アンシャンテ
以前からお目に掛けていましたシリーズの中の1節です。「翠の貴公子」のアウルと対で書いてきたアレンの成長過程を書きました。よろしくお願い致します!!
いつの間にか酒に逃げる事を憶えてしまって居て、痛い目を見た過去に懲りずに、また、つい先日偶然知ってしまった現実に打ちのめされて、こうしてまた酒に溺れる毎日を送っていた。
どうして逃げたくなるのかさえ自分では判らない体たらくだったのに、これまたどう言う訳か、親以外の人生の師を得るという幸運に恵まれたのだ。
俺の何処に興味を持ったのかも判らなかった。こんな…精神的に成長不良の俺の何処に…その上、甘やかした俺の更生を謀ると言って、この上の無い教師を付けてくれた。
もの柔らかく高度な手管を駆使して、俺のような出来の悪い跡継ぎを何とか次の後継に繋ぐことが出来るように、補足し、修正する。甘ったれの生徒には、苦い薬を吐き出すことの無いように甘い飴を与えながら…だ。
教師の普段の職場は、パリの混沌とした深部を形成する闇の中に沈んでいた。眺めているだけでも飽きることの無い、趣味の良い見事な内装を施したファーストフロアの「アンシャンテ」は、フロアレディが接客してくれる老舗の会員制倶楽部だった。
まるで社交界に出入りするレディと言って憚らない美しいコンパニオン達が、ドレスアップして接遇してくれる。出入りを許された事を鼻にかけてやって来る男共を洗練された仕草でもてなすのだ。
彼等の1人として、フロアの隅で空いたショットグラスをテーブルの上に並べた俺は、中でもとびきりの美人が新しいグラスを置くのを何の感情も持てずに眺めていた。だが、彼女の手がショットグラスとは別に、チェイサーのグラス迄置いて席を離れて行く背中に、つい、愚痴を言った。
「頼みもしないのに……」
「でも…」
そう……彼女は俺の体を気遣ってくれただけだったのに。判っています……馬鹿な呑み方をしているって言うのは。判ってます。
「もう良いよ。有難う」
「リエージェ」
彼女が少し驚いたように、会話に割って入った男の声に応えた。
「ブルゥ。もう止めた方が良い。僕の部屋へ行こう。酔いを醒まさなきゃね」
促されて、手を取られた。立ち上がりかけて屈んだ拍子に、抑えられた胃が限界を訴えて悲鳴を上げた。こみ上げる激しい吐き気がして意識が霞んだ。
……ちゃぷ……水音がして浅い湯の中に浸って居るのが判った。薔薇の香りがする湯を掬った指先が俺のこめかみ、頬を滑って再び湯に戻ることを繰り返していた。水音は繰り返しの白い手が湯に浸る音だった。
うっすらと開いた目が捉えたのは見知らぬ浴室。
またやった……全く、性懲りも無い。何度も同じ事を。
「…ラルフ?!」
「目が醒めた?!」
声に振り返ると、ここの所俺に付けられていた教師の顔があった。
「リエージェ……」
「がっかりした?!」
「え?!」
「ストラダ公の夢を見ていたんでしょう?!彼が恋しい?!」
「……違うよ。シチュエーションが同じだったんで、またやったかと」
「悪い癖なんだね」
「酒に逃げるんだ。前後不覚で地廻りに売られかけていた所を、ラルフに助けて貰った」
バスタブの中で、リエージェの腕が背を抱いて支えてくれていた。どうやら、あのまま吐いて、彼共々身包み洗わざるを得なくなったらしい。
おまけに、あてがってくれた飲みの物のグラスも、飲み込み損ねて口の端を伝い漏れてしまう。見かねたリエージェが口移しで飲ませてくれようとする。
「……良いよ、臭うから」
顔を背けて言うが、かまわず唇が覆う。レモンの香りがするミネラルウォーターがリエージェのヴィオレの香りを載せて躰に染み入る。
口の中が仄かな香りを感じられる程度の臭いだったことに安堵もしていた。何を気にしているんだか……飲み下すともう一度。喉を降りていく水分が、こんなにも旨いものだったなんて……思った途端に涙が零れた。
抱き締められて縋り付いて、涙が止まらなくなっているのに気づいた。子供扱いでベッドに入れて貰って、深く息を付いたまま、よく分からなくなってしまった。
「店に戻るよ。寝てて、じき帰るからね」
リエージェの声がそう告げた気がした。
……遠くに子供と犬が吠える声がする。ぼんやりと開けた目には見覚えの無い部屋が映る。ふらりと立ち上がり窓辺へ寄ると公園で子供と犬が走り回っていた。
……リュクサンブール公園?!なら案外大学の近くなんだ。ここは…どういった部屋なんだろう?!
