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AREA"D"   作者: 湯豆腐
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第二章

ルンフォンは語った。

「権力者たちが演説に熱を注ぐ傍らで、市民は息も絶え絶えに暮らしている。この街じゃ政治家、労働者、皆揃って堕落している。流行っているのはもっぱら娼館か......カジノで遊び呆けることだ」





例によってその日も大勢の博打打ちや遊び人がカジノに詰め掛けていた。皆が黙っていてさえも照明の眩しさと猥雑なポスターや張り紙のけばけばしい彩で騒々しい店内は、ルーレットにスロットの回る音、尋常でない客たちの奇声が飛び交って、入店しただけで恐怖の悲鳴を上げたくなるような様体になっていた。

アインスはそれでも忍耐強く、自身の業務を黙々とこなしていた。彼は若いディーラーで、語感の重々しい名前に相応しく天使のようなクリーム色の髪をしていた。背が極めて低いせいで「ガキっぽく」はあるが、そんなことで悩むほど自尊心のない青年ではなかった。彼は至って飄々とした、自我の強い青年だった。

カジノではジギーという青年も同じく働いていた。彼はアインスと違いーーーいや、本当のところはアインスの出自や過去など誰も知る者はないがーーー上流階級生まれの子供だった。働いてはいるが、家が没落したのではない。家主である父親に勧められ、社会で経験を積むために屋敷から町へ、坊やから労働者へと降ってきたのだ。彼の父親は人生における一番の財産は、何を体験するか、その経験による学びであり、そうして得たものがその人の人生を左右することとなりのだと判っていたのだろう。また、その慧眼あってこそ、彼の家の繁栄はなされたに違いない。

人々は出稼ぎに来たお坊ちゃんを珍しがりはしたが嫌悪はせず、その意気に目を丸くし胸を熱くするばかりだった。ジギーの支持者になる者は決して少なくなかった。繊細で、若く、不器用な新人ウェイターの働きぶりは憚られるものがあり、役立たずとさえ言われたが、人々はそれでもこの健気なお坊ちゃんに期待を寄せていた。何せこの性格を改善するのも社会に出た目的の一つなのだ。

実を言うとジギーの行動に呆れ、鼻で笑う道楽者も大勢だがーーーそのような煩悶に惑わされず、自身の道自信持って選ぶようになってこそ、それが成長と言えるものだ。





カジノには昼過ぎまで主に中年の落伍者が喚き倒す喧騒が飛び交っていた。しかし昼を過ぎた頃、店内は、若い酔っ払いや不良の浮かれた声で満ちていた。落伍者どもはその隅で、始めこそ文句や喧声を飛ばしていたが、時間に従って洒落た娘や若者が次々流れ込んでくるうちに元気をなくし、肩身狭そうにしていた。

「まったくなんでこうも余所者がいるんだね」

落伍者仲間の一人はぶつくさと呟いた。

また別のところでは、女の子たちがドレスコードを気にして小声で高く騒いでいた。

「ねえあたし大丈夫かしら。変な子に見えないかしら」

「大丈夫。ああ、あたし、あんたより綺麗だといいけど!」

「なんてこと言うのよ!」

そのあまりの騒がしさと煩雑に、ジギーは思わず叫びだしたくなった(もとより不安症なのだ)。その時、店内は一瞬でいきなり真っ暗闇になった。「始まるわ!」誰かが叫んだ。

丸いライトが一息に押しかけた人の列の後ろから前へと走り、壁に飛び移ったとき、その中にいたのはーーーいや、そこには誰もいなかった。

その時、

「ここだよ!」

悪戯じみた明るい声。人々が一斉にその方向へ振り向くと、そのライトの中にいたのは、気取った衣装にシルクハットを被り、すらりとした足を行儀悪く組んで、舌を出し手を振る美しい若者だった。

ハンサムなマジシャンの偉大な登場に、会場は惚れ惚れと溜息し、一瞬後に大歓声が沸き起こった。マジシャンは手にしたステッキの一振りで暗闇を吸い込んでしまうと、明るくなった店内を走り抜け、観客の前に立った。

「レディース・アンド・ジェントルメン!俺の親愛なる友人のみんな、ヴェンデッタ・ブローニスの世紀のマジックショーへようこそ!さあ、最高の時間を楽しんでいってくれ!!」

観客はもう一度嵐のように沸いた。

ヴェンデッタは息もつかせずにカードを出すと、シルクハットにしまい、鳩やら旗に変えてしまった。ステッキを一振りすると、それらは一斉に火柱を上げて燃え盛った。観客は燃え上がる鳩や旗に驚いて悲鳴を上げた。

