男だってひなまつり
家紋武範様主催の「夢幻企画」参加作品です。
男だってひなまつり
窓から差し込む朝日が、ようやくやわらかな光を放ち始めた。
ホーホケキョ。
耳をすますと、時おりどこからか、ウグイスのさえずりが聞こえてくる。
「おはよう」
重たいまぶたをごしごしこすりながら、ぼくは、居間のソファーにどしんと腰をおろした。
「何だ。また夕べ、おそくまでゲームしてたのか」
出勤前の父さんが、コーヒーカップ片手に、ぼくを見てニヤリと笑う。
「春休みだから、つい気がゆるんじゃうのよね」
横から姉ちゃんが、温かいカフェオレの入ったマグカップを差し出してくれた。
マグカップから立ち上る湯気が、けだるい眠気を少しずつとりはらってくれるようだ。
二、三回せきばらいをしたあとで、父さんが口火を切った。
「沙織、今年はどうするんだ。ひな人形は」
サラダを取りわける姉ちゃんの肩先がピクッとふるえる。
「おばあちゃんとも話したんだが、人形も魂があるものだからなあ。五年間も放っておくのはどうかと思うんだが……。もし、もう沙織にかざる気がないんなら、人形を供養してくれるお寺にでも持っていこうかと」
「それだけはやめて!」
姉ちゃんは強い口調で、父さんのことばをさえぎるとぼくの目を見つめて言った。
「こうちゃんと相談してみるから」
―なんだよ。弟になんか振るなよ。
ぼくは、あわてて姉ちゃんから目をそらすと、ピアノの上におかれた母さんの写真を見つめた。
ぼくたちの母さんは、五年前に亡くなった。
その時、姉ちゃんは小学三年、ぼくはまだ五才だった。
とぎれとぎれのぼくの記憶をパズルのようにつなぎあわせていくと、母さんが亡くなった日、家の庭は桜が満開で、居間にはひな人形がかざられてあった。
なぜ、桜の時期にひな人形かといえば、母さんは生まれ育った実家のしきたりどおりに四月に入ってから、旧暦のひなまつりをしていたからだ。
うす桃色の着物すがたで棺におさめられた母さんの手に女びなを握らせ、
「あちらの世でも、おひな様といっしょにね」
涙ながらに話しかけていたばあちゃんの姿が、今でもくっきりと目の前に浮かんでくる。
「母さんのひな人形、古今びなっていうらしいの。とても古いおひなさまみたいよ」
ぼくが二年生になったとき、姉ちゃんはそう教えてくれた。
「母さん、ひな人形をとっても大切にしていたわ。これは沙織が大切に受けついでいってねって、毎年言われていたの」
けれども、いちばんの主役であるはずの女びなが去ってから五年間、姉ちゃんは一度もひな人形の入った桐箱に手を出そうとしない。そのことは、ぼくも気になっていたけれど、同時にほっとしていた。
女びなのいないひな人形。
居間にかざられでもしたら、いったいどうしていいのか自分でもわからない。わざと無視するか、ひょっとしたら、ひな段ごとけとばしかねない気もする。
「主役がいないひな人形なんて、まがぬけてらあ」
ぼくは、わざとはきすてるように言い、大声でめちゃくちゃな替え歌を歌ってきたものだ。
あかりをつけましょ ばくだんに
ドカンといっぱつ はげあたま
五人ばやしのさるまなこ
きょうはまぶしい ひなまつり
「こうちゃん、ひな人形どうしよう」
朝食の後、姉ちゃんが話しかけてきた時も、ぼくは返事のかわりに思いきり声高らかに、この替え歌を歌った。
あきらめたように大きなため息をついて、洗い物を始めた姉ちゃん。その後ろ姿に胸がチクチクうずいたけれど……。
「孝、今日オレ、塾だから先に帰るぞ」
いつもいっしょに帰るトオルが、今日はすっとぶように教室を出ていった。
ぼくの名前は『たかし』と読む。『こうちゃん』と呼ぶのは、亡くなった母さんと姉ちゃんしかいないのだ。
新学期も始まり、にぎやかになった校庭をゆっくり横切って、ぼくは校門を出た。
これからしばらくは、ぼくの家の近くまで桜並木の一本道が続くのだ。
