最強の1本
刃物を持つのは何日ぶりだろうか?
実際には数日間のはずだが、何か月も包丁を握っていないような気がする。
もう何週間も、この大地で寝起きしている気すらしていた。
実際はまだ5日目なのに。
おそるべし、大草原。
包丁ケースの中、ずらりと並んだ中から取り出したこの1本。
刃の部分がしっかりとした革のケースに収められている無骨なものだ。
使い込まれた感がある。
イタリアンや和食の料理人が使うには、あまりにも不似合いな包丁だった。
しかし山では大活躍の一品。
頼れるハンティングナイフである。
山を歩くには必須であり、山奥の民宿に泊りに行くと出番は多い。
高校時代、リゾートバイトで長い休み全てを過ごした民宿は、立派に第二の故郷となっていた。
もはや庭。
そう言えるほど、男はその里山を知り尽くしていた。
今でも夏と冬のまとまった休みには毎年、客として訪れている。
永遠の従業員価格で、だ。
離れて暮らす父親は家族割引。
男と入れ替わりで、高校進学後の長い休みの度にバイトに入った妹とその家族は従業員優待価格。
代替わりで引退した民宿の爺さん婆さんも揃って出迎えてくれる。
血縁を超えた男の家族親戚が大集合。
毎年の恒例行事だった。
そこで山に入り、厨房に入る。
いつだって他の客の分まで腕を振るう事にしていた。
上げ膳据え膳なんてつまらない。
獣を捌き、民宿の婆さん直伝の家庭料理を仕込むのは、気分転換になって楽しかった。
新作料理の研究だって、はかどるはかどる。
特にイタリアン。
売るほどに栽培されている、街ではお高いハーブが採り放題なのだ。
肉は山に居る。
老若男女、試食してくれる客には事欠かない。
大工である男の父親が「親戚価格」でリフォームした厨房は使いやすかった。
料理人にとって、お財布にも優しい理想の修行場。
同僚と料理合宿をすることもよくあった。
休暇中だろうが関係ない。
つまりはどこに行こうが料理人でいたいのだ。
だからアタッシュケースはこだわりの特注。
和でも洋でもジャンルを問わず使い分けられるよう、必要な包丁達が全て収められている。
日本では、どこに行くにも包丁はいつも一緒。
異世界だって包丁は今日も一緒だった。
ただし、まだ刺身包丁の出番はない。
洋包丁もお呼びでない。
ここは料理のできない大草原。
そして今から森の中。
まだ料理人はお呼びでない。
料理人となるその前に、人間として生き延びねばならない。
ハンティングナイフがあって本当によかった。
しみじみ思う。
備えあれば憂いなし、だ。
本音を言えばハンティングナイフは数種類揃えておきたかった。
色々悩んだのだ。
獣の皮をはぐ専用のものだって欲しかったし、木のつるも案外固い。
小さく手になじんで使いやすいナイフも魅力的だった。
だがそれらは借り物でも満足できる。
そしてケースに入りきらない。
仕方なく絞り込んだ1本だった。
それでも厳選しただけあって、使い勝手はかなり良い。
大柄な男の手に合わせた、ハンティングナイフとしては大ぶりな1本だが、これで山の用事はほぼ全部すんでしまう。
細かい作業も案外できた。
猪など大物の皮をはぐ時だけは、脂の始末も面倒なので専用のナイフを借りていたが、これでも頑張ればいける。
男はハンティングナイフの刃を覆う革のケースを取り、じっくりと観察した。
いつもと同じように、ナイフは男の手にしっくりと馴染んでくる。
ナイフから目をはなさず、革ケースをカーゴパンツのポケットに突っ込んだ。
しっかり手入れされた刃が太陽の光を反射して光る。
良い輝きだ。
アウトドアにおける男の相棒。
頼りになる1本。
山では最強の一本。
当然、ここでも最強となってくれるであろう1本。
満を持してのご登場だった。