ。
放課後、カフェで友人たちと少し話した後、別れて王宮への帰途に就いた。
私は辺境伯令嬢エリザベト。
3年間勉学にいそしんだ学園を卒業間近。
その後には結婚を控えている。
お相手は、この王国の第二王子殿下。
辺境伯家は政治に首を突っ込むような家柄ではない。
国境警備のための軍隊を率いているので、王家への忠誠を確かなものにしておく必要はあるだろうが、これまで王家との婚姻は結ばれてこなかった。
そんな我が家にある時、王妃様とのご縁ができた。
十年前、王家の家庭教師をしていた義母と父が出会い、お互いに一目惚れした。
それを知った王妃様がいろいろ心を配ってくださり無事、結婚にこぎつけたのだ。
「本当に嬉しいわ。エリザベトがわたくしの義娘になるなんて」
「私もです。王妃様」
「だぁめ! お義母様って呼んでちょうだい!」
「はい、おかあさま」
「んー可愛い!」
ニッコリ小首を傾げる王妃様も、まだまだお可愛いです。
「微笑ましいけど、僕を無視しすぎ」
いつもの王子殿下とのお茶会の最中だ。
今日は特別に王妃様が参加されている。
私が王妃様とばかり話すので、ちょっと拗ねている殿下。
「ふふ、もう行くわね。後は、若いお二人で…」
いえ、結婚間近ですから。お見合いじゃありませんから、と突っ込みたくなる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
殿下と初めて会ったのは、父の再婚へのお骨折りに感謝を申し上げるため、一家で王城へうかがった時だった。
当時14歳だった殿下は、ちょっとずんぐりむっくりした体型だった。
私は一目見てときめいてしまった。
その時、私は6歳。口が達者で頭の回転も悪くないが、妙に大人ぶりたくて可愛げのない子供だったと思う。
子供っぽく見られることが嫌で、本当は大好きなぬいぐるみを遠ざけた。
そんな私は、殿下を見て、クマのぬいぐるみを思い出した。
きびきびとした辺境伯軍の兵士を見慣れている目には、殿下の王族らしい優雅な動きが、のっそりしたクマさんに見えた。
生身の人間を、クマのぬいぐるみ代わりに愛そうとした、実に不純な初恋である。
殿下を気に入ったことが王妃様に伝わったようで、仮婚約を打診された。
正式な婚約ではないが情報は公にされる。
仮婚約している未婚者には新たに婚約を申し込まないのが普通だ。
数年後、学園の専門課程に進んでいた殿下はフィールドワークのため辺境伯領へ来るようになった。
専攻は生物学。
8歳年下の私は、殿下が野生動物調査で野山に出る時、邪魔になるのでついていけなかった。
私たち家族と一緒に領主館で過ごす殿下は、研究で忙しい中、一日一度は私とお茶をしてくれるなど、十分に気を遣いかまってくれた。
でも、意地っ張りで子供な私は、それでは嫌だった。
殿下について歩いて、ちゃんと役に立ちたいと思った。
それで両親に相談し、まずは身体を鍛えることにした。
前線を引退し、事務官をしていたお父様の部下の方からトレーニングの指導を受けた。
最初はお遊び程度、それから少しずつ本格的に。
殿下が辺境伯領を訪れるたび、段々と強くなっていることをアピールした。
幼い妹を見るような目をしていた殿下が、会うたび真剣に私を観察するようになっていく。
やがて、殿下は納得したように頷き、私に調査の助手を任せると言った。
そして同時に、仮婚約から正式な婚約を交わすことになる。
婚約の前に、思い切って殿下に訊いてみた。
「本当に、私でいいのですか?」
殿下はこう言った。
「つまらないフィールドワークについてきたくて、毎日努力するような女の子を他の誰かに渡せるわけがないだろう」
「君こそ、いいのか?」
「何がですか?」
「僕はもう、可愛いクマ体型じゃないけど?」
なんでご存じなの!? 私は赤面した。
すっかり大人になった殿下は一言で言えば、ごく平均的な体型だった。
でも、フィールドワークの時、他の研究者たちと同じような服装をしていても一目でわかる。
いつだって、私は殿下を見つけてしまうのだ。
「だってもう、どんな殿下でも、眼が勝手に探してしまうのですもの」
少し困ったような、微妙な笑顔になった殿下が額にキスしてくれた。
私は12歳。殿下は20歳になっていた。
殿下のフィールドワークについて行けるようになって、他の研究者の皆さんとも、よく話をするようになった。
「辺境伯家のお姫様なのに、フィールドワークにつきあうなんて!」
と最初は驚かれたが、そもそも皆さんと一緒に歩き回ってるのは王子殿下ですから!
