また遇う日まで
見知らぬ土地で目覚めてから5日目、午後も遅い時間。
三十路の男は森の中を走っていた。
健康的なジョギングなどではない。
痛む体に鞭打って。
全力疾走。
逃げている。
「もうっ・・・・そろそろっ・・・・限界だってっ・・・」
そこそこ荷物が入ったスポーツバッグを斜めがけにしたままの全力疾走は辛かった。
包丁を入れるアタッシュケースの存在感がうらめしい。
確かにどこに行くにも必要だけれども。
特注で軽い素材にしたけれども。
何本も包丁が入るのだけれども。
気に入ってはいるけれども。
重い。
重すぎる。
男を走らせているのはウサギだった。
白く長いツノの生えた、日本のそれより体の大きい茶色いウサギ。
突進してくる。
もちろん、これをウサギと言うのが正しいのかはわからない。
だがこれも複数の三日月と一緒の話だ。
いくつあろうと月は月。
だって月に見えるもの。
ツノがあろうとウサギはウサギ。
だってウサギに見えるもの。
男の大雑把な考え方にぶれはなかった。
しかしこのウサギは侮れない。
初めての脅威だった。
追突されれば大怪我必至。
もちろん、ハンティングナイフを使えば命の危険はないだろう。
ツノがあろうと体が大きかろうと動きが早かろうと、所詮はウサギ。
鹿より随分小さい個体。
あの程度の動きなら多少苦労しても、相棒のナイフがあればなんとかなる。
だがそれはしたくなかった。
ナイフ大事。
それに今はウサギを食う時ではない。
走り続けてヘロヘロな男に比べ、ウサギのスピードは衰えなかった。
疲れたそぶりもない。
さっきから突進を避けるのも間一髪という危なさだ。
ウサギは明らかに男を敵認定している。
窮鼠猫を噛むといったしおらしさはどこにもなかった。
人間を怖がりもしていない。
ホントに草食動物なのか?
勇敢なウサギだと言っておこう。
荒事に慣れない日本人なら少なからず恐怖を感じてもおかしくないこの状況。
しかし男は全く動じてなかった。
ウサギの目は獲物を狙う狂気のソレ。
追突した木を深く抉る固いツノ。
時々、顎がなくなったかと思うほどに開けられる大きな口。
そこからのぞく鋭い牙。
いやいやおかしい。
「勇敢なウサギ」というレベルではなかった。
こちらの命を狙いに来ているのが目に入らないのだろうか。
男の目は節穴か?
しかし実際のところ、男は命の危険を全く感じていなかった。
代わりに、筋肉痛が悪化する危険はヒシヒシと感じている。
肉離れもするかもしれない。
あれは怖い。
ウサギ如きにどうにかされる恐怖はなかった。
それより筋肉痛の方がはるかに怖い。
肉離れはもっとオソロシイ。
命の危険に対し、男は決して鈍くはなかった。
山歩きの経験から判断力はそれなりについている。
ちゃんと観察していたのだ。
伊達にウサギに付き合って走っていたわけではない。
前が少し霞むほどヘロヘロになっていても。
筋肉痛におそれおののいていても。
ウサギの動くパターンを読み始めていた。
兎にも角にも男は走る。
ナイフを汚したくない。
その一心だった。
ついでに言うなら肉質を落としたくない。
強者の余裕だ。
全くそうは見えない走りっぷりなのだが。
逃げ続けていた男の目が一瞬、森の切れ目を捉える。
あの向こうは草原だ。
安心安全マイホーム。
今や立派なマイホーム。
何はなくともマイホーム。
奴はどうやら俺より若い。
こっちはもう走るのも限界だ。
だが傷つけるなんて冗談じゃない。
せっかくここまで走っているのに。
お互い、無傷で別れたい。
「あそこならっ・・・・」
あてもなく逃げていた男が草原に向かって最後の力を振り絞った。
意外とまだ早く走れるものだ。
ウサギの速度は把握した。
気配だけを感じつつ、後ろも見ずにダッシュする。
「はぁっ・・・はぁっ・・・・・・着いたっ・・・」
草原に出た。
ああマイホーム。
愛しの我が大草原。
ウサギの迫りくる気配が消えた。
念のため、もう少し走って森から離れつつ、後ろを振り返る。
「はっ・・・やっぱりっ・・・」
ウサギは森から出てこれないようだった。
立ち止まって目を凝らす。
だがどこにも姿は見当たらない。
既に引き返したのだろうか。
「はっ・・・・・・・・」
息を整えつつ、しばらく注視する。
やはりウサギの姿は見当たらない。
大丈夫そうだ。
「つっかれた~」
男は大の字に寝転がった。