表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AREA"D"   作者: 湯豆腐
5/5

第三章



「ーーーまだ着かないのね」

ベルガモットが冷ややかにそう呟いたのは、月が黄色く変化し終えた夜更けの頃だった。辺りには相変わらず重石のような墓石がびっしりと地面を覆い尽くしていた。だが、進んでいくにつれ、死者と生者の間柄、あるいは死後の時間を表すように石は苔蒸したり風化して溶けている見すぼらしい姿に変わっていった。

「もう少し歩くんだ。疲れたの?」

「いいえ、まったく」

「そうか。ところで、君は昼には何の仕事をしてるんだい?」

夜の暗闇の中で頼りなく光るランプがルンフォンの手の中で揺れていた。彼は振り返ることもなく、ランプを掲げた方の手を動かすことさえせずに、楽しそうな声で話しかけた。彼はこの場面において、ただ、会話を楽しんでいるのだった。並外れて肝が据わり、楽観的で、享楽的で、冷たい男であったから、この若者はこんなふうに振る舞うのだった。

ベルガモットはすらりと痩せていて色が白く、月の光の下で肌は青白く、暗闇の中での佇まいは幽霊のようだった。彼女は美しかった。しかし、決して笑わなかった。

「踊り子よ」

「ちやほやされてるだろうなぁ」

「ええ、ろくでもない男がごまんと擦り寄ってくるわ。でも、ヤクザ者の話や裏社会の取引について知るには丁度いい人達......」

切れ長の眼差しが、夜風を切り裂いて足元へ流れた。

「裏社会のことを知りたいの?」

「知りたいわ。父さんを殺した奴がきっとその一員として生きているの、探せばいつか見つけられる時が来るかもしれないわ。もし、そいつを探し出すことができたならーーー私が殺してやるのよ」

延々と道の上を歩きながら話を続けていた。街の光はとうに遠くへ失せていた。

ルンフォンは急におかしさが込み上げてきて、声を上げて快活に笑い出した。

「なぜ笑うの」ベルガモットはむっとした声で言った。

「だって、面白いんだ。君は少しヴァーゴ夫人に似てるね。恨みを晴らすことに身を投げてしまったということでも」

一瞬の冷たい夜風が、歩く二人の間を通り抜けた。ベルガモットは一瞬立ち止まり、

「ーーー一緒にしないでちょうだい」

ルンフォンは微笑んで、再び続きを語り始めた。





そこは一筋の日光も差さない地下にあった。

土の壁には苔が蒸し、石の壁には黴が生えていた。扉の鉄格子は錆び付いていたが、脆くはなく、それはただ不潔なだけのものであった。頭痛を誘う焦げ臭い灯と、囚人の汗の匂いが充満し、息さえしないで済ませたくなるような空気が漂っていた。住人は常に看守や役人の目に怯え、刑吏の面前に蹲っていた。あるいは涙を流して横たわったり、微かな灯りから飛び散る火の粉を自分の目の中に入れようと試みたり、何日も飲まず、食べずに心を閉ざしていたりした。それが市立の留置場の地下牢である。

百五十年ほど前の戦争の時代に使われていたこの刑務所の集団牢に、ヴァーゴは今、暮らしていた。彼女の他には見すぼらしい娘の囚人たちが十余人いた。ヴァーゴはその中にいて、娘たちと同じくさめざめ泣いてはーーーいなかった、そういうわけではないのだった。

娘たちの方はさめざめ泣き暮らしていた、そしてその傍にいるヴァーゴは、こうした哀れな少女たちの中で自らの本質を発揮した。彼女たちの怯え、窶れきった有様を目にしたその時、ヴァーゴの胸には、助けてあげなければという同情と使命感とが湧き上がったのであった。囚人となっても彼女の気位は変わりはしないのである。

「さあ、皆、髪を整えてあげるわ。いらっしゃいな」

ヴァーゴはいつでも温順に微笑し、囚人服を着た聖母となって同室の仲間たちを勇気付けた。

「泣き暮らすのはやめて、希望を持たなくては駄目よ。貴女たちは綺麗ですもの、そんな惨めな顔をしているよりか、微笑んでみた方がうんと魅力的だわ」

強く汚らわしいものを憎み、美しく弱いものを愛でるこの女は、囚人であることを考えれば悪女と形容できる存在であり、かつその本質は天女とも取れた。彼女がどのような存在であるか、誰にも定義づけることはできまい。この女の行いと発言とに善悪の名前をつけることはできても、真実の眠る場所には誰も辿り着けまい、誰にもわからない、彼女自身にさえ、善の人か悪の人かわかっているまい。不可解なこの女は、判別するならば本能の人である。

ヴァーゴは古い子守唄を歌いながらあどけない乙女たちの髪を梳き、整えていた。慈しみの視線は単に、純粋に、大人の女としての愛情を注いでいるようにも、また、自分自身に慈悲を与えているようにも見えた。

「辛いことばかり続いていても負けては駄目よ。気高さと気位を持ち続けるの、痛みや苦しみにも負けないで生きる道を選ぶことよ。神様はきっと私たちをご存知で、味方してくださるわ。ーーーもし先にこの留置場から出られたら、私、すぐに皆を迎えに戻ってきて助けてあげますからね」

その時、安息の空気は一気に恐れに入れ替わった。

女囚人たちは一斉に目を見開いたまま凍りついて一つの方を見た。ヴァーゴは訝しみと胸騒ぎを抱えて振り向いた。

看守がそこに立っていた。

看守は冷え切った雰囲気で房の錠前を開け、居丈高に牢屋の中へと立ち入った。女囚人たちの中に交ざりながら、彼は一切の憐憫もない表情を見せていた。そしてヴァーゴの前へと迫って言った。

「この留置場を出たら、と言っただろう。裁判も済ませずにここから出る気があるのだな」

それが重大な罪を意味するというばかりに、彼は責め立て、追及するような口ぶりだった。ヴァーゴは強気に、取り乱さずに答えた。

「言いましたわ、ムッシュー。ええ。ですが話の弾みです」

ヴァーゴは努めて勝ち気に言った。

何を話すか、言葉まで選ぶ権利が看守にあるだろうか?たとえ看守の身分を考えても、こちらが囚人だとしても、自由が守られるべき領分は存在するはずである。

だが看守は彼女の言葉を遮りさえせず、その返答を完全に受け取ってから告げた。

「お前の言ったことは脱獄の企てを意味する。我々は、お前を疑わなければならない」

「なぜでして?」

ヴァーゴは眦を吊り上げた。だが、看守は冷然としていた。

「この留置場を出ることを考えていると発言した者を見逃すことは我々の仕事に反する。事務室まで来い。弁明があるのならばその時にするんだ」

「それは当てつけよ。私はただの例え話をしただけ、それがなぜわからないの?」

「私は看守だ、お前のしたような真似を、問題のある囚人を取り締まることは私の仕事だ」

「いいえ、私は貴方が出向かなくてはならないような問題は起こしていないわ。これでは不当な処遇よ、連れて行くというなら拒否するわ」

「それ以上主張したいことがあるのならば相手は私ではない。命令に従え」

看守は繰り返して言った。彼は傲岸な方ではなかった。根気強くこの気位高い囚人と対話を試みていたが、余りに思い通りに事が進まないことに苛立たずにいられなかった。ヴァーゴの白い手首を掴むと、看守は、敵意を込めて引っ張っては彼女を立たせようとしたが、ヴァーゴは殺し屋の手にかけられたような恐ろしい金切り声をあげて飛び退いた。

