追いかけっこ
「うわっ・・・」
「はっ・・・はっ・・・はっ・・・」
「ちょまっ・・・」
皮手袋をはめ、ハンティングナイフを持ち、完全防備の三十路の男。
それなりの覚悟を持って森に入ってから数時間経っている。
ヘロヘロだった。
もう数十分、走り続けているのだ。
逃げているからだ。
そう。
ウサギから。
地球ではないこの惑星に来てから、初めて目にする名も知れない木。
樹齢何百年という立派な大木に背中を預け、休憩していた時は幸せだった。
足が痛い、腕が重い、肩が痛い。
そう思いながら休憩できていた。
今だってあちこち痛い。
息も苦しい。
でも休むことなど許されない。
走らねば。
もう一度言おう。
逃げなければ。
そう。
ウサギから。
時を少しだけ遡る。
男が鬱蒼とした森に入ってから3時間ほど経っていた。
まだ川は見つかっていない。
湧き水や泉も見つかっていなかった。
元々、今日は「ちょっとだけよ」のお試し日。
そう都合よく、水が見つかるわけもないだろう。
潔く諦め、初めて見る様々な樹木を目と鼻で楽しんでいた。
草原とはまた違って、森ならではのいい匂いがするのだ。
もちろん、少しでも水音が聞こえやしないかと耳は澄ませている。
鳥の声や木が風に揺らされる音などで、意外にも森は音であふれている場合も多い。
しかしこの森は静かなものだった。
少なくとも鳥の声は全くしない。
森の中は少し根の張りが地表に出てきている部分があるものの、総じて歩きやすかった。
テレビで見るジャングルのように草が生い茂っているわけではない。
シダっぽい草叢はあるものの、点在する程度なので避ければよい。
踏みしめるコケの感触も草原とは違って新鮮だった。
高級絨毯とは言わないまでも、安物のソレにならば十分に例えられる。
弾力を感じつつ男は森の探索を純粋に楽しんでいた。、
コケは湿気を好むはず。
ということは、水と仲の良い森だ。
そのうち必ず見つかる。
腹いっぱい水が飲めるのも、もうすぐだろう。
気分が良い。
そんな時だった。
耳がちょっとした音を拾ったのは。
そして奴と出会った。
「・・・・ウサギか?」
離れた所ではあったが、木の陰から見覚えのある獣が顔をのぞかせていた。
やった、ついてる!
助かった!
肉だ肉!
さすが森!
よしよしよし!!!
当初は喜んだ。
山奥の民宿では、何度も捌いて料理した馴染みの食材だからだ。
日本でこそあまり食べないが、海外でも結構ポピュラーな食材だろう。
例えばスペイン。
パエリア発祥の地と言われるバレンシア地方ではウサギを使うのが伝統的なレシピと言われる。、
兎ばかりが罠にかかった時、作ったみたことがあった。
結構旨かった。
作った事はないが、フランス料理なら定番食材だ。
でも今は水が先だな。
食わないウサギをどうこうするつもりはない。
肉のあてが見つかっただけで十分に満足だった。
無益な殺生は慎むべきだ。
まだパンは半分残っているし、何より水がない。
火なんて危なくて使えない。
自分の手を洗う水すらないのに料理するなんてありえなかった。
「命拾いしたな」
微動だにしないウサギに声をかける。
普通、人間を見るとすぐ逃げるだろうに、まだこっちをみていた。
人間が珍しいのか?
「・・・・・・」
お互い身動ぎもせず、しばらく見つめあう。
ウサギは日本のよりも大柄で丸々と太っていた。
1.5倍ぐらいか。
餌に恵まれているようで何よりだ。
食いごたえがあるだろう。
「・・・・・ん?」
なんだあれ。
ピンと立った2つの耳の間、なんか生えてる?
茶色い体の中、そこだけ白い。
ツノ?
よく見ようと思わず身を乗り出した瞬間。
ウサギが突進してきた。
みるみる距離を詰めてくる。
「うぉっ」
反射的に避け、激突されるのを回避する。
そのまま少し走って距離を取った。
まだ手に持ったナイフを使うつもりはない。
今日は食わないのだ。
ウサギの血を洗う水もない。
血がついたナイフの手入れができないなんて、捨てるも同然だ。
大事な大事なハンティングナイフ。
それはできない。
「ちょっ・・・待てっ」
ウサギは一瞬前まで男が背にしていた木に激突した。
そのまま動かない。
ツノが木に刺さったのか?
怪我したか?
大丈夫か?
思わず動きを止め見てしまった。
怪我でもされたら肉の味が落ちる。
同じ狩りでも、狩り方によって味が変わるのだ。
理想は極力傷つけない罠による短時間の決着。
心臓近くの血管だけを切り、一気に血抜きする。
血抜きの前に余計な血を流されると品質が落ちてしまう。
男はまじめに肉の味を心配していた。
あ、抜けた。
無事にツノが木から抜けたようだ。
怪我もないようで一安心。
と思いきや、ウサギは再び男に向かって猛ダッシュしてきた。
あの勢いで激突されたら大怪我してしまう。
「だから待てっ・・・。今来られても困るからっ・・・・」
結論。
男は逃げるしかなかった。