俺を走らせてくれ
雨で洗われた緑が美しい森の中。
男は全速力で走っていた。
体が軽い。
速い速い。
森を駆けようレースがあれば、記録更新は間違いない。
走る走る。
筋肉痛はどこ行った。
三十路をなめんな。
まだまだやれる。
生涯現役。
みなぎる力。
みなぎる自信。
男の背中を押してくれた。
異常な速度だ。
速いにもほどがある。
電車かクルマかという速度が出ていると言ってもおかしくなかった。
明らかに人間が出せる速度ではない。
獣でも難しいのではないだろうか。
少なくともこの森のウサギではまず無理だろう。
流石は奇人変人びっくり人間だと言えばいいのか。
いやいや、男はホントに人間か?
奇人であろうが変人だろうが、びっくり人間だろうが。
ついでに変態だろうが。
男はヒトだったはずなのに。
いつのまに人間をやめていたのだろうか。
ヒトであることが疑われるほどの速さだった。
道標の木のつるが蝶々結びされているとはいえ、見失いそうな速度でそれらの目印が過ぎていく。
何度も通った森の中、帰る方向をほぼ覚えていなければ迷っていたかもしれない。
すぐに木の間に草原が見えてきた。
目指すは物干し場。
2本の木の幹に、紐がわりの木のつるが括り付けられている。
木のつるは頭の高さとちょっと高いが、あれがゴールテープだ。
干された洗濯物がはためく。
旗代わり。
洗濯物の下をくぐり抜けた。
「・・・・・ゴォールッ」
両手をあげつつ、感動のゴールシーン。
もちろん誰も見てはいない。
さみしい自己満足だ。
見逃してほしい。
すぐに腕時計を見た。
「・・・・・は?」
時計の針が信じられなかった。
おかしい。
見間違いだろうか。
落ち着こう。
男はいったん空を仰いでから、もう一度腕時計を見た。
睨みつけるように凝視する。
時計が示す時間は17時31分。
腕時計が壊れているのだろうかとしばらく見つめてみるものの、ちゃんと秒針も動いている。
壊れてない。
間違いではなかった。
信じられない。
「スタートしたのは23分だったよな・・・・」
よーいドンと、信号木を出発したのは17時23分。
ちゃんと覚えている。
まさか10分もかからずに帰ってこれたのか?
本当か?
信じられなかった。
声に出して子供のように両手の指を折って数えてみる。
「24、25、26、27、28、29、30、31って・・・・・」
やっぱり間違いない。
8分だ。
「歩いて1時間近くかかっていた場所なのに・・・・・」
みなぎる力を感じていた。
とてつもない速さで走れているとは思っていた。
だがこうして数字で把握すると、かなりのインパクトがある。
なかなか飲み込めなかった。
「・・・・・・うん、もっかい走ろう」
この土地に来てから四六時中一緒であったオトモダチ、筋肉痛はもう全く感じなくなっていた。
筋肉痛と肉離れ。
大草原に来てから、男が恐れるモノ2つ。
おさらばだ。
もう恐くはない。
恐れるモノがなくなった今、男はお気楽に結論を出した。
深く考えることはない。
走る事は苦痛ではなくなった。
じゃあもう一度走ればいいじゃないか。
何度も往復した信号木までの道も完全に覚えられた。
軽いランニング気分で走れる。
体力の有り余る若かりし頃に戻ったようだ。
嬉しい。
むしろもっと走りたい。
俺を走らせてくれ。
走ってください、ご自由に。
お好きにどうぞ。
そう応えてくれる者などいない。
どうせ誰もいないのだ。
そんな状態でも「走らせてくれ」と思うほどに、男は自分に酔っていた。
テンションが高い。
明らかに調子にのっているだろう。
三十路の衰えから解放された万能感が盛り上げるのか。
何はともあれ、楽しそうだ。
「今は17時の33分、よし覚えたっ」
腕時計をチェックし、男はまた全速力で走り出した。