窓辺から振り返るとマントルピースの上に、レースのクロスを掛けた額があるのに気が付いた。覆って隠すと言えば故人を描いたものだろうが……持ち上げたクロスの下から現れたのはやはり肖像画だった。
女の子を抱いた男が此方に微笑みを向けていた。壮年の男の柔らかな微笑と、表情を載せない女の子が対照的だった。
「ビスクドール?!」
にしてもよく似ている。エンブロイダリーレースのクラシックなドレスにボンネットを付けた正統派の衣装。嫋やかな桃色の頬、深い宝石のような翠の瞳。
立太子の折の幼い王の肖像が、これと瓜二つだった。であれば、この組み合わせが解せない。
男は……先代のリエージェだろうか……
パリの老舗クラブ、アンシャンテ。0階はマドモアゼルが接遇してくれる会員制のバー。その下のル・マインはコルチザンと客の別世界。そこから更にらせん階段で降りるペルソネルは出資者のみが対象のリエージェを頂くキングダム。
ここの所の社交界での俺の保護者、ラルフがそのパトロンの1人だった。コルチザンとかタントとか、春を鬻ぐ古来の職業としか認識していなかった俺は、そう言う生業の人達の1部が、社会を管理する役割の一端を担っていることを、彼に教わった。
ラルフとは大学の友人達と出かけたモンブランのスキー場で出逢った。最も、知り合った切っ掛けは彼の娘が俺に興味を持った事だったのだったが。
ルドゥワルド・ラルフ・エリュウデ・ダ・ストラダ。
シェネリンデを経済援助と言う軛で牛耳る隣国の実力者。黒の公爵。
その継子で有る娘が、運命を甘受する事と引き換えに、する火遊びの相手として俺を見出したのだ。立場としては俺も彼女と大差は無かった。
権力を維持するためには必要で有り、選択の余地など無かったからだったが。結局はそう言う者に生まれついたと言うだけだった。
覇権を争い、前政権に反して国権を我が物とした新政権は、前者を掃討しなければならない。そのまま置けば足元を掬われる為だったが、総てを淘汰しては、領民の掌握に時間がかかる。そこで中央だけを廃し、より血統の薄いものを残し、彼等を介して人民の掌握を図る。
公家は現政権の最も近い血縁。伯爵家は前政権の最も遠い血縁で有ることが多い。
「起きていたんだね」
我を忘れて見入っていた俺は、リエージェの帰宅に気付かずに居たのだ。
「ごめん。勝手に……ちょっと知人に似てて…これは…誰なの?!」
「僕の主」
「先代のリエージェ?!もう1人は?!」
「もう1人?!ああ…それは、ビスクドールだよ」
「やっぱりそうか…でも、よく出来ている。生きているようだ」
「服も髪も本物だからね。彼の娘の形見」
それだけじゃ無い……リエージェの意識の中にドールのモデルへの反発が感じられた。余程触れたくないようで、くるりときびすを返したきりそれ以上一言も触れなかった。
「何が好き?!胃の中に何も入れずに飲んじゃ駄目だよ。体を壊す」
「……もう充分だよ。ラルフには俺から……」
言われることが少し煩く感じていた。ひねくれていたんだ。
「見くびらないでくれるかな?!君から見たらパトロンから君を預かった、唯のタントかも知れないけど、それは店にいる時の話だ。客としてだけ扱うつもりなら此処へ連れて来はしない」
少し衝撃を感じるほど驚いた。何度か……とくべつな関わりを持った人だったのに、初めて見る彼の本質に触れた気がした。
「申し訳ない。そんなつもりで言ったんじゃ無かったんだ……有難う」
口に蕩ける桃の柔らかな甘みが、躰の中に染み入るように感じられた。殊更、リエージェ自身が…だった。
つ……と、手が伸びて、指先が頬を拭った。
「辛いんだね。何がそんなに君を苦しめているの?!」
翌朝、リエージェに別れを告げて、下宿へ帰ろうと公園を抜けて裏通りに出た。
「……此処……は…」
ラルフの娘、エステルのバースデーパーティーに招待されて出かけ、アウルと……あの美丈夫を連れた彼と出逢った場所だった。
瞬間、ビスクドールのモデルとアウルが重なった。
あの日、彼はここからアパルトマンへ向かったんだ。敗北感と共に信じていた現実が足元から崩れるのを感じた。
「あの後、リエージェを訪ねていた?!」
違うな。ドールの裏側のアウルにリエージェが抱いていたのは明らかな敵対心だった。では、先代のリエージェか?!シェネリンデの王族のアウルが、何でタントの腕に抱かれているんだ?!