領内での護衛は辺境伯家から付けているが、その他に殿下には側近がいる。
通常は最低でも二人。事務方と、最後の防衛線になる護衛官だ。
ところが、殿下の御付きの二人はどうも怪しい。
まったく、それっぽくない。
私が疑いの眼差しを向けていると、殿下が
「彼らは、側近の前に同じ研究者仲間だから」と説明してくれた。
あー、なるほどー…っていいの? それは大丈夫なの?
「ほら、研究者って金回りが悪いから大変なんだよ。予算は有効に使わないとね」
「何かあったら、どうするんですか?」
「なんとかする」
殿下の力強い笑顔は素敵だけど…
研究者の皆さんには文官用の宿舎の空き部屋を使ってもらっていた。
食事もそちらで用意されるので、普段は別だ。
お父様が時々、本館での食事とお酒に誘うと皆さん喜んで来てくださる。
「アタシのオトコに手を出すなって、何度言ったらわかるんだ~!!」
すぐに酔ってしまうミシェルさんが、叫んでいた。
ミシェルさんは平民で、ショートカットが似合うお姉さんだ。
フィールドワークについて行くとき、よくかまってもらっている。
アタシのオトコ、は恋人という意味ではない。
目当ての動物を狩るときに、手を出すなっていうこと。
フィールドワーク中のミシェルさんの口癖だ。
でも、今は館の談話室でお酒を飲んでいるところ。
お父様とお義母様も同席している。
他の研究者さんが、恐る恐るお父様をうかがうと、ニコニコして全く動じていなかった。
それもそのはず、辺境伯軍には傭兵も傭兵上りも多い。
お上品な言葉遣いだけでは、やっていけない領地だった。
私は、お義母様が気になさるかと、そちらを窺った。
目が合ったお義母様は
「エリザベト、猫をかぶるタイミングを誤ってはいけません!」
と半眼でおっしゃる。
え? とびっくりしている間に、コテンと首を傾け寝てしまった。
すぐにお父様が抱き上げて
「ちょっと疲れてるようだから、寝かせてくるよ」
と連れて行った。
お酒で酔うことなどない、お義母様だ。
「先生は育児疲れで大変そうだな」
殿下がおっしゃった。
自分の家庭教師をしていたお義母様に対し、くだけた席では、いまだに先生呼びになる。
お義母様は嫁いできてから3人の男子を産んだ。
そのおかげで領内では評判も発言力もうなぎ上り。
もちろん、それに見合うだけの努力は常に怠っていない。
3人の弟たちは元気いっぱい。
侍女やメイドに侍従も十分につけているが、総指揮のお義母様が一番大変なのは間違いない。
この分だと、明日はお父様に強制的に休まされて、一日中、甘やかされるのではないかと思う。
相変わらずラブラブな二人が、ちょっと羨ましい。
その流れで、家庭教師時代のお義母様の話になった。
「先生は、授業になると、そりゃもう厳しくて」
「え? あんな穏やかで優しそうな夫人が?」
殿下の話に、研究者仲間たちが驚いている。
「豹変ってこれかー、と実地で学んだ」
「おー!」「かっこいー!」「もっとやれ~!」
まあ、聴衆は酔っ払いである。
「エリザベトは先生に習ってないの?」
「はい。基礎が出来ているか、最初に確認してもらって大丈夫だったみたいで。
後は、課題図書を出されて、質問したり、討論したりという感じです」
「さすが優秀だな」
褒められて、照れ隠しに手に持ったジュースを飲もうとしたらカラだった。
殿下は新しいグラスにブドウのジュースを注いで、私のグラスと交換した。
なんでわかったんだろう? ブドウジュース飲みたいなって思ってたこと。
殿下がくれたジュースは、お酒じゃないのに、飲むと頭がポーっとなるような気がした。
14歳になり、私は王都の学園に入った。
学園はかなり自由で、学び方も様々だ。
基礎課程を1年間受けて卒業する者もいるし、授業を受ける時間が取り難いなどの理由で最長の6年間在学する者もいる。