「触らないで!」

その声に看守はますます気分を害した。そしてこの囚人は、少なくとも理屈や言葉では手に負えないことを悟った。彼はついに、ヴァーゴを腕づくで連れ出そうと決めて腕を引っ張り始めた。ヴァーゴは半狂乱になって悲鳴をあげた、この太刀打ちできない相手である看守に忌まわしい娼館での日々の影を見たのである。力で勝り、身勝手で鷹揚な男とはヴァーゴの最も馴染み深い苦痛のうちの一つだった。心の奥深くの生傷に触れた看守を、彼女は恐れ、激しく憎んだ。

しかし看守とて囚人がヒステリーを起こすたびにその事情に配慮するとあっては仕事にならないのは当然である。彼はそのままヴァーゴを外へ引きずり出そうとする試みを続けた。ヴァーゴは半狂乱になっていた、前後も、空間も、弁えるべき自分の身の上でさえ忘れて無我夢中に「助けて!」と訴えた。彼女の心は娼館の紫色の照明と、夫の差し伸べる救いの手の妄想に逃げ飛んでいた。

そこへ鉄の耳障りな音を立てて扉が開き、牢屋に別の来客が現れた。軽々しい様子の男であった。その明るい色の髪がそのまま薄暗い牢獄の照明装置と成り得ていた。

彼を見た女囚人たちは再びぎょっとして青ざめた。アノニマス刑事その男がいた。

「随分おッかないんだなぁ。何をシてるところなんですか?......そうじゃないンなら、留置場ッてのは何も起こらなくてもこんなに騒々しイほど物騒な場所なんスかねェ」

アノニマス刑事はおよそ軽薄な、気楽に間延びした調子で喋った。微かに不機嫌そうな彼は、看守よりもやや上の身分を有していた。看守は背骨一本に至るまで余さず伸ばすと、整然として言った。

「特別な処断をしているわけではありません、刑事殿。私は看守の職業に課せられた職務と責任を遂行しただけです。問題を起こした囚人を面談に連れ出そうと説諭しましたがどうしても聞き入れてくれないもので、仕方なく腕力を行使して訴えたのです。お見苦しいところをお見せしたというのに失礼でしょうが、私に問題があったとは考えますまい?」

最後の言葉が懇願の情けない色を帯びていたことから、この看守が一刻でも早く、少しでも確実なアノニマス刑事の同意を求めていることは明らかであった。

アノニマス刑事はというと彼の言い分に大いに理解的であった。刑事と人間と看守という人間とは、流儀や仕事の内容にではなく、本質的理論に関して通じた共通点の多い人種である。民衆には勝手に理想像と呼ばれる重い作品を押し付けられ、職務では勝手な彼らのなすがままに翻弄され、やがてこの周りに悪があることを考え何度も責め立てるように後ろ指を指されて街を歩くだけで余所者として取り扱われては苦い思いをするというよく慣れた流れが、互いの職業にはそっくり同じく、影法師のようにつきまとう。その憂鬱さも窮屈さも二つの仕事はそっくり同じ具合に抱えていた。刑事と看守という役は腹心の友なのである、その職に従事する者たちもしばしば親しい友人になった。

アノニマス刑事は、そういう具合に、看守の言い分に納得を寄せたわけであるが、彼にはさらに首尾の良い行動をすべきであることがわかっていた。自分の言ったことにはこの友たる看守も理解を示すはずと考えると、アノニマス刑事はもう一歩踏み込んで話し出した。

「もちろン、看守殿の仰ることはごもっともですともォ。ですが、囚人を一人尋問するとォなると、これからひどイーーー手間がかかるでしょうに。連行した後はかかる書類を書いて、手続きもォあります、その後はまだ書類を作ってーーー俺ならァ、そんな面倒な仕事ォぞっとしますネェ」

聞き手の看守は予想に違わず、反感どころか、むしろその言葉を待ちわびていたような顔をしていた。

「それにィ、もし囚人にはァ一切の非がなかったなァんて話になりでもしたらァ我々の立場としてはさらに厄介なことですよ。民間に知られでもしたら苦情と非難ですぐ蜂の巣になッちまいます、忌々しい噂だって流される。あいつらは我々のコトを誰彼構わず手を出すとでも言うんです。そうしたらァ、その評判を市民から揉み消すのにィきっと駆り出される」

「違いありません、わかります。警察や権力の側はイメージの転落を嫌っていますから」

看守は不愉快極まりないといった様子で尋ねた。「刑事殿、私はどうすべきでしょうか」

アノニマス刑事は猥雑に笑うと、看守に、望む言葉を慈雨の如く注いでやった。

「囚人を簡単に連行してもォ後のことがひどく手間ですからネェ。必要ないならばこの件は見逃しにするのをお勧めしますヨォ」

「では、刑事殿は私がそうすることを許可してくださいますか」

「やめてくださいナァ、オレは許可なんて大仰な仕事を受け持てるほどにご立派じゃァないンですよ。ですけどもまァね、アンタに許可は下ろしませんが見逃しくらいならシますよ」

それは事実上の認可であった。この言葉により、看守は晴れて忌まわしい職務から釈放され、ヴァーゴもまた物々しい尋問から解放されたのであった。アノニマス刑事でさえ職務から解放された、この留置場を訪れる間、彼が先述した書類に向かい合って頭痛に悩む羽目を見るのはアノニマス刑事自身なのであった。彼はすなわち煩雑な仕事から体裁良くずらかったのである。

後々起こる出来事に際して思い出してもらえることを望んで書き記すが、真っ当な大義名分の皮の下にある肉とは、常にこの如く身勝手で、単なる偶然な思いつきに過ぎないものばかりなのだ。

看守はすっかりヴァーゴの一件はないもの、或いはとっくに始末できたもののように話題を変えた。

「ところで、刑事殿はこちらには何を」

アノニマス刑事は人当たり良さげに微笑んだ。

「警察本部に派遣されただけですよ、ですがそのついでに何人か会っておく囚人がいましてネェ。まァ彼女じゃァありませんケドね」

「麻薬対策取締委員会は問題なく進んでいらっしゃいますか」

「そりゃァね。そうだ、あァ」

「何です?」看守の声色は、まるで自分の職場を疎っているように軽やかだった。

「麻薬対策取締委員会本件のォ参考人をォこの留置場に確保するってことで、警察の方からこちらにィお話しておくコトがあんですヨ。また詳細を後ほどお伝えするンで、職員の皆さんにィあらかじめ話を通しておいてもらえマス?」

「承知しました、そうでしたら、刑事殿がいらっしゃるうちに今この場で他の看守と事務員に知らせてもよろしいでしょうか?」

「その方が良いンでしたら、お好きなように」

看守は聞くなりそそくさと駆け出した。

牢獄の鉄の扉は忙しなく閉まり、穴蔵の中のような響きの足音が遠くに聞こえては去っていった。アノニマス刑事は憂鬱そうに溜息した。女囚人たちは威圧された如く怯え、幾人かの塊になっていた。

その時、アノニマス刑事は何かにズボンの裾を引かれた。彼は下を見やり、床に座っているヴァーゴを見下ろした。

実のところ、いや、勿体ぶって告白せずとも見通せているかもしれないが、ヴァーゴの処分について談義している間、談義するアノニマス刑事も看守もヴァーゴのことを完全に忘却していた。仕事で注意を払う対象とは大方そんなものである。

ヴァーゴは留置場の床にしゃなりと腰を下ろしたまま、惨めさを微塵も感じさせずに問うた。

「もし、罪のない囚人を解放してと言ったら、貴方は協力してくれるの?刑事さん」

アノニマス刑事は即座に乾いた含み笑いをした、その嘲笑が彼の明白な答えであった。

ヴァーゴは腹わたが煮えくりかえるような思いを感じた、苦境であればこそ、他人に憐れまれることは一層の屈辱であった。

「私のことを言っているんじゃありません。この牢屋にいる囚人たち、女の子たちの話をしているのよ。私と同じような目に遭って、罪もないのに理にかなわない人間に苦しめられている子が一体何人いることかしら。だけど、貴方なら彼女たちをここから出して、助けてあげることが出来るはずよね?」

