ウサ追い祭り
奴だ。
大木の後ろから、ひょっこりと奴が顔をのぞかせ、男を見ている。
距離にして10メートルくらい離れているだろうか。
茶色い毛皮。
ウサギにしては大きい体躯。
長い耳。
そして頭の真ん中から生える白くまっすぐな円柱。
硬そうなツノが1本。
男もじっとウサギを見つめた。
見合ったのは5秒、いや10秒ほど。
双方ともに動かない。
「・・・・・・」
先に動いたのはウサギだった。
ザっと音を立てる。
人間で言えば歩幅、ウサギ的に言えばピョン幅が大きい。
みるみる男に迫ってきた。
男も動く。
ウサギが動いたと見るや、さっと身を翻した。
奴に背を向け、走って逃げる。
どうした。
ウサギを追う祭りじゃないのか。
しかし逃げた男は、距離を走ることなくすぐに動きを止めた。
大木を背に、ウサギに向き直る。
そのままじっと奴を睨みつけた。
迫りくるウサギ。
顎が外れたんじゃないかと思うような大きな口。
裂けているかのような大口から除く牙。
肉食獣が持っているような鋭いソレ。
ロックオン。
明らかにウサギにとって男は獲物だった。
男は大木を背に動かない。
動けないのか。
その手に持っているナイフはお飾りか。
射竦められてしまったかのように、ウサギの接近をみつめている。
あと1メートル。
ウサギが迫ってきた。
まだ男は動かない。
このままではあの硬いツノの餌食になってしまう。
もしくは牙の餌食か。
ウサギがぐっと顎を引いた。
天に向かって頭の中央から伸びるツノが、地面と平行になった。
固いツノで男を串刺しにする体勢だ。
その瞬間。
ようやく男が動いた。
背にしていた大木からその身をさっと横にずらす。
ほんの1、2歩程度。
筋肉痛を感じさせない、なかなかに機敏な動きだ。
ウォーミングアップのおかげか。
筋肉は男を裏切らなかった。
ウサギをよけつつ、男の視線はウサギから離れない。
対するウサギはツノを地面と平行にしているので、見えているのは地面だけ。
つまり男は見えていない。
そのまま大木に突っ込んだ。
「ガッ」
大きな音をたて、ウサギのツノが大木に突き刺さる。
太く固い木の幹をものともせずに、しっかりと深く刺さっていた。
かなりの威力。
ここで男が勝負に出た。
ツノが刺さり、動きを止めたウサギの首根っこを左手でつかむ。
大木からツノが抜けないよう、ぐぃっと押し付けた。
同時に右手に持つハンティングナイフでウサギの喉をかき切る。
思い切りよくナイフを引いた。
「ザシュっ」
動脈を切った確かな手ごたえ。
ウサギの血が勢いよく木の根元に流れ落ちていく。
左手でつかんだ首根っこを離さず、木に押し付けたまま様子をうかがった。
獣は手負いが一番危ない。
今日は朝から独り言の多かった男でも、余計な言葉を口にせず、ウサギの体から力が抜けるのを待つ。
その間も油断なく、辺りを伺っていた。
山奥の民宿で、爺さん達に学んだことだ。
爺さんたちについて山に入っていたが、資格の関係なのか、獣を仕留める手伝いを求められることはなかった。
男の仕事は荷物持ち。
罠にかかった獲物を爺さん達が仕留めるのは、見てるだけ。
男が見守るなか、爺さん達はいつも黙々と刃物を使った。
獲物の最期を確実に見届けるまで、余計な口を一切きかない。
「やったか?」などと口にすることは一度もなかった。
爺さんたちはフラグという言葉を知らないだろう。
それでも仕留めた際の危険は熟知していた。
最期のあがきで獣が暴れるかもしれない。
罠にかかった獲物を狙って、獣がすぐ近くに潜んでいるかもしれない。
血の匂いにつられた獣が襲ってくるかもしれない。
仕留めた後は特に、音に敏感にならねばならなかった。
余計な無駄口をたたくなど、もってのほか。
山は生きる糧を与えてくれる。
同時に山は怖ろしい所でもある。
無事に家に戻るまでが狩なのだ。
やがてウサギの体から力が完全に抜けた。
ようやく狩った。
男はこの勝負に勝てたのだ。