千佳さんとワセダくん
幼少期の記憶。急な雨に降られ、神社で雨宿りをしているときに、神主さんが教えてくれた。
「雨はね、世界中の泣けない人たちの代わりに、空が泣いているんだよ」
夏の雨。焼け付いた地面が熱を冷ます。
「じゃあ、みんなが我慢せずに泣いたら、ずっと晴れがつづくの?」
7歳になったばかりのわたし。前歯がいっぽん抜けていた。
「大人になったらね、泣きたいときに泣けないことが多いんだよ」
そう言う神主さんはどこか悲しい顔をしていた。この夕立は、神主さんの涙だったのかな。
しばらくすると、雨は止んだ。雨上がりの空気は、すっきりと澄んでいた。
そういうものかと思いながら、わたしは神社をあとにして、田んぼの畦道を走って家に帰った。
大人になった私は、時々、あの日の夕立を思い出す。この社会で生きていくのは、なかなかに大変だ。
泣きたいのに泣けない大人は周りにごまんといる。そりゃゲリラ豪雨も頻発ですわ。
東京に出てきてはや10年。気づけば私も30手前。仕事は大分慣れてきた。
周りはどんどん結婚し、未婚の私に募る不安。彼氏のワセダは甲斐性なし。結婚する気があるんだか。
今日も今日とて電車に揺られ、丸の内のオフィスへGO。
後輩からはチーフと呼ばれ、担当プロジェクトも結構順調。
社会の中には嫌な奴もいる。だけど、奴にとっては、私がきっと嫌な奴。
男の嫉妬は見苦しい。女の嫉妬はえげつない。
気づけば今日も定時を迎え、周囲を見渡し、適度に残業。
20時過ぎたし、そろそろ帰るか。チームのみんなにさようなら。
「おかえりー。ご飯食べてきた?」
家に帰るとワセダがふにゃふにゃした笑顔で私を迎えた。最近買った鬼滅の刃のTシャツを嬉しそうに着ている。
「まだ。なんかあるの?」
私はジャケットにファブリーズをかけた後でクローゼットにしまった。
「肉じゃがつくったんだけど、食べる?」
ワセダはいつでも優しい奴だ。バイトをしながら、小説家を目指している。
「ありがとう。ビールってまだあったっけ?」
「まだあるよー。はい」
ワセダがビールを注いでくれ、やさしい肉じゃがもよそってくれた。
グラスに並々と注がれたビールをぐいっと飲み込む。キンキンに冷えたビールが仕事で火照った私の頭まで冷やしてくれる。
「っかー!うまい!」
この一杯が生き甲斐だ。
「はは、千佳さんおっさんみたいだよ」
ワセダは自分もビールを1本開け、スマホをいじりながら飲んでいる。
「女が男社会で生きていくとね、30超えるころにはおっさんになってんのよ」
吉崎先輩の受け売りだ。35歳の吉崎先輩は今じゃ立派なおっさんだ。
「なにそれ。じゃあ、千佳さんももうすぐおっさんとして完成するってこと?」
「そうなる前に、ワセダが救ってくれないとね」
ちょっと意地悪を言ってみた。ワセダはなんて言うのだろう。
私は何気なくテレビを観ているふりをしながら、横目でこっそりワセダの様子を伺う。
「疲れたら、いつでも辞めていいんだよ」
メガネ越しの真剣な目。
「えっ?」
なんだよ。予想外の反応だ。
「頼りない僕だけど、二人ならきっと、なんとかなるよ」
優しい笑顔。久しぶりに涙があふれた。
明日はきっと晴れだ。