祭りは続く
ウサギの体から力が完全に抜ける。
「すまんな」
男は小さく呟いた。
謝った所で返事がないのはわかっている。
ウサギをモノ言わぬ躯にしたのは、他ならぬ男自身だ。
だが言わずにはいられなかった。
自分勝手な感情だとはわかっている。
それでも考えずにはいられなかった。
オレが来なければ、ウサギはいつまで生きただろうか。
どんな最期を迎えただろうか。
何度も獣を捌いた経験があったが、トドメを刺したことはなかった。
しかし感傷的になるのは、初めての経験だからというだけではないだろう。
ウサギはこの森で生まれたはずだ。
森で生まれ、森で生き、森に骨をうずめる魂。
いわば森の先住民だ。
対する男は、突如としてこの見知らぬ森の食物連鎖に加わった。
つまり余所者。
太陽系ですらないこの星に、遥か遠くからやってきた余所者だ。
本来、遇うはずのない1人と1匹。
そう思うと、勝利した高揚感はすぐに消えてしまった。
命を頂く。
その重みを感じていた。
「大事に食うからな」
血に濡れたハンティングナイフを地面に置き、スポーツバッグも肩から降ろす。
空いた右手をウサギのツノの根元に添えた。
首根っこをつかんだままの左手はそのままに、両手でウサギをぐぃっと引っ張った。
ツノはなかなか抜けない。
かなり深く木に刺さっているようだ。
「動けなくなるはずだよな」
この事こそが男の勝利の方程式だった。
一昨日、伊達にウサギに付き合って走ったわけではない。
早い段階でウサギの動きを見切っていた。
動きにクセがある。
そうじゃなければ、ウサギの速度に敵うわけがなかった。
三十路の男がいくら必死に走ろうと、たかが知れている。
さらにはヘロヘロだったのだ。
そんな走りが野生のウサギに敵うわけがない。
しかしウサギは迫りくる速度は早いものの、ワンパターンな突進だけを繰り返してきた。
男を仕留めるだろう最後の一跳びは顎を引き、ツノを地面に水平にして襲ってくる。
そうなれば進行方向に何があろうと見えていない。
男がいようがいまいが、突っ込んできた。
突っ込んだ先に木の幹があれば、ツノが刺さってしまう。
しばらくもがき、ようやくツノが抜けるまでその場から動けない。
逃げる男とのタイムラグがそこで生じる。
それがウサギのパターンだった。
落ち着いて動けば、理想的な仕留め方ができる。
無為に怪我をさせず中途半端に傷をつけない方法。
つまり、肉の品質を落とさない方法だ。
罠を仕掛ける必要もない。
そもそも罠をつくる材料もない。
ナイフ一本、他には度胸。
男はウサギの突進パターンに勝機を見出し、今日の再戦に臨んでいた。
ようやくツノが木から抜けた。
たくさん採取しておいた木のつるを使い、木にひっかけて逆さに吊るす。
血抜きを続けつつ、腰を下ろした。
しばしの休憩。
できればあと2匹はつかまえておきたかった。
一匹でもかなりの大きさではあるが、それだけで満足はできない。
ウサギは本来、熟成が必要なのだ。
今日狩ったら明日明後日食べるぐらいでいい。
冷蔵庫があれば3日寝かせても大丈夫だ。
しかしもちろん明日まで我慢するつもりはなかった。
今日はウサギ肉を食べる気満々だ。
腹は結構減っている。
昨日の昼、パンを食べ切ってから何も食べていなかった。
ただ、今日食べるウサギ肉はおそらく硬いだろう。
普通のウサギなら硬直が始まるのも遅く、解けるのもそれなりに時間がかかるはずだ。
塩もないからせめて美味しく肉を食べたい。
今日はダメでも、明日は美味しく。
だから明日の分もあと2匹。
ウサ追い祭りはまだまだ続く。
今日も長い1日になりそうだった。