料理人のプライドにかけて
男の手が水を支配している。
右手、左手どちらもOK。
空中から、水を出すのも止めるのも。
自由自在だ。
高さ、距離と、一通り試行錯誤を終えた男は大満足。
休憩することにした。
胡坐をかき、時計を見る。
午後の17時18分。
すぐそばの空中に水を出した。
ごくごくと喉をならして思う存分堪能する。
昨日までなら、この時間は喉の渇きを我慢するしかなかった。
しかし今日はまだペットボトルの水も瓶の水も満タンだ。
心強い。
「しかしこの水旨いよな・・・・・」
料理人たるもの。
味にうるさくありたい。
昨晩も今朝も、水はおそろしいほど旨かった。
渇き切った体がそう感じさせたのだろう。
そう思っていた。
今日は存分に水をのみ、今はたいして喉が渇いているわけではない。
それでもやっぱり旨い。
ただ甘露というにはちょっと違う。
そんなわかりやすく表現できるような美味しい水ではない。
あっさりしていて・・・・。
「店の水っぽいんだよな・・・・・」
勤めていたイタリアンレストランで導入している浄水器。
その浄水器から出る水の味に近い。
近いというよりそのままだ。
慣れないうちは、もの足りないほどあっさり感じる。
しかし飲むほどにハマる味。
店では、赤ワインを水で薄めて飲みたい客もいる。
男だって結構旨いと飲んでいた。
暑い夏には特におススメ。
海外からのお客様だっているのだ。
いろんな国の食文化に文句をつけても始まらない。
邪道と言われようが、堅苦しさを押し付けるのは間違いだ。
その自由さは、ことのほか喜んでもらえる。
高級店だって、お客様の趣味嗜好にあわせる事がカネになる。
ささやかな差別化だ。
必要なのは、ワインの味を損なわない、存在を主張しすぎない水。
料理の味を引き立てる水。
浄水なんて皆同じと思うなかれ。
やり手のオーナーが探してきた業務用浄水器は、地味ながら料理人達の心をつかむ味だった。
夢にまでみたあの味。
焦がれたからこそ、錯覚のように感じた味だと思っていた。
しかし違う。
料理人のプライドにかけて。
断言したい。
これは同じだ。
店の水だ。
「・・・・・・・」
もう一度、右手を動かし水を出した。
店の浄水器のレバーがそこにあると思う浮かべ、レバーを押す動作だ。
水を一口、口に含む。
「・・・・・・・うん、店の水だ」
水を止め、次はある懐かしい光景を心に描いた。
高校時代のリゾートバイトでお世話になった山奥の民宿。
母屋を出てすぐ目に入る井戸。
手押しポンプのレトロな緑色。
経年劣化で使えなくなった際、爺さんは大工である男の父親に同じものの取り付けを頼んでいた。
電動にはしないのかと聞いてはみたが、慣れているからと迷うことすらなかった。
父親と共に男が取り付けた手押しポンプ。
何年たっても、毎年同じ緑色が男を迎えてくれる。
集中、集中。
懐かしい緑色を心の中で思い浮かべる。
胡坐をやめ、立ち上がった。
あのレバーは少し力がいる。
高齢者にはそれなりにきついはずだが、爺さんも婆さんも楽々とレバーを押していた。
山で暮らす人間はたくましい。
懐かしい皆を思い出し、少し頬の筋肉がゆるんだ。
緑色を思い浮かべたまま、そのレバーに両手を添える。
もちろんエアーな動作だ。
一押し、してみた。
「・・・・ダメか」
何もおこらない。
思い違いだったのか。
期待したように空中から水があふれることはなかった。
「・・・・・・」
しっくりこない。
納得いかない。
もう一度。
レバーを一押し。
エアーで。
何もおきない。
「・・・・・あっ。そーか」
ピンときた。
もう一度。
両手でレバーを押す。
一押しではなく、数回上下を連続して繰り返す。
もちろんエアーな動作だが。
1回、2回、3回・・・・・・。
果たして結果は。
「・・・・・・よっしゃキタっ」
連続すること6回目の動作。
大草原、ポンプから水が出ると思い浮かべたその場所に。
ゴボッと水があふれだした。
手を止めることなく7回、8回。
井戸から水を汲み上げているように、ちゃんと出た。
蛇口から流れる水のような一定の流れではない。
下まで押しこんだ時には大水量で、手を戻してもう一度押し込むまでに水量はすっと引いていく。
押すのをやめると、一拍の後、徐々に水が止まっていく。
井戸のポンプで出る水そのままだ。
浄水器のレバーのように、一度押したら流れっぱなしになる便利さがない。
押すのをやめれば少しして水が止まってしまう。
そのため、ちょっと苦労して手に水をため、すぐに一口。
「・・・・・・・」
もう一度レバーを数回押して水を出し、もう一口、そして二口。
「・・・・・っんっ。すげぇっ、井戸水の味っ!」
それは懐かしい山里の味。
水なんて皆同じと思うことなかれ。
いろんな場所で、いろんな器具でそれぞれ個性がちゃんとある。
料理人のプライドにかけて。
これは井戸水。
断言できる味だった。