プロローグ やっと寝れる
アパートに到着し、スクーターのエンジンを止めてから、たっぷりと10分は経過した頃。
あと数分で、時刻は午前3時半を迎える。
男は重い足を叱咤激励しつつ、ようやくアパートの外階段を登りきった。
部屋の前まではわずか数十歩。
だがしかし、疲れ切った男にはなかなかに遠かった。
のろのろと歩く。
右手に持ったコンビニの袋がブラブラと揺れた。
ずいぶん昔、業界用語だと教えられた「クリスマス=クルシミマス」。
それを過ぎても、息つく暇もなく新年がやってくる。
また男の地方では、新年を明けても戎祭りが終わる10日頃までは正月扱いだ。
さらに言えば、日本有数の観光地に店を構えるため、1月いっぱいが繁忙日と言ってよいだろう。
忘年会、クリスマス、御用納め、カウントダウン、仕事始め、新年会・・・・。
日本には本当にいろんな行事があるものだと感心する。
いわゆる「パリピ」でなくとも、収入や地位がある人々には顔を出すべきイベントが多いらしい。
男の店はこれらイベント予約をこなすだけでなく、それらの2次会、3次会需要をも満たしていた。
したがって料理人達の仕事も増え、繁忙期には深夜帰宅に早朝出勤が続く。
毎日2時間も寝れたら良いほうだった。
よってこの期間中、料理人達には全く休みがない。
その代わりに交代で遅出の出勤日がもらえた。
地位の高い者から順に回していく遅出シフトは、つかの間でも貴重な休息時間。
ようやく男の番が来た。
とっくに日付は変わっているが、明日は男が待ちに待った遅出の日だった。
やっとまともに寝れる。
今日も長かった・・・・・。
店に10時入りでいいなんて、天国だ。
余裕あるし、軽くでも包丁は研いでおきたい。
起きてから砥ぐとしても4時間はたっぷり寝れるはず・・・・・・
いや、5時間寝ても間に合うかな・・・・・。
つらつらと考えながら、男は部屋の前までたどりついた。
表札には「田中」の文字。
単身者用1DKアパートの、誰もいない部屋のカギを開ける。
乱暴に靴を脱ぎ捨てて入ると、電気をつけた。
夜に慣れた目には蛍光灯の光がまぶしい。
ベッドとローテーブルが置いてあるだけのシンプルな部屋は冷え切っていた。
それでもとても暖かい気がして、いつも不思議に思う。
さすがにこのままベッドに転がるのは躊躇われたものの、絨毯に倒れこむ。
ダウンを脱ぐのも、荷物を下ろすのも面倒だった。
テーブルの上のエアコンのリモコンを取ろうと思うが腕が重い。
急激に眠気が襲ってきた。
文字通り着の身着のまま、コンビニの袋や紙袋すらも握りしめたまま。
男は寝息をたて始めた。