牢屋の女囚人たちはいつそうし出したのか、いつの間にか全員が凛然たる言葉で説くヴァーゴに視線を注いでいた。女囚人たちの胸には一縷の希望と、懇願と、不安とが押し寄せる波となっていた。

職務に忠実たるアノニマス刑事は、その全てを無用とした。

「これはネェ、仕事ですから。いちいちアンタたちの言い分に耳を傾けてちゃやってらんないんス。何を考えてるか知りませんケドーーーいや、知る必要もナイッてのが正しいんですがァーーーまあ、あれですわ。聞いてくださいね。ーーー囚人の分際で、アンタたちに余計なこと言う権限はナイんすよネェ」

アノニマス刑事は辟易したように言い捨てた。

彼が出て行くと、外から漏れていた光に拒絶されたような暗闇と、静寂と、深い穴の底のような心細さが牢に満ち足りた。囚人たちは皆息を詰まらせていた。一縷の望みはかかるに値しない代物だったのである、息さえしないでいたくなるような空間から外へ出て行く夢は成らないのである。

ヴァーゴは鉄の扉を見つめ続けていた。心はその外、その上、夫のいる世界、現実ですらない空想の世界を浮遊していた。目を閉じていると、まさに夫がそばにいて、肩を抱かれている気分になった。夢のような気分だった。

それが本当に夢であることを、目を開けて現実に戻ったその時、彼女がどのような景色を見なければならないかを、思い出したくはなかった。





この街においては、地上と地下で暗さを競うことは不可能だった。すなわちどちらもこの上ーーー正確に表すならば、この下なく暗いのである。

そこすなわち道の上にして太陽の下を麻薬売りの犯罪者が歩いているその事実にも、昨日の晩の捕物を思い起こしてあの騒ぎは何だったのだと、警察がいかほど無能かを嘆くことはできまい。元々そのような街だったのである。

麻薬売りは朗らかな笑顔を浮かべ、愛嬌良く、尚且つ冷たく、中毒で震える道端の者たちに籠から出した商品を売り歩いた。その容れ物は、シャ・ノワールの、優美な、淑やかな、上品な、女性的な曲線で縁取った酒瓶だ。麻薬売りの男はーーーそう、犯人は男であるーーーつまり、たった今明白になったが、あの気高い女囚人のヴァーゴ・ユニカは紛れもなく誤って逮捕されたのだーーーそして彼女は今、麻薬売り本人が踏みつける地面の下にいるのだった。

彼女がその留置場に追いやられた理由となった酒瓶を、麻薬売りの男は小気味良く、牢でなく幻惑に囚われた囚人たちに売り渡していた。男は若く、美しく、実に魅力的だった。肌は白い魚のように輝かしく瑞々しかった。だが心は、あらゆるものへの嫌悪と、野心とに満たされ腐敗していた。男は甘やかで、人懐こく、それでいて全ての物と人とを冷たく見下し、その面前に悠然と立っていた。男は誰より人間の本質、少なくとも一部ではあってもどんな人物も例外なく持っている普遍の部分をよく知っていた。人間の顔の闇になっている部分に詳しかった。男は親を知っていたし、親と暮らしたこともあったが、それは男にとって最も苦々しく、色褪せて、腐敗した人生の一部分だった。両親は男の目の前に転がる多数の囚人たちと変わらない。欲望のみに忠実な下僕、快感と享楽の虜となり、子を放り捨て、世間を忘れ、家をゴミと凶器ーーー子供にとって凶器と成り得るあらゆるものーーーで満たし、金を浪費し、時間を使い果たし、生活を雑巾に変えて絞り取れば一滴の汚水も滴り落ちやしないものにしたーーーそれだから、死んだ後も遺児の厄介にならねばならない旨を墓石に刻む羽目になるのである。ベネデットという息子は不幸であった。両親の傍らに常にいるのは子供時代の男の姿だった。美しい、やはり人形のように見目麗しい金髪の子供が、麻薬の海の濁った激流に呑まれて沈んでゆく父と母の横で、泣くことさえなく、ただ子供がしていてはならない曇った色の暗く鋭く冷たい両目だけを壁の模様に向け続けているという映像がいつまでも続く映画が男の子供時代だった。両親は、やがて死んだ。その時の姿は、麻薬の虜、快楽の奴隷、獣、愚か者、落伍者、言葉をいくら足しても形容が到底追いつきはしない醜さであった。彼らは性交しながら死んだのだ、絶頂の中で死んだのだ。腹上死の憂じみた耽美な響きさえなく、獣の交尾そのものの猛々しさで、弾みに殺し合って凄惨な絶命を遂げたのだ。アルボーニという名の、皮肉にも、滑稽にも、夫婦としてのままで埋葬されたこの父と母と異なり、麻薬売りの男、麻薬売りとなった男は 快楽に交わろうとしなかった。選ばなかった。ただ、快楽を得る人間とはよく交わった。その由は育った道程が男に教えたことだった、男は倫理でも哲学でも算数でもなく、快楽に人生を捧げた人間がいかに忠実で、醜く、執着心を導火線に大胆な行動を選べるか、いかに脆い足場の上に立っているか、いかに破滅しやすく、それを恐れているかーーーとどのつまり弱みにつけ込みやすいか、もしくは破滅を恐れないが故に使いやすいかについて父と母と幼少の日々と大人から教育を受けた。実に高等な教育を受けた。それゆえ男は聡明で、冷徹で、悪意に溢れていた。そうして男は一人身になっても世の中をするりと身軽に切り抜けていくための知識と技術を吸い込むように身につけ、やがて美しい子供は裏社会に流れ着き、麻薬を密売する人間になった。客についてその身が詳しく知っている故、男は優秀な商売人であった。狡猾な男は、他人が堕落する有様を好んだ。見下した相手が谷底に落ちていく景色を好んだ。マジシャンとして昼間に喝采を浴びる間さえ、周りの誰もを腹で嘲っていた。生粋の犯罪者であった。男は先日、ヴァーゴ・ユニカを谷底に突き落とした。刑事たちがその興味と野心から犯人探しを始めたのが狙い通りであった。まんまと人違いをさせた。男は警察の弱さを知っていた。手柄を急ぎ見栄を張る故に、弱みを握られそうになればいとも簡単に他人の手玉に収まり、思惑通りに動いてしまう情けなさを理解していた。ヴァーゴと警察の者との間に、因縁と、変愛と、秘密があることを知っていた。男は他人を利用することに後ろめたさを感じなかった。むしろ利用できるものならば何でも動かし、取り込み、そうして生きてきた。その面前に冷然と立ちはだかり、嘲り、投げ捨てるのが男のやり方だった。だから男は、女にして商売をし、官権力とつるみ、緊張した関係を持ち、社会からは魔女のように好奇と見下しと、羨望、あるいは嫉妬の目を冷ややかに向けられている女店主、ヴァーゴ・ユニカの弱い立場を巧みに使って麻薬を売る当事者に、犯人に、仕立て上げて、アインスに命じられた通り罪をなすりつけ、麻薬の密売を誤魔化せという上司の命令をやってのけた。そうして男は、ただ任務を遂行し、陥れた相手を口汚く軽蔑し、侮辱し、転落する客や愚かな街人、情けない権力者たちに手を叩いて笑い、真に麻薬を売り歩くのだった。