同じ間隔ごとに何十本と植えられたソメイヨシノの下を歩きながら、ぼくはふっとひな人形のことを思った。
結局、今年もひな人形はかざらずじまいだった。
そのことで二週間くらい前、姉ちゃんとぼくはちょっとした口げんかをした。
「ねえ、こうちゃんはどう思うの? ひな人形のこと…。かざった方がいい? それとも…」
「うっせえなあ、姉ちゃんのひな人形だろう。勝手に決めろよ」
「だって、こうちゃんの気持ちも考えてるから、私も決心がつかないでいるのに……」
「なんでもかんでも人のせいにすんなよ。ぼくには、関係のないことなんだから」
そこまで言って、ふとふりかえると、姉ちゃんは両方の目にうっすら涙を浮かべていた。
「弟なんて、弟なんてだめだよね。妹ならよかった。こうちゃんなんて話し相手にもなんない」
「へーんだ。話し相手なんてまっぴらごめんだ」
捨てゼリフをはいて、くるりと背中を向けたものの、ぼくの胸はナイフでぐさぐさに突きさされたように痛かった。
ぼくが小さい時から、母さんと姉ちゃんはひなまつりがくるたび、いつもいっしょにひな人形をかざっていた。楽しそうな二人を見ていると、ぼくの心もうきうきしたけど、うっかりあいだに割りこんでいこうものなら、そくざに
「こうちゃん、これ母さんの宝物だからさわらないでね」
何度も声をそろえてたしなめられた記憶がある。
居間にひな段が組み立てられ、その上に赤いもうせんが敷かれると、たちまちそこは、ぱあっと華やいで、春がかけあしで家の中にとびこんでくるようだった。
ひなまつりの晩に、必ず作ってくれた母さん特製のケーキ寿司。それは、ちらし寿司をバースデーケーキのようにかたどり、菜の花畑のようにふんわりと錦子玉子をしきつめた上に、食紅で染めたうずら玉子のひな人形をかざったもので、姉ちゃんもぼくも競っておかわりをしたものだ。
そんな思い出いっぱいのひなまつりが、ぼくにとって関係ないわけがない。
ぼくは、ただ姉ちゃんがうらやましかったのだ。
母さんの香りのする形あるものーたとえばひな人形や、着物や、アクセサリーを受け継いでいくのは、全部姉ちゃんだ。だからといって、男のぼくがそんなものを譲り受けるのは、考えただけでも女々しすぎる。
ぼくだってもちろん母さんとの想い出はあるつもりだけれど……。何か、もっとしっかりとした形ある思い出がほしかった。そうでなきゃ、いつも心の中におしよせてくる寂しさの波に足をすくわれてしまいそうだ。鼻のおくが、つうんと熱くなってきたので、ぼくは急いで、あのめちゃくちゃな替え歌バージョンを口ずさんだ。
おだいりさまとオカマさま
ふたりならんでスマシじる
おヨメにいらしたバアさまに
よくにたカンジョのアカイケツ
歌い終わったちょうどその時、ぶあつい春風がざあっと吹いて、桜の花びらがいっせいに、雪のように舞い散りはじめた。まるで、うす桃色のカーテンを閉ざしたように、前が全く見えなくなり、アスファルトの路上がみるみるうすい花びらにおおわれていく。
やがて風が止み、前を見たぼくは、はっと足を止めた。たった今まで、桜並木の歩道を歩いていたはずなのに、いつのまにか回りの景色は、見たこともない山の中の一本道に変わっている。一本道をとりかこむように、あちらにもこちらにも数え切れないほどの山桜が、うっすらとピンクに染まったベールをかぶったように咲きほこっていた。
「どこなんだよ? ここ」
きょろきょろあたりを見回しながら歩いていくうち、ベールの中から一軒のりっぱな屋敷が顔を出した。
聞きなれた曲が、ころりんしゃんと琴の音色にのって流れてくる。たった今までぼくが歌っていた「ひなまつり」の曲だ。
琴の音色に誘われるように、ぼくは開いたままの縁側に近づき、そうっと首をさしいれた。
「すっげえ……」
懐かしい情景が、いっせいに目の中に飛び込んできたのだった。
十畳二間続きの広い座敷いっぱいに、所狭しと並んだあふれかえるくらいのひな人形。