学びたい内容がはっきりしていれば、3年以内で基礎課程を終えて希望する専門課程で数年学ぶのが一般的だ。
更に勉学を深める者は、研究生として学園に在籍しながら学者を目指したり、どこかの研究所と共同研究を行ったり。
殿下は基礎課程を1年で終え、専門課程で4年間学んだ。
お義母様には今でも感謝している、とおっしゃる。
王子であるお立場では、成人に近づくに従って公務が増えるので、早く専門課程に進んだほうが有利だ。
研究生になれば、自分でスケジュール調整が出来る。
私もお義母様の指導のおかげで、基礎課程を1年で終えた。
その後、結婚までの2年間は殿下と同じ生物学の専門課程を選んだ。
フィールドワークで目にしてきたあれこれが、系統立てて頭に入って来るのはとても楽しかった。
研究者とまではいかなくても、出来るだけ一緒に野山に出られるようにと、貪欲に知識を吸収していった。
生物学の教授たちからは、せめてあと一年学べば学者への道も開けると引き留められたが、殿下が間に入ってくれた。
「後は、僕が教えるから任せてほしい」
と言われれば、教授たちも引くしかない。
殿下は仲間たちとの共同研究で、すでに生物学の学者として認められている。
学園での授業はすべて終わり、あとは卒業パーティーを待つのみだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
王妃様が戻られた後、新しく淹れてもらった花の香りのお茶をゆっくり飲む。
「あんなにエリザベトを引き留められるとは思わなかった。
優秀過ぎるのも考え物だな」
「フィールドワークに連れて行っていただいたお陰ですわ。
実際に目にしてきたものが、様々な表現で文章にされているのを学ぶのも興味深いです」
「いっぱしだ」
「お恥ずかしいです」
「…あ、いや、皮肉じゃない。僕には無い視点で、それがいいと思う」
褒められて、嬉しかった。
「また、連れて行ってくださいます?」
「もちろんだ。
…王族なんて面倒だな。結婚するのに、手間がかかりすぎる。
早く、自由になりたい」
「あと、少しですわ」
「長すぎる少しだな…」
殿下は遠い眼をした。
ノックがあり、エステの準備が出来たから王妃宮に来るよう案内があった。
実は辺境伯家は王都にタウンハウスを持たない。
貴族の付き合いよりも、国境警備が優先されるからだ。
お父様も王都に来るときは王城内に泊まる。
私は学園に入るために王都に来た時、すでに第二王子殿下の婚約者だったので、当たり前のように王妃宮に部屋を与えられた。
そして、王妃宮の滞在には、もれなくエステが付いてくるのだ。
初めてエステを受けた時、エステ隊と呼ばれる侍女のお姉さまがたは、非常に悔しそうだった。
「どういうこと! いくらお若いとはいえアラが一つもないなんて!」
「造形美に内面の筋肉の美しさが追い付いているわ!」
「天使? 天女? 女神なの!?」
「落ち着くのよ皆! エリザベト様はプティ王妃様。
出来る限りのことをしましょう!」
なんだか申し訳ない気持ちになったものだ。
ところが、中では一番の新人らしい方が言った。
「先輩方、右腕と左腕の筋肉の付き方が少々不均等ですわ!」
うつぶせになっていた私に、皆さんの顔は見えなかった。
だが、明らかに雰囲気が変わった。
あれは、獲物を見つけた興奮だ。
ちょっと緊張が走ったけど、結果として丁寧なマッサージを受けただけだった。
さすが王妃様のエステ隊は仕事が確か。
あの時、お姉さまたちには褒めてもらったが、顔も身体もお父様とお母様にいただいたもの。
フィールドワークに行きたくて鍛えた分は、殿下やトレーニングの教官のお陰。
あとは、辺境伯領にある温泉や食べ物という土地の恵み。
いつか、この恩を返せるといいな。
エステ隊のお姉さまたちにも何か返せるかしら?
