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かくしてフィーは、到着から五日ほどは、屋敷から一歩も出ることなく存分に辺境伯家の蔵書を満喫した。時々レオナードと書庫にこもる他にはチェスやカードゲームに興じてみたりしつつ、フィーとしては充分に避暑を楽しんでいたが、しかし王家に仕える従順な貴族様にとってはよろしくなかったらしい。
それは六日目の午前。メイドを一人だけ連れてやはり書庫に籠っていたフィーに苦言を言いに来たのは、マクミラン辺境伯だった。
「殿下。陛下が許可を出しのは、地方領地の見聞を広げる、という建前があったでしょう」
「……こんなにも魅力的な本がたくさんあるのが悪いと思います」
はあ、と溜息をつきながらもフィーは本を閉じて背筋を伸ばす。
「愚息に町と湖でも案内させましょう。ブラッド氏とパメラ女史もすでに出かけていますよ」
「出かけると言いましても、レオナード様とご一緒に訓練に参加しているのでしょう。休暇なのですから、ゆっくりすればいいのに」
「彼らは現在、殿下の護衛任務の最中です」
頭が固いな、と思いながらもフィーは仕方なく頷いた。さすがに閉じこもりすぎている自覚はある。ふわりと微笑みを浮かべてゆるりと首を傾げてみせた。
「わかりました。実は窓から見える湖に惹かれていましたの。でも訓練の邪魔するのはどうかしらって。訓練が終わり次第、レオナード様をお借りいたしますわ。わたくしのために彼の時間を無理に奪うようなことはないように取り計らってくださるかしら」
「……かしこまりました。今日予定していた訓練が終わり次第、声をかけるようにさせましょう」
マクミラン辺境伯が頷く。しかしすぐに下がることなく、何か少し言いよどみ。どうしたのか、と言うようにフィーが目を細めれば、その声なき意思を読み取ったマクミラン辺境伯が口を開く。
「……殿下は愚息をお望みですか」
短い一言だ。フィーは満面の笑みを浮かべる。
「レオナード様は武術もさながら、知識の面においてもとても優秀ですね。将来、辺境伯を継いだ彼が、よく国王陛下、並び王太子殿下に仕えて下さることを願っています」
余所行きのとびっきりの笑顔が、フィーの最大限のつくり笑顔だと理解して、そして特に特別な意図は無いと悟ったのだろう。有難きお言葉、と頭を下げ、今度こそマクミラン辺境伯はフィーの前から下がった。付いていたメイドを外出の用意が出来たら呼んでほしいと告げて書庫から追い出し、フィーは椅子に座り込む。せっかくのびのびと過ごしていたのに、急に肩が凝り出したような、何とも言えない気分だ。
「ああ、叶うなら文字と結婚したいよ」
小さく呟きながら読みかけの本の背表紙を撫でる。
学園を卒業すれば、否応にも婚約者は決まるだろう。フィーを通すことなく文官や国王達がある程度品定めをして、決まりきった出会いを演出するかのように夜会やお茶会が開かれて、それこそ海外からも見合いの文書が届くだろう。
それでいい。それでいいのだ。理想とする結婚願望なんてない。
本の表紙を眺めながら、ぼうっと考える。そうしているうちに結構な時間が経っていたらしい。
「フィー、湖に行くんだって? 父上がどうせなら案内してやれって」
ひょこりと顔を覗かせたレオナードに、フィーは思考を止めてほっと笑う。
「昨日パメラが自分でボートを漕いだって言っていたから、気になっていたんだ。訓練の邪魔した?」
「いや、息抜きにちょうどいい。日差しが結構あるから日傘と帽子をしたほうがいいぞ」
差し出された手を取って立ち上がる。ボートに乗るの初めて、とフィーが言えば、本当か? とレオナードが驚く。他愛もない会話に、少しだけ沈んだ心が浮上した気がした。
ゆらゆらと水面が揺れて、青い空と蒼い木々を映した湖は美しいコバルトブルーだ。木陰になっている場所へとレオナードが漕ぎ進める。
「で、だ。フィー、本当に湖に行きたかったのか?」
ボードの上にはレオナードとフィーの二人きりだ。突然そんなことを言い出したレオナードに、フィーは目を丸くすると思わず声を上げて笑い出した。
「っ、はは……っ、ああ、レオナード様にはかなわないなあ。もちろん、書庫に籠っていたかったよ」
「やっぱりな」
「でも私の家がね、さすがに婚約者でもなんでもない無関係の家に遊びに行くのにって渋っていたから、見たことのない地方にいって見聞を深めるって言ってね」
「物は言いようだ。見聞って言っても見たことのない本の、だろう」
「正解」
二人で笑いながらゆらゆらと湖を進んでいく。
「でも私の家からレオナード様のお父様に話が行っていたんだろうね。見聞を深めに来たのに書庫に籠りきりでいいのか? って言われちゃった」
「……父上はそのあたりは硬いからなあ」
「まあ、レオナード様のお父様の言うとおりだよ。湖が気になっていたのは本当だし」
「適当に近場を漕いでとっとと書庫に戻るか?」
気づかわしげなレオナードの言葉にフィーは首を振る。
「いいや。ただボートに乗るだけなのに、結構楽しい。水の上からの景色って思った以上に違うものだね」