ヴェンデッタ・ブローニスとはそういう男であった。





ハンナと父親はその日、まさに何より望んだもの、追い求めたもの、無垢な子供のように憧れを抱いたもの、一途な青年のように焦がれたものを手にした。すなわち大手柄と名声である。

父親は大仰に家人を叱りつけながらやっと選んだ、かといって何の変哲も見所もない、結局は見慣れたものと変わらない背広を着ていた。だが彼としては他と一線を画した特別な衣装を身にまとっている気である。そして顔には謙遜をこれ以上なく誇大させた表情を浮かべ、彼を取り囲むあの無能にして行楽家揃いの党首やら委員長やら大物諸君に頭を下げていた。手は恐らく彼が最も恰好良いと考えているに違いない、軍隊式か、あるいはスポーツスターの選手が直立した姿を真似てみせたような調子でズボンの糸目に貼り付けていた。比べて娘のハンナの何と優雅さが様になっていることか!ほっそりした若い美しい娘、上流社会の娘は青ざめて立っていた。それでも父の成功が自分でも嬉しくて仕方ないというように、口元と頬は誇らしげに、この上なく感じ良く、ほんの少しだけ緩められていた。不安と緊張を自分の奥にだけ封じ込んで、身じろぎもせず、優雅に慎ましく、ハンナはそこに立っていた。

「君、よくやってくれましたね!」

党首は太鼓腹を揺らしながら、君、というところにゆったりと抑揚を置いて横柄に喋った。ハンナの父はいかにも恐縮した様子で喜ばしそうに頭を下げたり彼の客間に詰めかけた大物諸君の間に浮ついた空気が流れた。ハンナの父は静かに語った。

「ですがあの女性ーーーお許しください、女性に対して敬意を払うことは私の主義なのですーーーユニカさんには済まないことをしたかもしれないと、私は今でも感じるのです。今頃、古く薄暗い、気の滅入るような地下の留置場で時間を過ごしている彼女が、その理由を他の誰でもなく私が作ったと知れば私をきっと恨むでしょう」

客たちはこの男の演説を神妙な顔で聞き入れていた。とってつけの厳粛な空気が客間の壁に張り付いていた。ハンナの父は、彼が内心に膨らませている、自宅にいるのではないような居心地の悪さ、失敗の宣告への恐怖とそこから生まれる細心の注意、そしてそれらを客の前に広げないためのさらなる注意を懸命に押し隠して、きっぱりと続きを話した。

「だがこれは我々によって守られるべき市民のためであり、いえ、それだけでなく彼女自身のためでもあるのです。彼女は一刻も早く裁判にかけられるべきです。本当に彼女が何もしていない、そう、言い分通りに何の罪もない、無関係の人であったならば、裁判を受けさえすればすぐにそのことが明らかになるはずではありませんか。そうすれば彼女の無実は証明され、すぐに釈放されるのです。あるいは、麻薬の密売に関わっていたということが事実であったとしても裁判を受ければすぐにそうだとわかります。その場合は我が街に根を張り、腐らせ、脅威となっている麻薬ーーー」

「ーーー薬物と言った方が耳あたりが良いと思うのは私だけかね」

「失礼しましたーーー」父と娘は怯えて青ざめた。「申し訳ありません、書記官殿。まさにその通りです、私の至らぬところです。ーーー話を続けてもよろしいですか?ーーーありがとうございます。薬物の温床を洗い出し、市民を守るという我々の取り組みが達成されるのです。麻薬対策取締委員会としては大きな成果を上げることになります。つまり、疑いがかかっている彼女には、その疑いが真か否か、早く判決を受けてもらう必要があるのです。判決がどちらだったにせよ、それによって、ユニカさんか、麻薬に脅かされる市民か、どちらか罪のない方が確実に救われるのですから。そういうわけでーーー私はーーー役所に、ヴァーゴ・ユニカさんを逮捕するよう、直接申請して参りました。......留置場の環境は耐え難いものでしょう、それを思うとやはり彼女には済まないのですが、裁判を受けてもらうためには、まずは逮捕をして留置場を通すことを避けてはならないのですから、仕方ないことでありました」

ハンナの父はやっと話し終えると、何度か肩で息をした。疲労困憊の色が顔に出ていた。聴衆、客、大物諸君は、今度は誰からともなく拍手を始めた。広い客間を波が伝わるのは早かった。客たちは示した合わせたかのようにハンナの父を喝采した。

若い議員だけは謙虚に彼に労りの言葉を手向けた。

「辛い仕事をさせてしまいましたね。あなたの話してくれた通り、判決がどちらだったにしても、あなたは誰かの恨みを買いかねないでしょうに」

「このような仕事は下っ端が買って出るものですよ」

ハンナの父は穏やかに微笑んだ。客間には未だに、落ち着かない、探るような心音が微かに響いていた。委員長は矢継ぎ早に、それを打ち消そうと出た。

「それで、これからのことだが、君はどうするのがいいと思うかね。市民を支えるため、そしてあの女のためには、我々はどうして動くのが最善かね?」

即座に、ハンナの父は礼儀正しく答えた。

「できるだけ早く裁判をして、判決を下してもらいましょう。第一にあの留置場に、無実の可能性がある女性を長々と繋ぎ止めておくことに問題がある。加えて我々も足踏みをしている場合ではないのですし」

何と思いやりに満ちた恥知らずだろうか?ヴァーゴと一緒に地下で長い時間を過ごし、冷たい床の上に座り込んでいる、怯えきった女囚人たちのことなど彼の頭の上にはないのである。だが、当然と言うべきか大物諸君はおおいに満足げだった。

「大いに結構!早速私から高等裁判所に話をつけよう、判事で良いだろう。重大な事件だからね。ーーー君は本当によくやってくれた!」

演説家としてはこの委員長の方が一枚上手と言えようか。ハンナの父は再び縮み上がって頭を下げた。客たちは微笑し、笑い、頷いて、またあの腹の落ち着かない拍手を始めた。彼らの表情はまるで同じだった。安堵していたのである。そして暗く深いのである。

そう見て取れる通り、大物たちは安堵していた。ヴァーゴが逮捕され、裁判を受ける羽目になったことに。

警察に出頭したその時、ヴァーゴは罪人になった。少なくとも世の中の人と、新聞と、噂との中では彼女は紛れもなく罪人として扱われていたのである。そしてその罪人の店に、この大物諸君は、顔を揃えて喜んで遊びに行ったのである。党首も、委員長も、若い議員も、皆揃ってシャ・ノワールに訪れたことがあるのである。それが知れた世間からの反感と、軽蔑の目、その先の失脚、それらを想像しただけで心臓が容易く胸を裂いて飛び出そうな心地だった。彼らは、皆、犯罪という点で、名誉と面目においてヴァーゴ出し抜かれたのだ。

さらに悪いことには彼らはヴァーゴの酒、麻薬密売及び逮捕に一役買ったあの悪名高い酒を買って飲んだという事実によって窮地に追い詰められていたのだった。犯罪者と面識を持っていた政治家とか、麻薬売りの酒を買った金持ちとか、そんな名前をつけられて世間中に新聞が、噂が飛び回る。悪夢を凌駕した悪夢であった。それ故、今の自分たちの立場と肩書きとが、容疑者を手抜かりなく追跡し躊躇いなく裁く大胆さを持つ権力者たち、市民のための正義の雄となっていくことで彼らは非常な安堵と、喜びと、自尊心を手に入れていた。ヴァーゴが本当に罪を犯したのかなどは些末事である。ただ、自分たちと容疑者との懇ろな間柄を大衆の前に晒さないことと、自分たちの立ち位置をできるだけはっきりと大義の側に固めておくことが彼らの重要な課題であり、任務であった。あとは、ヴァーゴができるだけ長い間牢屋に入っていてくれさえすればーーーハンナの父とて腹の中ではそうとしか考えていないーーー心配事がなくなる。自分たちは最早同罪者ではない。

