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「皆さん、着席してください……って、既に着席していましたか」
張りのある、少し低めな声が教室内に響く。
頬杖をつき、窓の外に見える中庭をぼんやりと眺めていたフレイアは、教師らしき男性の声の方に意識を向けることにする。
「まず、私の自己紹介をさせて貰いますね。私はルフス・エルドゥール。教科担当は歴史です。一年間あなた方の担任を務めさせて貰うことになりました。これからよろしくお願いします」
二十代の半ばあたりだろうか、まだ若々しさを感じさせる立ち姿だ。後ろの方で一つに纏められた、胸より少し短いくらいの赤茶の髪に、まるでルビーのような深い赤の瞳。柔和そうな微笑みからは、垂れ目がちな瞳もあいまって人懐っこそうな大型犬のような印象を与えさせる。
「とりあえず、これからの学園生活についてお話させて貰います。一番近い行事といえば、一学年最大行事である林間合宿です。アクウィナの森での二泊三日の研修では、学年、学級の絆がより一層深まると思いますよ」
(林間合宿、すごく楽しそうだわ。小説で読んだような、強い絆がそこでうまれるのね)
フレイアは大衆小説を好んで読む。特に好きなのは、学園で育まれる甘酸っぱい恋のお話や、ぶつかり合いながらも深まる友情の話。
林間合宿は、大衆小説でも頻繁に登場する行事だ。小説で描かれているような素敵な事がこれから待っているのだと思うと、自然と口角が上がってしまう。
「その他には、大々的に開催される学園祭に、学生の本分である定期試験、といったところでしょうか。皆さん、たった三年しかない学園生活、存分に謳歌してくださいね。……あ、これ今、俺すごい良い先生感出てる気がする」
最後の一言は、恐らく小さく呟いた独り言なのだと思うが、後ろの方の席に座るフレイアにも聞こえる声量だ。教室内にいる生徒全員に聞こえているであろう。
だが、ルフスはそのことに気付いていないらしく、淡々と話を進めていく。
「では、これで私からの説明は終わります。この後は真っ直ぐ帰宅しても、学園内を散策するのも構いません。それではみなさん、また明日お会いしましょう」
そう言って、ルフスがゆっくりと教室を後にすると、生徒たちは各々動き始める。殆どが学園内を散策するようだ。
「俺達も学園内を散策しましょうか。ほんっと、この学園、馬鹿みたいに広いから、さっさと何処に何があるか覚えてしまわないとですね」
後ろの席からフレイアの前へと歩いてきたテオは、苦笑しながら主に話しかける。歩いてきたといっても、ほんの僅かな距離だけれど。
「そうね。迷って移動教室に遅れたりしては嫌だもの」
この学園の校舎は、長い歴史があるだけなのか、少しばかり複雑な造りとなっている。そのせいで、新入生は学園の地理を覚えるのに一苦労するのが一つの伝統となっているのだとか。
「じゃあ、行きましょうか、テオ」
椅子を引き、立ち上がる。
確か校舎は二階建て。生徒数が少ない割に、広い敷地を所有しているため、教室棟、実習棟、クラブ棟と三つに分かれていて、それらは渡り廊下で繋がっている筈だと、廊下を歩きながら記憶を探る。
「──、お嬢!」
何処から見て回ろうかと考え込んでいると、不意に腕を掴まれ、引き寄せられる。いきなりどうしたのだと首を傾げると、彼はまるで子をたしなめる親のような顔をして、小さく溜息をつく。
「そのまま歩いていたら、人にぶつかるところでしたよ。考え事すると、すぐまわりを見なくなるんだから、全く……」
「す、すみません……。気をつけます」
しょげた顔で謝ると、テオはいつものように、「次から気をつけてくださいね」と言い、頭を軽く撫でる。
何年も前から、何回も撫でられている筈なのに、心臓はまだ慣れることはなくって。この先も慣れることはないのだろうと考えるのと同時に、鈍感な彼はフレイアの好意に気づくことはなく、一方的な片思いでこの恋は終わってしまって。そして、テオは他の誰かと結ばれてしまうのだろうな、とぼんやり考える。
そうすると、胸の奥がきゅっと締め付けられて、苦しくなってしまう。相手の幸せだけを願うことなんて到底出来ないし、テオが他の異性と話しているのを見ただけで、醜い感情が心のどこか奥底から湧き出てしまう。
(あれ、だけど私、なんでテオにアプローチもしないでこんなことばかり考えているのかしら)
いつもいつも、自分だけがドキドキして、彼に自分のことを好きになって貰えればと思うだけの日々。そういえば、自分から好きと伝えようと思ったことは一度もなかった。
どうせ実らないであろう不毛な恋だ。それならば。
「もう、自分の気持ちを隠すのはやめにしようと思うの」