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そんな実に優雅な休暇も、あっという間に過ぎる。最後にもう一度二人きりでボートに乗りたいと朝からブラッドとパメラは出かけ、フィーも今日ばかりは書庫から抜け出し、レオナードと遠乗りをする予定だ。とは言ってもフィーが馬を操るわけではなく、レオナードの馬に相乗りさせてもらうだけだ。
「いや、こうして馬に乗るのは実は結構久しぶりなんだ。怖くはないけどちょっとドキドキするな」
「あまり硬くなるなよ、馬が怯える」
レオナードの愛馬は美しい栗毛で、たてがみはつややかな明るい生成り色だ。フィーが慣れるまではゆっくりと歩かせてくれるらしい。
「名前はあるのかい?」
「オスなんだが、リンダだ。二年前に亡くなってしまった、俺の乳母の名前なんだ」
「なんでまた乳母の名前を……?」
「結構俺が幼い時に仔馬を引き取ったんだが、当時俺が唯一まともに発音できる名前らしい名前だった」
「ずいぶんとかわいらしい理由じゃないか!」
思わず思いっきり笑ってしまった。平気そうだな、とレオナードが急に馬を走らせるので、慌ててレオナードにしがみつきながらごめんごめん、と声を上げる。
「フィーは乗馬の練習はしなかったのか?」
「したことがない。一応こうやって相乗りをする練習は父や兄と一緒にしたけど、それはもう五年以上前の話だし、なんならそれ以来乗っていないんだ」
「女性でも結構乗馬訓練はするものだろう」
「家族が心配性でね。練習中に落ちたりしたら大変だし、女性だったら乗らなくてもいいだろうって。本当は学園で乗馬の授業取ろうか悩んだんだけど、思いっきり反対されてしまったよ」
正確には、馬と言う自由な足を与えたら、まだ見ぬ本を探しに勝手に城を抜け出しそうだから、という理由なのだが、それは黙っておく。
「かなり心配性な家族なんだな」
そう言いながらもレオナードがまた一段階速さを上げる。大丈夫か。うん、慣れてきた。風が気持ちいい。そんなことを話しながら、また少し、もう少し。そうして結構な速さが出るとフィーが嬉しそうに前を向く。
「あまり身を乗り出すなよ」
「いや、すごい。こんなに速さが出るものなんだな。リンダ、君は本当にすごい馬だよ!」
「こいつの本気はもっと速いぞ」
「さすがにそれは遠慮したいけど、時間があったら走っているところを見せてほしい!」
山の中の道をどんどん進んでいく。一応後ろから護衛の騎士が数人付いてきてはいるが、それが気にならないぐらいにフィーの心が躍る。
「どこまでも行けそうだ」
「どこへでも行けるぞ」
楽しそうにこぼれた声は、心から羨ましそうで。レオナードも気休めだと分かっていてもそう返事をして。そうして一時間以上馬を走らせ、たどり着いたのは小さな滝の側だった。
「ここはマクミランのお屋敷よりも随分と気温が低いな。だから羽織る物を持って来いって言っていたのか」
レオナードの助けを借りて馬から降りる。レオナードが馬を離せば、馬はすぐに川のせせらぎに近づいて水を飲みだした。護衛の騎士が持っていた荷物から上着を受け取って、フィーも川に近づく。
「あんなに滝が近いのに、こんなに川は小さいんだな……ああ、高さがあるから落ちる途中で霧になっているのか」
「だからこそだいぶ気温も下がっているんだ」
そう言いながらレオナードが乗馬ブーツを脱ぎ捨てて川に足を浸ける。
「あ、ずるい」
レディが素足を見せるのは家族以外には好ましくないとされている。しかし、きっと素足で水に触れたら気持ちがいいのだろう。
「靴を脱ぐなよ。絶対に脱ぐなよ」
「さすがにそこらへんは心得てるよ」
「お前、書庫で裸足になっただろう」
「あれは仕方なくだ!」
「あー、羨ましいなあ。ねえリンダ。ずるいと思わない?」
ぱたん、と尻尾と一度打つだけで返事をして、リンダは利口だなあ、とフィーが嬉しそうに馬を眺める。
そうしている間に騎士が温かい紅茶と簡単な軽食の用意をあっという間にしてくれる。本当に優秀な人達だ。
のんびりと食事を楽しみながら、水辺に生えている草花を記憶だけで当ててみたり、ちょっとした水を使う魔術を練習してみたりと過ごしていると、不意にそういえば、とレオナードが口を開いた。
「この滝、妖精の滝って言われているんだ」
「妖精の滝?」
とくり。鼓動が跳ね上がる。思わず滝の方を凝視した。
「滝の裏に小さな洞窟があって、雨量が減って、尚且つ滝が凍らない雪が降る前ぐらいの時期にしか見えないんだが。その洞窟の奥深くには妖精が住んでいると言われているんだが、まったくもって調査は進まない。五十年ぐらい前には無断の調査隊五名がまるまる行方不明になって、三日後に隣の領の山奥で見つかった」
「こんな気軽に来ていい滝なの?」