笑いながらフィーがあたりを見渡す。水面が日差しを反射してきらきらと眩しく光るのを見て楽しそうに目を細めながら、持っていた日傘を少し傾けて日陰にレオナードが入るようにする。
「それにオールがこんなにも重いとは知らなかった」
「フィーは日傘より重い物を持たない方がいい」
陸でオールを漕ぐ練習をした時点で、まずオールを持ち上げられなかった。平たくなっている面を地面につけたままどうにか腰の高さまで持ち上げるので精いっぱいで、レオナードに一瞬で取り上げられてしまった。
「だってそんなに重い物持つ機会なんてほとんどないよ。いきなりは無理だって」
「まあ普通は無理だろうな。……だからこそパメラ嬢がボートを漕いだって言ったときは本気で驚いた。騎士団の訓練にも軽いものなら普通についていけているしな」
「王女殿下の側近としてある程度は鍛えているみたいだけどね。ごく普通のお嬢様には無理だった」
「話に聞くとコルケットの魔法騎士団の訓練にも参加していたようだからな。どこかのタイミングで一度は手合わせ願いたい。……それにしても、三人とも本当に仲がいいな」
一瞬だけ木漏れ日がフィーの瞳に差し込む。入り込んだ光の眩しさにきゅ、とフィーの目が細くなる。
「そうだね。付き合いでいえばブラッドの方が少し長いかな。パメラとブラッドが本当に仲が良くて、理想的な婚約関係だなって思うよ。私が邪魔したら悪いかなってたまに思う」
「邪魔だったらブラッド辺りは直接言うだろう。そういえばフィーは婚約の予定はまったくないのか?」
「うーん。学園卒業したらたぶん家が決めるだろうからね」
少しだけ悩んで。いいかな、とフィーは水面に目を移しながら口を開いた。
「私さ。結婚とか婚約とか、割と興味があまりなくて。私が好きなのは本と魔術と研究だからね」
「本と結婚しそうだもんな」
あ、似たことを自分で思った。そんなことを心の中で呟いて。
「でもさあ。結婚したら相手の暮らしに合わせなくちゃいけない。きっと自分の趣味に費やせる時間は少なくなるし、それこそ研究とかなんて以ての外だ。学園を卒業したらそれこそ毎日のように夜会やらなんやらばかりで、たぶん思うように好きなことが出来なくなると思う。それはレオナード様もそうだろ?」
「……ああ、そうなるだろうな」
レオナードの肯定にフィーはふっと笑う。
「だから、せめて学生でいる間は、そういうことを考えないで、ずっとずっと研究とかしていたい。きっとこの二年間が、私に与えられた最後の自由だろうから」
ちゃぷん。遠くで魚が跳ねる。じわじわと高くなる日差しに、気温が少しずつ上がっていく。差していた日傘を傾けて、少しだけ水をすくって、ドレスが濡れるのも気にせずにその水をぱしゃんと自分自身にかけてみた。
「フィー、濡れる」
「私さ、ただね、小さな自由が欲しかった。子供でいられる間に好きなことを、やりたいことを、人目を気にせずできる自由が欲しかったんだよ」
これは二人だけの秘密にしておいてくれ、と。涙のように水滴を頬に付けてフィーが笑う。どこか違う人のように見えて、木漏れ日がきらきらと揺らめいて。
「……俺も。ほとんど同じだ」
オールを漕いでいた手が止まる。ぽつんと落ちてきた言葉に、フィーはそっとレオナードを見た。
「俺は学園を卒業して二年で、辺境伯位を継ぐことが決まっている。父上はそれから数年は城勤めをするが、あとは隠居なさるそうだ」
「……早いな」
「うちは昔からそうなんだ。……だから、学園でこうして魔法や古代のことについて学べるのが、本当に最後の機会なんだ。だからこそ学園にいる間に好きなだけ勉強して、学んで、結果を残したい。辺境伯でも何でもない、ただの自由な俺として、確かな功績を残したい」
レオナードはまっすぐにフィーを見ていた。
「最後の自由だなんだ。楽しみたい」
「……そうだね、私も、最後の自由だ」
フィーは、きっとまだ子供のままだ。時折うんと大人びた様子を見せるけれども。それでも、その心にはずっと、幼い子供が住んでいるようだった。そんな気持ちを理解してくれたのが嬉しくて。なんて声をかけるべきが悩んでいるようなレオナードに静かに首を振って、ただただ微笑む。
おおい、と岸の方か声がする。見ると、ブラッドとパメラだ。どうやらお茶の用意をしているらしい。
「レオナード様、あそこまで戻るのにどのぐらい掛かる?」
「ちょっと待ってくれ、腕に強化魔術をかける」
レオナードが身に着けていたカメオに魔力を注ぐ。かちり、かちりと魔術式が活性化していく気配とその複雑さに、それもしかして辺境伯家の家宝? と聞けば、代々伝わる魔術具だな、とあっさり答えが返ってくる。岸に戻るまでに是非ともさわりだけでいいから解術させてくれ、と頼み込むフィーと、さすがに無理だ、と騒ぐレオナードの声が湖中に響いていた。
「元気ですわねえ」
パメラが楽し気にそう呟いて、二人がボートから降りれば、ブラッドがいい加減にしろ、とフィーを叱ったことにより、ひとまずフィーは引いた。たぶん、まだあきらめていない。そんな雰囲気を隠すこともなくムースを食べながらカメオを見つめるフィーの様子に、さっきの湖での話題を盛り返す勇気は、レオナードにはなかった。




