文明開化は錯覚だった
「男には、やらねばならぬ時がある」
よし、決まったっ。
一回言ってみたかった。
満足げに一人、うなづく。
やりたい事なら、たくさんあった。
台所の掃除だってしていないのだ。
朝飯も食べていない。
しかしそこはぐっと我慢。
どうしても、やらねばならぬ事があった。
魔女の家、2日目。
時はおそらく、まだまだ早朝。
緊急案件発生。
決意を胸に、男はぐっと目の前をにらみつけた。
この痛みは増すだろう。
本当はやりたくない。
寝ていたい。
だがしかし。
やらねばならぬ。
歯をくいしばって耐えるのだ。
これから、過酷な作業が始まる。
目の前、そこには。
黄金畑。
ちーん。
音がしそうなぐらいにカッコが悪い、男の決意。
オチにもならない。
つまり。
やわらかい藁のベッドで眠りたい。
それだけだった。
しかし男は真剣だ。
寝藁をつくる。
板の間に痛めつけられた三十路の体には、キツイ作業。
己を鼓舞でもしなければ、やり遂げられない。
それが冒頭、ちょっと言ってみたかった言葉につながった。
よし決まったと自己満足。
男は独り上手だった。
今日も楽しそうだ。
体は痛むようだが。
「うぅっ・・・・・」
鎌を手にした男はうめき声をあげつつ、黄金のひと房を根本から刈り取った。
たった一度で挫けそうになる。
刈り取ったひと房を、地面に拡げた白い布の上に置いた。
魔女の家に置いてあった大きな布。
おそらくシーツ。
刈り取った藁を地面に置くのは嫌だった。
土がついたら面倒だ。
シーツは洗えばいいだろう。
鎌は畑の近くにあった小屋で見つけた。
昨日は畑だけに夢中で気付かなかったが、魔女の家とは別の建物がある。
家よりも小さい、いかにも倉庫。
畑の中では、まあまあの存在感がある。
なのに気付かなかったとは、どれだけ野菜に集中していたのだろうか。
逆にすごい。
小屋には農機具が置いてあった。
こんな森の中だから、電気がないのだろう。
全てが手動、手作業となる道具ばかり。
ナントカ資料館に陳列されていそうな品ぞろえだった。
千歯扱きらしきものもある。
歯の隙間に乾燥した藁を通して引っ張ると、脱穀が出来るという昔の道具だ。
他に目ざとく見つけたのが、大きな石臼。
粉が引くのに使うのか。
アレを動かすには、かなりの力がいりそうだ。
魔女はよっぽど小麦のパンが食べたかったのだろう。
パン窯がないとは書いていたが、それ以外は準備万端。
そう思えた。
親近感が湧いてくる。
小麦の収穫は、体の痛みをこらえる男には重労働だった。
かがんでしゃがんで、力を入れて、持ち上げて。
覚悟していたとはいえ、キツイ。
動くたびに痛みは増す。
それでもめげずに男は黙々と作業を続けた。
「このくらいでいいか」
時間をかけて収獲された小麦が、大きな布の上で山となっていた。
鎌を置き、男は座りこんでストレッチを始めた。
どんなに痛かろうがやっておかねば、さらに痛い目をみることはわかっている。
悪い意味でも筋肉は裏切らない。
文字通り体で学んだ事だった。
ちなみに服はスウェットから、白い服上下に着替えている。
今日の作業は泥だらけになるとわかっていた。
ダサいダサいと馬鹿にしていたが、作業着にはちょうどいいだろう。
ゴワゴワの服で肌が荒れても問題ない。
怖いのは筋肉痛と肉離れだけ。
せっかくもらったものだから。
おしゃれを知らない三十路の男は、何の抵抗もなくダサい服を着ていた。
「さてどうやって乾かすか・・・・・・」
高校まで過ごした男の地元は、のどかな郊外だった。
リゾートバイトをした山奥ほどではなくとも、ほどほどに田舎。
だから収獲を終えた田んぼを、毎日のように見ていた時期があった。
天日で収穫後の稲を干す光景だ。
丸太を組み合わせた物干し場のようなもの。
そこに端っこを束ねた稲がいくつも、2本の足のようにまたがっている。
秋には当たり前のように見ていた光景。
しかし当事者となった今ならわかる。
あんなのは絶対に無理だ。
簡単な作業ではない。
日本の農家って、すごい。
当たり前ではなかった。
今さらながらに頭が下がる思いだった。
それに魔女の手紙にもあったではないかと思いだす。
収獲したって早ければ1日、遅くとも3日で採れ頃に実る。
たしかそう書いてあった。
ならば、収穫した畑の上で乾燥させられるわけがない。
3日もすれば黄金畑が復活するはずだ。
さてどうするか。
この後の作業量を考えると、うんざりしてしまう。
しかし寝藁ができるまで、板だけのベッドでもう一度寝る勇気は持てなかった。
申し訳程度に敷いたダウンでも、この痛みは防げなかったではないか。
痛いのはもう勘弁。
男は早くも音を上げていた。
藁がしっかり乾燥するには、10日ほどかかるだろう。
少なくとも1週間はみなければいけない。
それまでは、大地が寝床の生活に逆戻り。
文明開化は錯覚だった。
まだまだ道は遠い。
ため息をつきつつ、男は次の作業にうつるべくストレッチを終えた。