人に優しく触れられると、安心する。
幼い頃、私に触れて安心させてくれたのはお義母様。
大好きなお義母様…
「おはよ、エリザベト」
眠り込んでしまった私が目を覚ますと、もう一人のお義母様(になる予定)である大好きな王妃様がそこにいらした。
卒業パーティーの日が訪れた。
学園の大講堂は式典用の豪華な垂れ幕を使って、いつもと違う華やいだ雰囲気を作り出している。
植物学の研究室から贈られた花々も、会場の盛り上げに一役買っていた。
式典そのものは簡素に行われ、メインは立食とダンス。
学生生活最後のお楽しみだ。
私は殿下のエスコートで会場に入った。
先に来ていた友人たちが近づいてくる 。
「まあ、素敵なドレス!」
「お似合いですわ、エリザベト様」
「レースの上に回されたリボンが立体的で、新しいデザインですのね」
裾にぐるりと回された飾り紐が、やはり少し目立つようだ。
「レースが少し浮いてしまうので、抑えのために追加してもらいましたの」
「なるほど。そういうやり方もあるんですね」
しばらくして学園長や来賓の挨拶があり、その後ダンスに移る。
殿下のリードは巧みで、さすが王族として慣れていると思う。
ふと気づいた。
今まで、何人の令嬢と踊ってきたのだろう。
私の殿下に、何人の手が触れてきたの?
「エリザベト、どうかした?」
私の小さな不機嫌が伝わってしまった。
「あ、いいえ、なんでも…」
「言ってみて」
殿下に隠し事は出来ない。
「私は殿下としか踊ったことがありませんが、殿下は今まで何人のご令嬢と踊ってこられたのかな…って」
「片手で数えられるほどだ、とでも言いたいけど、実際は数えきれないくらいだね」
「はい、お立場上そうですわね。変なことを言って申し訳…」
「でも全部、義務だから記憶にない。この手に覚えているのは、君の指だけ」
「殿下?」
「なんてね」
いたずらっぽく笑う殿下に抱き寄せられる。
「残念ながら招かれざる客が来たようだよ」
耳元で囁かれるとゾクッとするけど、今はそんな場合ではない。
「これはこれは、第二王子殿下ではありませんか」
イケメンっぽい貴族令息が話しかけてきた。
例えるなら、ふだん三枚目をやってる役者が無理して二枚目づくりにしてる感じ。
三枚目なら三枚目の魅力で勝負すればいいと思うんだけど…
「失礼だが、君は誰だったかな?」
「カンボン男爵家のブレーズと申します。以後お見知りおきを。
…いや、二度とお会いする機会はないかもしれませんが」
「どういう意味かな?」
「あなたがここで暢気に踊っている間に、王宮は大変なことになっていますよ。
まあ、もう戻れないでしょうがね」
もったいぶった口調で、さっぱり要領を得ない。
だが、残念なことに彼の話は私たちには通じていた。
時はさかのぼって、この前、殿下とのお茶に王妃様が参加された時のことだ。
「例のクーデターだけど、決行の日時がわかったわ」
王妃様がおっしゃったクーデターの話は、半年ほど前に聞いていた。
王都で妙な動きがある、と。
調査は秘密裏に進められ、殿下も私も表面上はいつも通りに過ごしていた。
だが、結婚の準備で外部の人間と接触することが多くなっているせいで、護衛は増やされた。
「エリザベトが美しすぎて、何かあったらと思うと心配でいられない」
などと殿下が事あるごとに方々で仰り、そのせいで護衛が増えていることになっていた。
「必要なこととはいえ、嘘でもそんなふうに言われると恥ずかしいですわ」
と申し上げると、王妃様も殿下も真顔で
「嘘は少しもない」と仰るのだ。
…若干引いた。
それはともかく。
カンボン男爵家は、クーデター関係者名簿にあった名前だ。
今回のクーデターのメインターゲットは王城と王族。
その情報を掴んだうえで、罠を張って王城におびき寄せるのだが、丁度、私の卒業パーティーの日と重なった。
殿下と私を狙う別動隊が来る可能性が高かった。
「君は一人で来たのかな?」
「さあどうでしょう? お答えすることに意味はありますかね。
すぐに王城制圧の知らせが来る。
その時が、あなたの最期ですよ」
絶対の自信にあふれているようだ。
剣術が得意、などとは言われたことのない殿下を全く警戒していない。
「エリザベト様は、お助けしてもいいですよ」
そう言いながら気持ちの悪い眼で、私を見てくる。
「現王家は無くなるので結婚もご破算だ。傷物のあなたを、私がもらってあげてもいい」
「!」
「妾としてね」
酷い侮辱だ。だが、怒りもわかない。
誰があんたなんか、とは思うが、伏兵のあぶり出しがある。まだ様子見。
緊迫した場に、近づく気配があった。
そちらを見れば、若い女性だ。
卒業パーティーの参加者にしては、襟ぐりの開き過ぎた品のないドレスだ。
そして、こぼれんばかりの爆乳! すっごい、初めて見た。
「ブレーズ~、まだ終わらないのぉ~」
「おお、リリアーヌ、マイハニ~」
三枚目芝居、じゃない三文芝居が始まった。
「ええ~、このヒト王子様ァ~? 意外と地味~」
そこがいいんじゃないの! 地味の魅力がわからないのかしら?