「外から眺める分には問題ない。一応通った道はうちの屋敷の物だしな。まあ、冬になったら青い目の子供は近づいちゃいけないって話は昔からある。ほら、青い目の子供は妖精が好むから連れていかれるって話はあちこちにあるだろう」
ふうん、と滝を眺める。妖精の血を継ぐ者として不思議なほど穏やかに心が惹かれていく。どこか懐かしい気持ちすら沸き起こって、フィーは立ち上がるとドレスの裾をひょいと持ち上げて、ブーツのままバシャリと川へ踏み出した。
「フィー!」
「ちょっと近づくだけ」
雨の日に水を弾く魔術じゃあ、さすがにこの水量は防ぎきれないはずだ。それなのに不思議と靴の中まで水がしみ込んでいない気がする。ドレスに水が付いてしまわないように、水深十センチもないところを狙って限界まで近づいて。
ここまでくると、あまりに細かい水しぶきが風に乗ってしっかりとフィーを濡らしていく。
よくよく目を凝らすと、崖の思ったよりも高い位置にちらりと何かが見える。ああ、確かにあの位置に洞窟があるのならこの水量で行くのは難しいだろう。
それでも無意識にもう一歩前に踏み出そうとして。
「おい、フィー」
腕を掴まれて、ハッとする。振り返ると追いかけてきたレオナードが呆れ切った顔で、その向こうでは護衛が大慌てでタオルを用意したり体を温めるための魔術を準備したりしているのが見える。
「濡れる」
そういうなりレオナードは羽織っていた上着をフィーにかぶせ、そしてそのままさっと抱き上げる。わ、と声を出して慌ててレオナードの首にしがみついた。
「ちょっと、レオナード様!」
「靴もびしょ濡れだろう」
「淑女を断りもなく抱き上げるって、結構失礼だよ」
「淑女が濡れることも気にせず川に入っていくか?」
川岸に戻ると抱き上げられたままタオルに包まれる。その時になって体が冷えていることにようやく気付いて、フィーはごめん、と呟いた。
「でも、こんな風に抱き上げられたのは初めてだ。そもそも抱き上げてもらったのだって、子供以来だな」
「婚約者でもなけりゃ、滅多にこんなに触れたりはしないだろ。ああもう。父上にバレたら怒られる」
苦い顔をしながらも、体温を分けてくれているつもりなのか、レオナードはまだフィーを下さない。それに甘えてフィーは笑いながらレオナードにもたれかかった。
「私婚約者もいないし、兄は歳が離れてるからあまり遊んでくれないしで、こういうのは初めてなんだ」
レオナードがフィーの言葉に少しだけ目を丸くする。それはきっとこの避暑休暇も、遠乗りも、川遊びも、こうして今レオナードに横抱きにされていることも、全て含めた言葉なのだろう。レオナードはにやりと笑った。
「結構いい女なのにもったいないな」
ドクン、と。今までにない不可解な音で鼓動が跳ねた。どうしてかわからないが、僅かに胸が痛い。
風邪でも引いたのだろうか、とフィーは騎士から差し出された温かい紅茶を飲みながら考える。
「レオナード様。リンダに乗って走ればすぐに乾くさ。少し早めに帰ろう」
「そうだな。一人早めに屋敷に戻して風呂の用意でもしてもらおう」
「うん、それがいい。あ、川遊びのことは言わないでね。怒られる」
騎士の目には怒られて下さい、と言う言葉がありありと浮かんでいたが、かしこまりました、と承諾するとすぐに一人が馬に飛び乗り走り出す。結局ここにいた時間はきっと三十分ぐらいだが、充分に楽しめた。
レオナードと一緒に馬に乗り、彼の手綱でゆっくりと駆け出す。来た時よりも速さが出るのがずいぶんと早い。もしかして、結構心配をかけてしまったのかもしれない。フィーはレオナードにそっと寄りかかる。
「レオナード様」
「なんだ、舌を噛むぞ」
「ううん。……ありがとう」
そのお礼に返事は無いけれども、一瞬だけレオナードの視線がフィーを見る。フィーもまた顔を上げて、思わず小さく「あ、」と呟いてしまった。
それは、彼と親しくなってもなお、滅多に見ないような柔らかなレオナードの笑みだった。
まだしばらくは領地に残るレオナードとマクミラン夫妻に見送られて帰路に就いたのは、遠乗りをした翌日のことだ。そこから一週間かけた帰りの旅の間は風邪をひくことは無かったが、城に戻るなり体力が落ちていたのか。熱を出して三日ほどフィーは寝込んでしまった。
王家かかりつけの医者はただの夏風邪だ、と診断し、それを聞いて川に入ったのはもう一週間も前だよ、と思わずフィーが溢したことにより川遊びはバレてしまい、眠りに落ちるまでは医者と父である王太子、少し容体が落ち着いたころには見舞いに来たブラッドとパメラに宰相、フィー付きのメイドとありとあらゆる方面からお叱りが来た。
そうして残りの夏は王族としての執務をこなしながら、自室で大人しく読書をしたり論文を読み漁ったりと、いつも通りの夏が過ぎる。
それでも時々何かを思い出したかのようにフィーはくすくすと笑いだし、パメラやブラッドと内緒話をしては笑って。少しだけ楽しい、夏だった。
2章はここまで 毎日投稿もちょっとだけおやすみです。