ハンナの父は道化を演じているように、奇妙な誇張した道徳と篤実を背広の隅にまで背負い、今すぐにでも叫びながら走り出してなどと帰ってきたくはない気と、表に、それだけしかないと言うように浮かび上がってくる名誉とを胸に感じていた。

客の一人はおもむろに紅茶に手をつけると、ずっと側に控えていた、家主の若い娘に呼びかけた。

「お嬢さんも誇らしいでしょうね。学校に行っても、また級友の皆さんの尊敬の的になれるでしょう」

それはハンナのことであった。ハンナは陶器のように緊張させて整えていた顔を愛らしく緩ませ、素直な、無邪気な声で言った。

「はい。父が自慢ですわ」

客間に、途端、親しげで節操のない空気が流れた。満足げに、自分の前という望みを叶えてみせた娘に向かって頷く父の肩を一人が叩いた。立派な娘を持ったことに親ながらも心を動かされているのだろうとからかったつもりかもしれない。

だが、ハンナ、彼女についてこそ書くべきであった!客たちと父が軽薄な談合を交わしている間、控えていた彼女の居方はまさに理想的と言えたものだった。淑やかで、いつもの如く人形のように従順にしていたが、父の成功を喜ぶ気持ちが美しい頬に表れているのが実に利発そうだった。若い娘にしては、賞賛に値する振る舞いだった、非の打ち所がなかった。横柄な他人たちの話の中に若い身を晒すことにさえ耐えたのである。彼女について長い間筆を走らせなかったのも、ハンナがその姿を一切崩さなかったので記すべき変化がなかったせいだろう。

党首、委員長、その他客たちは、やっとのことで長々と尻をへばりつかせていた椅子から腰を上げるところだった。時間の怒声が何とか耳に届いたのだ。その時、ハンナは歩いて行って、気立て良く客間の扉を開けてやった。

「お邪魔しましたな、長々と」

実に心のこもった謝礼を口にしながら、表向きにはハンナの父の忠実な共にして同志、実は彼の脅威にして天敵である大物諸君は廊下に歩み出た。ハンナは最後の客げ出て行ってから、静かに扉を閉めた。そして言った。

「皆さま、父をこれからもどうぞよろしくお願い致します」

気品に満ちた言葉遣いであった。客たちは振り向くと、口々に「お任せください」「大変利口なお嬢様だ。またお会い致しましょう」などと親しげに言い、何人かは笑いかけてみせた。その偉ぶった顔と気取った服に、ハンナは深々とお辞儀をした。

客たちの気配がなくなるとハンナはすぐに、ばね人形のように、頭を上げた。

彼女の顔中に今しがた悪夢から目を覚ましたような、刑期を終えて太陽の下に出た捕虜のような、三日三晩の拷問から解放された人間のようなーーーとにかく、怯え、不安げで、迷い、悩み、激しい痛みに引き攣った表情が広がっていた。精巧で従順な人形、理想的に作り上げられた姿は失せ果てた。その顔が歪んでいた。

ハンナは二度三度方で息をすると、張り裂けんばかりに目を開いて空中を見つめ、すぐに踵を返して廊下から飛ぶように逃走した。行く先には彼女の姿を見たものはいなかった、すなわち心配してやる者は、誰一人いなかった。





明かりを点けることも忘れて自室に駆け込んでなおハンナが安心した様子は一向に見られなかった。彼女は暗いままの大きな、飾り立てられた部屋の隅に膝を抱え込んで座った。思い出されるのは自分を褒めた大人の客たちのこと、彼らの言った通り学校に行けば生徒たちに与えられるに違いない賞賛、父と自分の活躍を嬉しそうに広めては讃えてくれろ教師、名声、社会すなわち出会う大勢の他人から恐れ多げに投げかけられる行為と驚嘆の眼差し、喝采ーーー目を閉じればそれらの色と輪郭とを正確に復元することさえ容易い。彼女の中はそれらの幻と真実に満たされていた。そして憐れむべき大きな真実がそこにあった。

賞賛と名声と手柄はハンナに誇りをもたらさなかった。それらは、彼女に、不安と、虚栄心と、焦燥と、絶望とを湧き上がらせていた。

ハンナはどの場所においても、何の場面に置いても、優等生であった。だが彼女にとって、取り巻く友人や大人や民衆は皆観客、彼女は魅力的な煌めく飾りをいっぱいにつけた仮面を被って、彼らの理想たらん英雄の役と、賢者の役と、美女の役と、小鳥の役と、それらを一度に完璧に演じてみせる役者である。民衆の中に紛れた時、何の特別な部分もない、善良な、かわいい、小心の娘が、学校では優等生たり、世間では金持ちの令嬢たるとは、そういうことなのである。ハンナはただ、好奇と、無責任な期待と、ささやかな意地悪を含ませた観客の前に突き出される。そしてひとつの失敗、ひとつの粗相、ひとつの欠点も晒さないように指先まで神経を研ぎ澄ませながら、観客が期待する優美で冷ややかな優等生の役を完璧に演じてみせ、観客は役者に拍手と、賞賛を与える。それが彼女が毎日見ている風景そのものだった。その義務と束縛とは、日増しに彼女を縛り、皮膚と肉に食い込む鎖となっていた。

今やハンナは人前において、社会において、完全な役者でしかない。ハンナという人間でさえない。彼女のあるがままの姿ーーー周囲からの重圧に耐えかねている健気な女学生の姿を他人の前に晒すには、彼女は道化を重ねすぎたのだ。見栄を張りすぎたのである。その義務が一人の人間に大きすぎたとして、ハンナは逃亡すらできないのである。廊下から部屋へ逃げ帰ることができても、社会の目の中には逃げ道がないのである。今やこの一人の少女でさえ、特区の権力者や成金の父と変わらぬ、失脚と、名誉や尊敬の損失と、軽蔑に対するこれ以上ない不安に支配されていた。

あらゆる観客の前に突き出されるたび、ハンナは美しい仮面をずれさせずに装着していなければならなかった。そして観客がハンナを称賛で飾り、仮面をますます豪華な、立派なものにしてくれたならば、それがどれだけ重たくなっていようともハンナはよろめくことさえままならなかった。

考えてみてもほしい。それを行っているのが、成金の娘で、今にも悲鳴を上げそうな、ごく普通の気弱な生娘であることがいかに哀れであるかを!本来の自分の姿を恥じ、隠し通さねばならないことがどれほど残酷であるかを!元来、役者として生まれたのではないハンナである。

ハンナは社会からの賞賛と、名声と、手柄を、喜ぶ一方で恐れていた。彼女は怯えながら、部屋に誰もいないこと、この時が誰の視線からも、自分の居室からも解放された空間であることを願って、よろよろと立ち上がった。一日中陽の差さない北側の窓の端の方に行くと、床には長細い資格の蓋がされていた。その部分だけが床が掘られていて、貯蔵用の小さな空間が構えられているのである。彼女は夢中で歩み寄って、請求に蓋を開けた。

酒瓶が、その中にあった。色褪せてくすんだラベルに飾られたワインボトル、似たり寄ったりといった感じのそれらが雑に何本も投げ打たれていた。ハンナはそれを、自分の身を恐怖から守り得る唯一のものであるように、夢見心地で眺めた。