「でも、殺しちゃうのはもったいないかも~」
「そうもいかないんだ、お父様たちの命令だからね」
生殺与奪を語るなど百万年早い!
「じゃ~ぁ、その前にアタシ、ちょっと遊んでみたいわぁ~」
さすがにイライラしてきた。
リリアーヌと呼ばれた女は、殿下に近づいて腕をとる。
そして、そのでっかい乳をムギュ~と押し付けていた。
私は思わず後退り、腰が抜けたように床に座り込んだ。
そして素早く裾に巡らされた紐を外し、隠しポケットに固定してあったグリップを握る。
「ねぇ~王子様ァ、イイコトしましょ」
そう言いながら、リリアーヌは講堂の控室に殿下を連れ込もうとしていた。
一歩、二歩、三歩…五歩…もう十分だ!
私はすっくと立ちあがる。
「ちょっと、そこのアンタ!」
リリアーヌが振り返った隙に、殿下が身体を離す。
「アタシのオトコに手を出さないでちょうだい!!!」
しまった! 殿下の前なのに猫かぶれてない。
まあ、今はいいか。
何か言い返そうとしたリリアーヌの足元を鞭で払った。
見事にひっくり返る。
慌ててナイフを手にしたブレーズも、同じく払い倒したが、手元が狂って鞭の先端がコートの端に巻き付いてしまった。
伏兵がいたら、次の攻撃が出来ない。
思った通り、様子を見ていたらしい男が5、6人動き出す。
だが、私たちに近づく前に床に倒れ伏した。
ふと、講堂のキャットウォークを見上げれば、殿下の二人の側近が手を振っていた。
手にしているのは、たぶん、野生動物を捕まえる時に使う吹き矢用の筒。
殿下は倒れた男たちの様子を見るふりで、証拠隠滅のために矢を拾っていた。
分厚い革製の袋に入れているところをみれば、麻痺毒か麻酔薬が塗られているのだろう。
「なんとかなったね」
「そうですわね」
「…ところで、その靴は?」
私はハイヒールを脱いで、手に持っていた。
「伏兵がいたら、投げようかと思って」
「なるほど」
「万一の時、殿下がお逃げになるための時間稼ぎになりますもの」
殿下は黙ったまま、一瞬、私を抱きしめてくれた。
やがて講堂の扉が開かれ、騎士の一隊が入ってきた。
王都では、ほとんど目にすることのない色の騎士服。
あれはフォール辺境伯軍、父の指揮する軍隊の色だ。
騎士たちは床に倒れ伏す罪人たちをロープでぐるぐる巻きにすると、大げさに頭上に掲げて運び去る。
伝令が殿下に駆け寄り、王城でのクーデター勢力鎮圧を告げた。
殿下は講堂内に大声で呼びかけた。
「とんだ余興で騒がせてしまって申し訳ない。
三文芝居はこれにて終了だ。宴を続けてくれ!」
とはいえ、明らかに不穏な事件が目の前で起こったのだ。
殿下に呼びかけられたものの、会場はまとまりなくざわついていた。
そんな中で最初に動き出したのは給仕たち。
テーブルを整え、飲み物を新しく注ぎなおしていた。
「さっきは、よく耐えましたね」
「なんのこと?」
「リリアーヌさんの爆乳」
「ああ、ほんとだよ。触りたい、揉みたい欲求を抑えるのが大変だった」
「控室に入ったら、どうしようかと思いましたわ。
きっと……リリアーヌさんが可哀そうなことに」
「実に残念だ。エロディと揉み比べてみたかったのになあ」
エロディは殿下の愛人、ではない。
王立牧場で飼われている乳牛だ。
先日、殿下が牧場に行かれるのについて行ったばかり。
殿下直々に絞ってくださった牛乳は新鮮で美味しかった。
「でもやっぱり、まずいですわ。
万一、人権問題に発展したら庇いきれませんもの…」
「そうだな。純粋に学問的興味と言っても、通じないだろうしな。
気を付けることにしよう」