みるからに古めかしく、歴史を思わせるような昔の人形も、デパートで売っているような新しい人形も、どれもみんな金の屏風の前におごそかに並べられ、目にしみるようにあざやかなもうせんの上では、五人囃たちが今にも太鼓やつつみを打って踊りだしそうだ。本物そっくりの御所車や、針箱、鏡台、重箱などの調度品、手のひらにのせられるくらいに小さな御膳まできちんとかざられてあった。
順々に目で追っていくうちに、見覚えのある女びなにはっとした。
「あれは、たしか母さんの……」
とつぜん、後ろで姉ちゃんの声がした。
いや姉ちゃんよりもっとやわらかくて、なつかしい声のひびきだった。
「大きくなったね。こうちゃん」
ふりかえったぼくの目の前に立っていたのは、母さんだった。
うす桃色の着物を着て、ふんわりとほほえんでいる。姉ちゃんそっくりの切れ長の瞳、すっと通った鼻すじ、あごの下のほくろ、まぎれもない母さんだ。
「母さん!」
ぼくはただそれしかものが言えずに、大きく目を見開いて、ばかみたいに目の前の母さんを見つめているだけだった。
「こうちゃんたら、とってもへんてこな歌、歌ってるんだもの。でも曲は「ひなまつり」でしょ。母さんも思わずいっしょにお琴ひいちゃった」
母さんはさもおかしそうに、うふふと笑って、
「ね、もう一回歌ってみてよ?」
いたずらっぽい目つきでぼくを誘う。
ぼくはかぶりをふった。こんなにたくさんのひな人形たちを前にしては、さすがにあの歌を歌う勇気はでない。
「ねえ、母さん」
ずっと口にしたかった『母さん』の一言に力をこめて、ぼくはたずねた。
「ここでなにしてるの? このひな人形たちはどうしたの?」
母さんは、少しさびしそうな笑顔をこちらに向けた。
「実はこのひな人形たちはね、いろいろな理由で焼かれたり捨てられたりしてしまったものなの。そんな人形たちの魂を形あるものにして、母さんは、ここでこうしてかざってあげてるの。母さんといっしょに来てくれたおひな様への感謝もこめてね」
ぼくはだまってうつむいた。母さんが、大切にしてきたひな人形たちを、五年間も闇の中に閉じこめたままなんて知ったら、母さん、何て思うだろうか……。
「そうだ! 二人でひなまつりしようよ。こうちゃん」
とつぜん、はずんだ声で母さんが言った。
「しよう、しようよ。こうちゃんが大好きだったケーキ寿司も作ってあるの。白酒だってあるのよ」
母さんはぼくの返事も待たずに、そそくさとひなまつりの準備を始めた。
ぼくたちは、何本ものぼんぼりのあかりがゆらめくひな段の前に、向かい合ってすわった。
「こうちゃんが、本物のお酒を飲めるようになるのは、あと何年後かな」
にっこりつぶやきながら母さんは、とくとくとぼくに白酒をついでくれる。
山桜が、春風にのってひとひら、ふたひらと音もなく、畳の上に舞い散ってくる。
白酒を飲み、昔のようにケーキ寿司のおかわりをしながら、ぼくは母さんにいろんな話をした。
学校のこと、友達のこと、今はまっているゲームのこと、父さんや姉ちゃんのことなどいくら話しても話し足りないくらいだ。
うんうんとあいづちを打ちながら、ほほえんでくれる母さんが、実はとっくの昔に亡くなったはずの人だなんて、まるでうそのような気がしてくる。
「これって母さん……」
ぼくは思わず口にしてしまった。
「夢? まぼろし? それとも現実? なんだってかまわないよ。ぼく、ずうっとこうしていたい」
母さんは困ったような目を伏せ、静かにこたえた。
「もし、これが夢であっても現実であっても、時間は過ぎていくわ。時間の流れがたくさんの思い出を作ってくれるのよ」
山桜が急にはらはらとこぼれはじめた。
ぼくはおもてに出ると散ってくる花びらを体でうけとめながら、心にたまっていたことを一気に吐き出した。
「ぼくは形のある思い出がほしいんだ。ひな人形だって何だって、母さんの大切にしてたものはみんな姉ちゃんの物じゃないか。ぼくには何にも残っていないの? そんなのってたえられないよ」