汚い酒瓶がある理由は、ハンナが飲むためである。乱雑に打ち捨てられているのは飲み干されたものである。

この話題について、敢えてハンナがもっとも恐れるやり方すなわち社会的、客観的に事実を述べるとーーー

この娘は酒を飲む。

学生も、未成年も、飲酒は法律と社会との目によって取り締まられている。禁止されているし、忌避されているし、蔑視されている。

だが、ハンナは紛いもなく酒を飲むのである。この不潔な事実によって、哀れな娘は法の落伍者で、社会の外れ者で、下劣な愚者という本性を抱えることになっているのだった。

彼女にとって酒は快楽だった。ただ、本当にそれだけの理由であった。浮かれた大人がするのと変わらず、ハンナは、体中の血液に酒の成分が混在したときの幻覚作用、高揚感、気分の良さに夢を見ていた。弱く小さな人間は、快感に裏打ちされねば、雑踏に足を一歩踏み出すことも怖く、仕事のためにであっても指を一本動かすことさえ叶わないのである。アルコールは不安な彼女に勇気を与えた。苦い味わいは安心を与えた。酒という猛獣こそが、ハンナに恐ろしい期待と賞賛と前に飛び出していく力をもたらすものであった。ーーーしかしそれは、世間と法律と彼女を囲む大物使用の前においで何の力を成そう?最初に述べた自室は社会にとっての事実である。すなわち彼女は下女である。快楽者なのだ。その事実の前に、真実は時として何の効力も為さない。

そして悲惨なことに、ハンナは未成年にして酒に溺れている浮かれ者という恥ずべき本性にして豪華で美麗な仮面を被せた役者、というのが現実であった。酒は彼女に勇壮さと落ち着きを、さらに禁忌という事実まるごとを伝え、本来の姿を隠し、本来の姿を汚し、ハンナを役者としてさらに苦しめた。酒は友であり通り魔だった。

演説パレードの日の大衆、書斎で談話した父、客間で彼女を讃えた客たち、級友と教師も、それらの人々が見ていたのは、褒めたのは、決してハンナではない。ハンナという役であり、人形である。彼らは巧みな彫像に惜しみないチップを払った。ハンナ自身の姿とは、明かりもない部屋で酒に潰れた呻き声を漏らす乱れた女である。

彼女は今、穴蔵から安い酒瓶を拾い、半分ほどまで一息に飲み干した。喉を通し終えると、ハンナは大きな溜息を吐いて、寝椅子にゆったりと腰掛けた。その目は虚ろに沈みかけた夕陽が窓からもたらす光線を眺めていた。ハンナは、半ば死んでいるような有様でいつまでも寝椅子に座り、幻想を眺めていた。それは見栄と虚栄に飾られた自分の失せた日常、すなわち平穏である。

斜陽は哀れなまでに色鮮やかな深茶色で、街の隅に至るまでに茜を振り注がせていた。





夕方になってハンナが邸宅から出てきた。昼間の同様に比べて幾らか持ち直した彼女は、親しい人の目を避けるために外出していた。自室に長い間留まっていれば、不意を突いて具合が悪いのかと家族が訪問してくる恐れがあり、酒を今しがた胃に落ち着けたところで、愛と信頼に結ばれたーーーそれはまさに「蜘蛛の糸のような」と呼ぶのが相応しい代物だったーーー、家族と顔を合わせれば彼女は耐え難い後ろめたさに苛まれるに違いない。

門を出たハンナはふと、誰かの足音が近づいてくるのを感じた。彼女は人が近寄ってくる気配に人の何倍も敏感だった。にわかに身震いを呼ぶような不安を感じ、ハンナが足早に道を歩き出すとその気配は迫ってくる。ハンナの胸中は再び混乱と恐怖の中に突き落とされた。彼女は本能的に自分が追跡者から逃れられないことを悟った。

半ば観念し、半ば震え上がった女学生に、追跡者は穏やかに品良く話しかけた。

「こんにちは、初めまして。驚かせたしまったようで申し訳ありません」

その人物とはフィーネ・ユニカだった。フィーネが身なりの良いコートに身を包んで、大人しそうにハンナの背後に立っていた。その後ろには、信用ならない人柄と信奉すべき知能を併せた美男の紅羅々がいた。

フィーネは控えめな様子でハンナの側へ足を踏み出し、話を続けた。

「僕はヴァーゴ・ユニカの夫です。あなたを驚かせるつもりも、脅すつもりも、皆目ないとお約束しますがーーーそれでも、失礼を承知でこんな話しかけ方をするほど事情が緊迫しているんです。ーーーとうか頼みを聞いてください、このお家のご主人に合わせたくださいませんか」

ハンナは一瞬にして青ざめ、後退りした。

「お父様にーーー何のつもりで会いに来たの。,,,,..いいえ、申し訳ありませんけれど、お約束を取って改めていらしてくださった方がーーー」酒の効き目がまだ少しで残っていたのか、彼女もいくらか肝が据わっているようだった。「せっかくおいでくださったのに冷たくしたいわけじゃないですけれど」

「今すぐ、取り急ぎお会いしたいんです」フィーネは丁寧だが言い分を譲る気はないとばかりの語気で尚も食い下がった。「合わなければならないんです」

ハンナは今度こそ怯んで目を皿のように開いた。苦心して作り上げた張りぼてのような父の実績が脳裏をよぎり、その父と話すつもりだというこの夫を名乗る男を恐れた。言葉が喉に詰まってしまったように思った。ーーーこの男と、一人で戦わねばならないのだ。

「もう一度お伺いしますけれど、何の御用でおいでくださったの?」

済ました口ぶりだが心臓が震え出していた。ヴァーゴ・ユニカの夫が、世間話や花の話をしに来たと誰が予想するだろうか!

フィーネは毅然と告げた。

「妻が逮捕された話で、詳しく事情をお聞きしたいことがあるんです。新聞を読んで、この家の方なら詳しいことをご存知だろうと思って来ました。夫として、妻がしていたことと処分について知る権利がありますし、これから僕は何をすべきか考えなければなりませんから。ーーーお会い出来ませんか」

丁寧で柔和そのものだが、同時に有無を言わせない迫力のある言葉を述べるこの男を前に、ハンナは自分が巨大な口に呑まれていくように錯覚した。詭弁を挟む余地もない正論、誠実な道理、それがフィーネの言葉そのものだった。彼女はこの男の発した言葉は正しいと強く思った。そしてそれ故に恐れ、焦燥した、つまり自分たちは何につけても名誉と名声の上に二本の足で立ってやっているが、その土台には正しさなどないからである。そしてその継ぎ接ぎの土台を、この男は真理を持って崩そうとしているのである。私利と私欲ほど正論によって破壊されやすいものは他にない。ハンナは、恐ろしい面目のために、家族と名誉を背負ってたった一人で真実の口と戦わなければならなかった。彼女は道理と対決していた。

ハンナは努めて他人行儀を繕い、冷ややかに言った。

「あの人を釈放してほしいんですか?」

「必ずそうするつもりではないんです。話を聞いて、もし今度のことに道理に反した事実があるなら、その時に僕は妻のために相応の対応をします」

肝の潰れる思いだった。あの女囚人が逮捕されたのは、父と権力者たちが、ヴァーゴとの交友が世間にされるのを防ぐためである。道理のためではない。見栄のためである。正論の棍棒で叩けば瞬きする間に吹き飛んでしまう、軟弱な理由である。だがその見栄を、彼らとハンナはよすがにして生きているのである。