半分冗談のつもりだったが、ちょっと不安が残ったりして…
トレーを持った給仕たちが、会場を回りだした。
鮮やかな赤ワインや、涼し気な白ワインのグラスが運ばれていく。
「殿下もワインをお飲みになります?」
そういえば、私ももう公の席でお酒を飲んでもいいんだと思い出した。
「私もいただこうかしら…」
「エリザベトはこっち」
そう言って殿下が給仕から受け取ったのはブドウジュース。
濃い紫色がワインより上等に見える。
「ありがとうございます」
見れば、殿下も同じものを手にしていた。
「内緒だが、植物学研究室の奴らが、直近の記憶が曖昧になる薬をワインにいれたかもしれない…」
「……」
「いや、人体にはたぶん、有害ではないはずだ」
殿下の別動隊も、なかなか大したものだ。
少しずつ会場の雰囲気がほどけてきた頃、数人の給仕がフロアに進み出た。
給仕服に手をかけたと思うと、パッと道化師の装いに早変わりする。
ワインボトルでジャグリングをする者、軽々と宙を飛び身体一つで驚くような動きをして見せる者。
その中の一人がレイピアを抜き、放り投げたリンゴを空中で8つに割った。
落ちてきたリンゴは、道化師が掲げていただけのレイピアに魔法のように順番に突き刺さっていく。
「…」
「見事なものだな」
「お恥ずかしいものを」
殿下は笑った。
あれはお父様の宴会芸だ。
軽業などを披露しているのは、お父様がスカウトした辺境伯軍の兵士たち。
元サーカス団員で、今は斥候部隊に属すると聞いている。
けして、娘の卒業パーティーの余興要員として雇ったわけではないはず。
「辺境伯軍の一部を動員して、王都から出ようとするネズミの対処をしてもらっている。少数精鋭をこの会場の警護に回してくれたようだ」
「そうでしたか」
「義父上に隠し芸まであるとは、僕に勝てる要素は一つもなさそうだ」
なぜ、勝負を挑むのでしょうか、殿下?
殿下には数えきれないほど素敵なところがたくさんある。
お父様と比べることは、私には出来ない。
だって、お父様の素敵を数えるのは、お義母様の役目だから。
例えば、ワインじゃなくて、ただのブドウジュースで私をポーッとさせられるのは、殿下だけです。
…とは恥ずかしくて言えなかった。
なのに、殿下は私の隣で言った。
「君と飲むブドウジュースは、なぜか酔うね」
「え?」
思わず殿下のほうに顔を向けると、びっくりするほど顔が近くにあって…
その時、レイピアの道化師が唐突に殺気をはらんだ。
こちらに向けて歩き出そうとした彼を、周りの道化師たちが素早く囲む。
そして、どこからか出したテーブルクロスですっぽり覆った。
道化師たちは大仰に片手を上げて、指で大きく5つカウントを取る。
会場中の視線を集め、パッと取り払われたテーブルクロスの中には、レイピアの道化師の姿は無かった。
さっきの事件など忘れたかのように沸き上がる会場。
続けて、たくさんの白鳩が飛び出し、皆の視線が道化師たちに釘付けになった。
ふと視線を下げると、テーブルの下に人間が一人入れそうな袋が転がっていたことや、その袋を給仕たちがさりげなく運び出していたことなど、私は見ていない。
当然、給仕たちと親指を立てあったなんてことも、全くの事実無根である。
その手を殿下が取って、自然に指を絡めたことも誰にも内緒だ。
甘い微笑みを浮かべて
「オレのオンナは最高だ」と言ったことも。
結婚式まで、あとわずか。
それまでに、心の中の宝箱は秘密であふれそうな予感がした。
『王妃様のお土産』には6歳のエリザベトが登場します。未読の方は、よろしければ併せてお読みいただくと幸いです。