俺は本当に何も知らない……知らなさすぎる!!
下宿に戻ると、オックスフォードのボタンダウンに細めのレジメンタルタイをしめて、教授を訪ねるべく大学を訪れた。1年後には卒業を控えているというのに、俺の学問へのキレは精彩を欠いていて、やる気の無い教え子で手を焼かせている。
今日も、遅々として進まない研究論文の事で呼び出しを喰らっていたのだ。匙を投げられる予告なのかも知れない。
「少々行き詰まって居るようだね。そうだな……」
匙は投げられなくて済みそうだが、教授を困らせている。
「君は運が良い。じき、私の昔の教え子が訪ねて来る事に成っていてね。彼は君の抱えるテーマで私に舌を巻かせた逸材なんだ。依頼していた研究資料を持ってきてくれる」
程なくしてノックが有った。教授が立っていき、来訪者を伴って戻ってきた。
顔を合わせてお互い声も出なかった。
客として逢う時とは全く違う姿に呆気にとられて…だ。夜目にも白い肌に散っていた長い黒髪は、きっちりと後ろに束ねられ、紅く熟れて俺を誘っていた唇は、引き結ばれたストイックな口元に変わっていた。
担当教授が和やかに、固まる俺達の仲立ちをしてくれる。
「アレン。此方は元、僕の教え子で、レオノール・リュポン。丁度君の抱えている課題と同じ主題の論文で、僕の教師人生で唯一兜を脱いだ人だよ。」
「教授。買い被り過ぎです」
「いや、本当に。だから今も資料提供と言う形で研究者をサポートしていてくれるんじゃないか。良い機会だから君も助けて貰うと良い。レオノール、アレンは貴族出の坊ちゃんとは到底思えない。面倒を見て遣ってくれないか?!」
シニカルを少し和らげて彼は俺に右手を差し出した。
「初めまして。僕で宜しければ何時なりとお役に立ちますよ」
「此方こそ宜しくお願いします。実は今日も先生の所に泣きつきに伺ったんです」
互いに初対面を装って、握手を交わし、教授を間に茶を濁した。講義の時間だと言う一言に、暇を告げる口実を得て、愁眉を開いた。
「レオノール・リュポン。驚いたよ。世間は狭いね」
「アレン・カーライツ。シェネリンデの実権を握る伯爵家の総領だった何てね……なる程。引っ掛かりが解消したよ」
ふ……と、リエージェの、いや、レオノールの意識が俺を離れて己の中に落ち込んだのを感じた。シェネリンデの何かが、彼にとって存在そのものに関わる要素を秘めているようだった。
大学のカフェテリアのスタンドで並んでコーヒーを啜っていても、違和感を感じ無くなっていた。
俺の存在を忘れて居るかのように彼が呟いた。
「意中の君はブランシュだった何てね……」
「ブランシュって……先代の娘さん?!」
ブランシュ……俺の頭の中でなら、ブランシュとはアウルの事なんだ。
レオノールの瞳が驚愕に見開かれて、言葉を無くしていた。
「申し訳ない。プライバシーを明かすのはタブー何だ」
「アクシデントだ。仕方ないよ。その娘さんのことを教えてくれない?!」
俺は自分がこんなに容赦の無い人間だったとは、思っても見なかった。
「やむを得ないな。リュクサンブールのアパルトマンへ行こう。此処は人目が有る」
お読みいただき有り難うございました!
ちょこちょこ書き溜めた2編の1つです。後編有ります!