「道理に背いている?そんなことを言ったわね?」

「言いました」

フィーネはヴァーゴへの愛と一種の忠義のため、一歩として引かなかった。ハンナは苦々しい怒りと恥が込み上がってくるのを感じた、彼女の声色は尖り出した。

「よくもまあ、そんな失礼なことを言ってくれたものだわ。貴方は私の父が間違ったことをしたと言いたいの?」

「そうとは決まっていません」

「いいえ、いいえ、貴方はそう決めているわ。目がそう言っているの」

ハンナは再び、存在もしない名誉のために偽りを重ねる、戦いを始めた。ーーー情報屋の協力者たる紅羅々は後ろに飄々と控えていたが、彼だけは咄嗟に、彼女がこれから真相も真実も語らないことを悟った。彼はハンナから聞く義理もない話を聞くことがわかった。ーーー苦々しい退屈と焦れ立った苛立ちが瞬時に身体中を駆け巡ったーーー。

「ヴァーゴ・ユニカさんが、貴方の奥様が逮捕されて

牢屋にいるのはおかしいとそう言いたいのね!だけど、私言うわ、そんなことはないわ。神様だってそうご存知のはずよ!特区の役人一同と私の父は、決して間違いなどしていないわ、市民の皆さんをお守りするために必要なことをしただけだわ。誇りに思っていますとも!だけど、貴方はそれを覆そうと言うのね、そのためにここまで勇んでやってきたのでしょうね。厚かましい!させないわ。貴方は真実を覆さないし、ヴァーゴ・ユニカさんは正当な理由で逮捕されたの。私達のしたことは正しい、貴方は間違っているわ」

見事、天晴、ハンナは見栄を正当化してみせた。彼女は再び、自分と、自分の周りとが正しく徳の高い人々の集まりであることに偽った。足場を叩き壊そうとする真理を撃退し、完全無欠の役どころを死守したのである。彼女の胸の中には、面目を保ち得た安堵、清々しい達成感と、名誉をこうしてこれからも守り続けねばならない憂鬱と、主人の言うことを聞かないピーターパンの影のように飛び回る偽りの自分の姿がますます成長してしまった恐怖とーーー勝利と敗北の感覚か同時に湧き上がっていた。

フィーネは悠然として理不尽な圧力の前に頭を上げて立っていた。そのことが、気位のある様が、夫婦同じく金持ちと権力者の街の住人のせせこましい自尊心を燻らせてしまうのだった。

「貴方が許せないわ」ハンナが続けた。「許せない。父と委員会を侮辱したんだもの」

「侮辱?」

「侮辱ですとも!貴方がしたのは私達への侮辱行為よ。我々の名誉を間違ったものだと言ったしーーーそういう虚言を吐いたわ。そうよ、そうなの、虚言なのよ。貴方は自分で拵えた虚言で、ほらで、私達のことを侮辱したわ!」

ハンナは逆上していた。喚いていた。彼女はフィーネを殴るつもりがことく理由を並べ立て、天敵を追い払おうとした。

「我慢ならないわ!すぐに出て行きなさい、これ以上話すと鼻持ちならないのよ。それから、もしーーー私達が間違っていると、そんなことを吹聴してごらんなさい。そんなことをしてみようものなら、貴方には天罰が下るわ!きっと下るわ!」

虚栄と、偽証とが次々に勢いよく口をついて出ていった。寒くもない日に足が玩具のように揺れ、震え、ハンナの姿はまるで満身創痍だった。言葉は熱い怒りに燃え上がり、ハンナは凍えた者のように青白い顔をしていた。それでも、彼女は、思いつく限りの武器は全て、可能なだけ尖らせた刃の刃先をおしなべて、肩を竦めて去っていこうとするフィーネに向けていたのである。

フィーネと紅羅々はハンナの前を歩き去った。両者に疲労が感じられ、一方は加えて困惑を、一方は加えて思索を感じさせた。

フィーネにしては目と鼻の先に妻を救い出せたかもしれない手がかりがあるところを、自分から身を翻していくのだ。惨めな気分はいかほどか察すに余りあるものだった。だが、彼は惨めになどなっている間はなかった。

今この時にも妻は自分の足の遥か下にいるのである、牢屋で待っている恋人がいるのである。ーーー彼ら夫婦は、こうして、決して顔を合わせることもなくすれ違うより他の関わり方はないのである。





二階堂紅羅々はしばらくフィーネの後をついて歩いていた。彼の目には一切の愛想がなかった。彼が協力を申し出て、フィーネと共に事の真相を探った試みの結果はほとんど徒労に終わったのである。

結局のところ、この数日で紅羅々が手にしたのはハンナ一家が賞賛された新聞記事と、それを読んで抱いた一家への疑いが恐らく正しいであろうという推定だけであった。彼女の一家がこの事件で何か糸を引いているに違いない、というのは推理であれど、街頭にたむろする野次馬にさえ出来る大言に過ぎない。値打ちを持つのは疑念に過ぎないその話題が噂ではなく真実だと証明せしめる情報である。

彼は始め、フィーネがそれを掴むために役立つだろうと見込んでいた。夫婦愛には疑いの余地がない故に、この夫も、妻の無実を証明するために狡猾に動くだろうと踏んでいたし、それが自分の目的を遂げる手助けになることを期待していた。

だが、フィーネはその巧妙な仕草によってハンナから真実を洗い出すということに成功しなかったばかりか彼女がぼろを吐き出す前に追い出されたのである。ハンナと一家の身の怪しさ、身分と心持の薄弱な様子は紅羅々が見ても明白であったが、それを揺さぶって刺激し、手がかりをうっかり吐き出すことを望めど今日それは皆無に近しくなったことは確かだった。たとえ抜け目のないこの男が神経を研ぎ澄ませてその一挙手一投足を監視しても、ハンナたちから真相を得る機会を見出せることはないに違いなかった。

紅羅々は今日に起きたこととその当事者たる男に、落胆の代わりに興醒めを覚えた。これにより、彼がフィーネの協力者たる義理は即座に切れたのである。

「もうちょっと上手くやってくれると思ってたんだけどなぁ」

紅羅々は冷然と言った。彼がフィーネと手を結ぶ理由は既になく、そうするつもりもまるでなかった。目的こそ一致しているといえ、手段として別のものを探り始めていた。冷えていたのである。妻探しを手伝う気は、善行への欲望は、最初から砂塵ほどもない男である。欲望において話せば、先の出来事を思い出せば明白な如く、紅羅々のそれは別の方向を向いているのだーーーすなわちさる人への恋、情欲、それに由来する策謀である。

「あの人の無実を証明したいアンタとその証拠を探す俺、結構上手くやれるんじゃないかってのは期待はずれだったなぁ。アンタは思った以上に使えなかったよ」

横柄な言葉に苛立ちと後悔が汚く滲んでいた。紅羅々が歩くのがだんだん遅くなった。その横を夕方の風が倍も速く通り過ぎ、フィーネとの距離が離れていく。

情報屋の不純な協力者たる男は「幸運を祈るよ、旦那」と最後に言い残して立ち止まった。道の奥、遠くへと行くフィーネを追わず、彼は踵を返した。実になる人間か、新たな手がかりか、手段か、一刻も早く事態を好況に持ち込ませるべく、さっさと歩き去って行った。





我々は紅羅々の首尾の良さに、その抜かりなさに驚嘆すべきであろう。あの細身の美男子はいかにも蜘蛛の巣の中を踊って逃げるように首尾良く危険から身を遠ざけたのだ。

その危険とはフィーネ・ユニカである。

彼は新たに思想と表現の点で罪を犯し、役所が彼を捕縛せんと迫っていた。先日の委員会への誠実なる反論は特区の大物諸君の不況と焦燥と怒りを買った。その考え、彼の発言が市民の間に広まることは彼らの恐れるところだった、なぜなら理論を立ててヴァーゴに対する自分たちの態度と行いの不貞を説かれれば大衆は必ず自分たちの首と職を刈り取りに来るからである。彼らとハンナの願いは安寧ただ一つで一致していた。フィーネの発言は不安感情の扇動となされ、彼は民衆から遠ざけるべく捜索されていた。