その時、かすかに鼻先をかすめた一枚の花びらに、ぼくの目は釘付けになった。
花びらの内側の、白っぽい部分に何やら絵のようなものが描かれている。いや、絵というよりは写真といっていいくらい、はっきりとしている。
まだ幼いぼくが、母さんの肩をたたいている姿がある。あわててそこいらじゅうにふりつもった花びらをかき集めて手にとってみると、やはりどの花びらにも、大切な思い出が描かれていた。
ぼくと手をつないで幼稚園へいく母さん。
ぼくにほおずりしている母さん。
ぼくを抱っこしている母さん。
ぼくにオッパイを飲ませてる母さん……。
胸に熱いものがどっとこみあげてくる。
「たった五年間しか、いっしょにいられなかったのに……」
そうつぶやいたとたん、大粒の涙が止まらなくなってしまっていた。
ひざをかかえこんでうずくまったまま、しゃくりあげるぼくの頭に、やわらかいものがふれる。母さんの手のひらのようでもあり、こぼれおちる花びらのようでもあった。そのうちぼくは、何だか息苦しくなってしまった。頭や肩、足の上をうっすらとおおった桜の花びらが、どんどん重くなっていくのだ。
「助けて! 助けてーっ! 母さん」
悲鳴に近い叫び声をあげた時だ。
りんとした母さんの声がひびいた。
「思い出にうずもれないで。こうちゃん。さあ、立ち上がって見てごらん。このたくさんの桜はね、全部こうちゃんの心に咲いてる、母さんとこうちゃんの思い出の桜なの。たとえ母さんがいなくても、あなたの心の中に生きているかぎり、ずっとずっと咲き続けるのよ。
こうちゃん、思い出は力よ。これからのあなたを支えていく力になっていくのよ。だから強く生きて。ね、こうちゃん」
ぼくは立ち上がるとげんこつでぎゅっと涙をふいた。
そうか、そうなんだ。ぼくの心には桜の木がある。
母さんとぼくだけの想い出の桜の木が。
ずしりと手ごたえのある、母さんからのかけがえのない贈りものだと思った。
ぼくの目の前を再び、花びらのカーテンが閉ざした。
もう二度と、ここには来られないかもしれない。
でも、不思議と寂しくはなかった。
母さんがつまびく琴の音色が、かすかに聞こえてきた時、ぼくは母さんと母さんのひな人形たちのために、今度こそ替え歌でない、本物の「ひなまつり」の歌を心をこめて歌った。
あかりをつけましょ ぼんぼりに
おはなをあげましょ もものはな
ごにんばやしのふえたいこ
きょうはたのしいひなまつり
「こうちゃん」
名前を呼ばれて、はっとしてふりむくと、そこはもといた桜並木の歩道だった。
「母さん?」
「やだ! なにねぼけてるの? 私よ」
母さんそっくりの瞳が笑いかけている。
今見てきたことを姉ちゃんに話そうかと迷ったけど、やっぱりぼくの胸だけに大切にとどめておくことにした。
姉ちゃんと並んで帰りながら、ぼくは不意に立ち止まった。
「あのさ、姉ちゃん」
姉ちゃんがけげんそうに、ぼくを見つめる。
「少しおそくなったけど、帰ったらいっしょにひな人形かざろうよ。これからもずっと」
姉ちゃんはびっくりしたように、まじまじとぼくの顔を見つめていたけれど、笑いかけようとした口もとを、くしゃっとゆがませ、こっくりとうなずいた。
その夜、五年ぶりにひな段の一番上の真ん中にすわった男びなは、女びながいなくてさまにならないどころか、すべてのひな人形を守っているかのように、ぐんとたのもしくみえた。
「母さん」
ピアノの上の写真に向かって、ぼくは小さく呼びかけてみた。
「ぼく、これから毎年、姉ちゃんとひな人形かざっていくよ。この男びなみたいに、母さんのひな人形と姉ちゃんのこと、しっかり守っていくんだ。これって絶対女々しくないよね」
写真の中の母さんが、にっこりとうなずいたようで、ぼくは心の中の桜がまた一本、今、七分咲きから満開に花開こうとするのを感じていた。
お読みいただきましてありがとうございました。