父親が贈ってくれた腕時計
「腹減ったな・・・・・」
寝て過ごした日の翌日。
この土地にきてから10日目。
おそらく朝だろうと思われる時間に一度目を覚ましたものの、氷をかえてまた眠りについていた。
そしてまた起きたのが今。
腹が減っていた。
当然だ。
昨日は何も食べちゃいない。
「腹が減るのは元気な証拠ってか」
筋肉痛は相変わらずヒドイ。
だが、カラダのご機嫌を伺う事はできそうだ。
丸一日以上、寝たのが功を奏したのだろうか。
男は痛みをこらえて、仰向けのままストレッチを始めた。
少しずつ、少しずつ体を動かす。
心配した骨折捻挫、その他モロモロの体調不良はなさそうだった。
ひたすらツラいのは全身の筋肉痛だけ。
それでもストレッチができるまでには回復しているのだ。
上手くいけば肉を焼けるぐらいには、復活するかもしれない。
ちょっと想像してみた。
体を起こして、地面に座って、ツノに刺した肉の塊を手で持って支えて焼く。
「・・・・・・・」
できるだろうか。
こんなプルプル震える腕でいけるのか?
しかしやらねばメシにはありつけない。
この時ばかりは、上げ膳据え膳のイイご身分がうらやましかった。
風邪だろうがインフルエンザだろうが、てめーの食事はてめーで準備。
そんな独り身の義務、今までは特に辛く感じた事はなかった。
非常食は各種色々取り揃えております。
独り身の有事とは、自然災害だけをさすものではない。
体調不良にだって非常食は入用になる。
どこにも行かず、極力動かず食べられる食事。
アパートの非常食を取りに帰りたかった。
チンしてカンタン、電子レンジが欲しい。
卓上鍋でもいい。
ホットプレートがあれば最高だ。
食の妄想をふくらませながら、時間をかけてストレッチをすすめていく。
やがて座れるようになり、なんとか立ち上がれるようになった。
気を抜かずにストレッチを続ける。
まだ歩くには早い。
体を伸ばしつつ、草原を見渡し、昨日の惨状を確認した。
すぐ目についたのは、滝のように流れている氷と水。
キラキラと反射して非常に美しい。
ずっと流れっぱなしだったのか。
もったいない。
資源の無駄遣いを反省し、動かせるようになった手で止めておいた。
どこからくる資源なのかは知らないのだが。
散乱する服。
脱ぎ捨てられた靴。
腕時計・・・・。
「やべーっ、水浸しじゃねーかっ」
急いで時計に駆け寄ろうとしたが、不格好にこけてしまった。
体が脳の動け指令についてこず、痛む体がさらに痛みを訴える。
だが男はそれどころじゃなかった。
大事な大事な腕時計なのだ。
ちゃんと少し離れて水を出していたのに、流れっぱなしだったせいで水たまりが出来ていた。
その中に半分沈む腕時計。
父親がくれた就職祝い。
歩くというより、必死にもがいてたどり着き、救い出した。
両の手の平の中の時計を、しばらくじっと見つめる。
「・・・・・マジか」
時計は動いていなかった。
モノ言わぬ針が示すは、午前の6時44分。
時を止めたのは今日の朝か、昨日の朝か。
日付まではわからない。
普通に考えるなら、水に浸かって今朝壊れたとするのが妥当だった。
昨日の朝に壊れたならば、オーバーヒートに苦しみ始めた直後の時間になる。
あの数秒とも数分とも数時間とも思える苦しみ。
体の芯を焦がすような激しい熱。
「身代わりになってくれたのかな・・・・・」
大工の父親は母親が生きていた頃、よくプレゼントを贈っていた。
プレゼントは、いつも時計。
一緒に選んだこともある。
腕時計、置時計、壁掛け時計に、カバンにつけるキーホルダー型の時計。
おしゃれなデジタル時計は1つもなく、いつも代わり映えのしない、針が回るタイプ。
高価なものはなくとも、父親はいつだって真剣に選んでいた。
睨みつけるように一つ一つを手に取って、吟味している姿を覚えている。
鬼気迫るその表情につきあいきれず、長い時間に飽きて言ったことがあった。
たまには時計じゃない方がいいんじゃないの?
いっつも時計じゃ、おかーさんだって飽きちゃうんじゃない?
話しかけられた父親は持っていた時計を置き、わざわざしゃがんで幼い兄妹と目線をあわせて教えてくれた。
時計は休みもせずに時を刻むモノでな。
ほら、くるくる針が回っているだろう?
自分の代わりに狂ってくれるんだ。
ヒトの代わりに、時を止める。
壊れてくれる。
命を助ける働きモノの、有難いお護りなんだ。
身代わりを、してくれるんだよ。
父親がどこでそんな話を知ったのかは、後になってもわからなかった。
変な宗教とかもしてなかったし。
都市ど真ん中ではない田舎であっても、大きく見れば業が深い土地柄ならではの迷信なのか。
文明社会、現代でも、非科学的な話のほとんどが普通に受け入れられやすい土地だ。
少なくない血が流された日本を代表する歴史の舞台。
理屈で答えの出ない話など珍しくもない。
当時、そういうものなのかと、たいして考える事もなく受け入れたものだ。
また真偽のほどは定かじゃなくとも、母親の時計だけはしょっちゅう壊れていた。
贈られてから3か月と経たずに壊れたものすらある。
その都度、父親はマメに修理に持っていった。
年中、どれかが修理中だったような気がする。
母親は体が弱く、子供はおろか、20歳まで生きるのも難しいと言われて育ったらしい。
それが若干19歳で父親と結婚し、命を賭けて子供を2人も産んだ。
男が中学に上がるまで、専業主婦として立派に家事もこなした。
医者曰く、奇跡。
母親曰く、幸せ。
呆れるほどたくさん贈られた時計は、もしかしたら母を助けてくれていたのかもしれない。
寿命までは伸ばせなかったにしても。
しかし、でたらめであっても時計にこめられた父親の想いはホンモノだった。
口下手な父親のせつない願い。
どうか元気で。
長く生きて。
「ありがとな・・・・・」
三十路を過ぎて再就職した男への祝いに、父親が贈ってくれた腕時計。
静かに動かぬその針をみつめ、そっと感謝の言葉をつぶやいた。