彼の自宅があったD地区は手厳しい疑いの目をかけられた。良からぬことが世に起これば、金持ちよりも先に貧しい者、権力者より先に力のない者、放蕩者より先に困窮者が手酷く待遇される。彼らに対する残虐行為は黙殺され、他のすべての集団が彼らに対してのみ団結して攻撃の意思を持てるためである。割りを食うのは、所詮、抵抗できない弱者である。

特区の民衆に対する態度は、疑いというよりは警戒であった。より真理を突くならば恐れであった。彼らはD地区の住民に、フィーネの居場所を知らないか執拗に尋ね、拒否の答えが返ってこようとも構わず捕縛した。誰にも彼にもフィーネについて嘘を話している疑い、及び、フィーネと似た考えーーー特区への逆心、特区を動揺させかねない知恵を持っている疑いをかけた。そのために貧しく無知な彼らを確保し、監視下に置くのだった。

D地区からは日一日と人が減っていった。夜になれば様子はまるで滅んだ街だった。静まり、人間の気配がなく、カラスが何羽か交代で糞を落としていく。そのカラスでさえ、人の捨てた餌を貪りに来ることができないので一羽、二羽と姿を消した。

「楽園」の看板には、食料を求めるあまりか本物と見間違えたカラスがつついた痕があった。いつぞやこの居酒屋に集っていた客、浮浪者と乞食と移民たちの一団もまた不幸な道を辿っていった。

数夜前の出来事である。このような外れ者の集うところでは必ず何かの安全確保手段、からくりや抜け穴のことであるが、そういったものが用意されている。疎まれて生きるということがそれほどまでに彼らを強かにするのである。一団のある者は元は移民であったし、第一に皆境遇はそれに類するものであったから移動することに手間取りはしなかった。

残忍な憲兵の餌食となったのは取り残された若い男たちと、その勇敢さと一種の母性的感情から自ら危機の中に留まった女たちであった。ーーー先述したジャックとフロリカがこの集団に顔を並べていたということを、せめて彼らの名誉だけでもこの世に残していくという思いで記しておこう。憲兵がなだれ込んだ時には、一団の子供と大方の女は廃下水道管の中へ姿を消していた。だが、残った者は皆ことごとく捕縛され、天敵たる憲兵の手に身を渡された。捕えられた貧民街の住人の処遇は、受難に続く処刑階段を凄まじい速度で昇る如くだった。

さる二人の同類者の名を省いたが、彼らは正確には捕縛されていないため前段に名を連ねて書くことができない。

第一に、不幸な一味の長であった、人の何倍も狡猾で凶暴であった男は奇妙なことに居酒屋にて彼を捕縛した兵士から拘束を解いた。一体何の手段を用いたかは仲間さえ存ぜないところだったが、彼が夜闇に逃げ出すとき、彼を捕縛した兵士は気絶していた。そしてその男は聞き取れない言葉でその場に居合わせた一団の者と呆気に取られた兵士たちに呪詛を吐き捨てると、黒色が果てしなく続く夜の街へと消え失せてしまった。その怪奇な、荒々しく、掴めない挙動が彼らの見たクロイツの最後の姿だった。それを最後に彼は逃げた。

憲兵から逃走した先がどこであるか、或いは不安な同志と残忍な憲兵とから完全に身を脱して、遥か遠くで生き延びたかーーー彼のその後を正確に語れる者はなかった。食えないあのジプシー男は、或いはこの街を抜け出したのかもしれなかった。しかし捕縛された彼の仲間は後に至るまで一人としてそうと口にしなかった。

逃げ出した二人のうちもう一人は、大方の予想通りクレメルである。あの身軽なやくざ者は憲兵からなお首尾良く逃走することに成功したのだった。あの乞食娘は憲兵が手を伸ばすとさせてたまるかとばかり脱兎の如く逃げ出し、まるで農夫が雌鶏を追うような様子で憲兵に散々追い回させて手こずらせた挙句に、呪い師の端くれのようなものであった仲間の遺物に近づき、弾幕を巻き起こし、文字通りその場に居合わせた皆を煙に巻いたのだった。あの奇抜な笛吹きの服の骸、どうやら縫い付けていたらしい鳥の羽が浮き上がって取り残された。

残忍な追っ手から逃げ出し未だ行方が知れずの者の例を除くと、捕虜の見る目は先述の如く悲惨であった。政府は彼らを捕えて閉じ込めた。政府に反感を抱いていることの明白な彼らを世の中に離せば、彼ら自身が政府の恐れるフィーネと成り得るためである。権力者たちがむしろ貧民を警戒し、恐れる理由はこういうところであった。そして困窮する弱者に対して市民は冷ややかであった、特区が偽善を働いているとすれば市民は非道を働いていた。その頃にカジノのウェイターであるジギーなどは、ただ自分に不安が降りかからなかったことだけを思いやりつつ、未だ趣味の読書を続ける図であった。

街は数日にして寂れた廃墟と化した。





自らの不貞を世から隠し、自らの不安を同志から隠さんとする大物諸君がハンナの私宅の客間に再び集っていた。彼らの顔には皆、目覚めんとする猛獣に蓋をしようとする戦々恐々とした緊張が表れていた。

何と戦うか?道理である。何のために戦うか?面目である。

「事の白黒をつけねばなりません」

ハンナの父は挨拶すらせぬ急ぎ様で言った。党首、委員長、その他客も咎めるつもりは毛頭ない様子であった。彼らは恐れによって結託していた。

「フィーネ・ユニカ、容疑者の夫の件をご存知ですね。嘆かわしいですが恐れていたことが起ころうとしています、彼によって我々の名誉が汚されるのみならず、彼のことを噂に聞いた市民は容疑者の有罪無罪について混乱しかねません。鎮圧するためにはもはや推測や推定では事が足りません。こうだろう、ではなく、結論を導き出さねばならないのです。すなわち、彼女が有罪か無罪か、正式な結論を下す必要があるのです。我々は一刻も早くヴァーゴ・ユニカを裁判にかけねばなりません」

客間に異様な拍手が満ちた。同意の証であった。権力者が腹の中に何を秘めてそう決意したのか、それを今一度記すことは最早不要である。判事が立ち上がって話す。真相とは、この場において話せる真実とは、すなわちこれである。

「ヴァーゴ・ユニカの裁判を行います。明日の正午から」

青ざめたハンナが微笑して拍手をしていた。

やっとです。通称(自称)地獄の第三章...自分の書いた粗書きを見て「これをどうやって文にするんじゃい、ドアホ」と一番思ったのがこの三章でした。ですが長い産みの苦しみの期間を取った分、自分でも書いて納得できる文章が生まれたのではないかと思っています。

個人的な話になってしまうのですが、この小説を執筆中、うごくメモ帳3DSの稼働中、初期の企画で一緒に活動していた企画参加者の皆様と、数年越し、うごメモ3DSがサービスを終了して以来の奇跡的な再会を果たす事ができ、そのこともとても励みになりました。私の小説を見つけて喜んでくださった参加者の皆様に顔向けするためにも、あと少し気張って愛しきクズの皆様をお借りしていこうと思います。

さて、小説は次章で最終章になります。ヴァーゴさんに下る判決は如何なものか、フィーネさんは妻と再会できるのか、ハンナちゃんやヴェンデッタさんの運命はどう転がるのか、紅羅々さんとニキータさんの目的は成就するのか、逃げ延びた乞食二人がその後どうなったか......謎をたくさん残したところで、私は上手くトンズラさせていただこうと思います!!

それではまた次章にてよろしくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