「鳩はちょっと可哀想だけど、仕方ない。皆さんの今日のお土産になってもらいましょう。おいで」

燃え上がる鳩をヴェンデッタが拾い上げると、観客はマジシャンの手が革の手袋の下で爛れていくのを予想してさらに悲鳴を上げた。しかし、

「まるごとチキンだよ!」

そう楽しげに言うと、手袋に乗っていたのは炎ではやくテカテカと油ぎってこんがり茶色いチキンだった。観客からは、今度は見惚れたような溜息が溢れた。

ヴェンデッタがひとつ魔術を行うたび、観衆からは拍手喝采が起きた。詰め掛けた人々はその優雅な身のこなしに憧れ、その見事な早業に息を飲んで感動し、その美しい姿に骨を抜かれては彼に魅了されていた。ヴェンデッタは時々ご愛嬌にお茶目な仕草をしたりしたが、その技術を見れば彼が並の者でないことなど明らかだった。

ステッキの一振りで彼の金髪がぴかぴかし出すと、観衆は一斉に興奮した。そのまま舞台を降りたヴェンデッタが、「やあ、綺麗なセニョーラ」と笑い、女の子に白い薔薇を一輪差し出す。娘が赤面しながら薔薇に手を伸ばした、その手が触れた瞬間、白い薔薇は赤い薔薇の花束になった!観衆は喝采した。

その人混みからやっとこさ這い出したジギーは、もう飲み物の注文がないのを確認して「やれやれ、ようやく休める!まったくこんなに混んでちゃてんてこ舞いだ」とごちた。アインスはーーー

アインスはそこにいなかった。





ショーの終了から間もなく、姿を舞台裏に隠したその時に、ヴェンデッタはその姿を目にした。アインスが立っているのを見た瞬間、彼はまるで背骨が金属に変わってしまったように伸び上がった。

「二人で話したいことがあるんだよ」

それは提案でも希望でもなかった。強制連行だった。ヴェンデッタはベストも一張羅の靴も身につけたまま、笑顔だけをマジシャンの装いから外してアインスの後をついて歩き、暗い従業員控え室の一室へ案内されていった。

不穏な男二人と暗い部屋、裏社会の話にこれほどうってつけの舞台があるだろうか。

二人の正体は犯罪者であり、極悪人であり、胸の痛くなるような若者だった。彼らの仕事は麻薬密売だった。街中にばらまかれた麻薬の出元を手繰れば、ほとんどの場合彼らの「兄弟たち」、すなわちノクチルカに辿り着いた。

この者たちのせいで、子供は親をぼろぼろの穴まるけにされ、親は子をけだものにされ、恋人たちは化け物にされるのだった。それさえなければ、彼らを知りさえしなければ、父を、母を、子を、家を、将来を、夢を、歯を、名誉を、財産を、人生を無くさず済んだ者がいくらいることか!ノクチルカは、とりわけ二人はとてつもなく恐ろしい人間だった。二人は強く、賢く、残忍で、犯罪者としての最高の要素と人間としての最低の要素を併せ持っていた。最低の要素とは彼らの境遇、すなわち生活環境と生い立ちもある。彼ら二人は人間として最低の生まれと育ちを有していた。親がいないあるいはいないよりひどいという子供時代、五歳にして愛を知らず七歳にして救済を諦めるという厭世、そうして道徳を逸脱したのがこの犯罪者どもだった。なぜならそうせねば生きられないからである。

人を逸脱した後、彼らは路地の脇やゴミ箱の隣で生活するようになることが多いが、人間をやめてまで手にした生なのだから大抵のことは痛手ではない。そうして同じような境遇の人と交流するようになり、大勢して憎しみに生き、暴力を快感とするように変わっていくのだ。最後には彼らは「人間的だが暴力的」という社会における得体の知れない存在になるのだが、その得体を知る仲間内とだけ強く結束し、恐ろしい快楽を貪って日夜を明かすようになるのだった。

その子供達の中で発達した知能を大人への暴力に注いだ結果、「麻薬」という世にも恐ろしい破壊に辿り着いたのがアインスだった。

「ヘマした奴がいる。商売してるところを政府の偉い奴に見られたんだと」

「俺のことを言ってるんじゃないですよね」

「あれ?心当たりでもあるのか」

「まさか、ないです!疑ってるなら晴らしておきたいんですよ」

「へへ、そうかい」

アインスの乾いた笑い声が、ヴェンデッタの耳の中で何度も反響した。脳が揺さぶられるような心地悪さにヴェンデッタは思わず目を固く閉じた。

人間的であるとは言えアインスが現在犯罪者であること、恐ろしい奴であることに変わりはない。復讐心で結束した子供は、どの子も等しく刃を出せる力がある。それを組み伏せて上に立っているのだからアインスという人間は恐ろしい奴なのだ。ヴェンデッタは芸にも才能にも長けた腕の確かな、いたって冷徹な美男子だったが、アインスの前にはひどく恐れをなしていた。

「おいこっち見ろよ」

「すみません」

「それでだな...」

アインスは顔も向けずに言った。

「さっきのは冗談だよ。アンタのことは疑ってないさ。だからその腕を見込んで、アンタに後始末を頼む」

「後始末?ああ、やれますよ」

「多分ちょっと違うな。尻拭いって言えばいいのか?俺たちはこの街でどうにか商売を続けたい。だからさ、そいつから疑いをそらして、ノクチルカの尻尾が掴まれるのを防いでほしいんだ。方法は問わないぜ。そいつが疑われてるのを止められるならな。さあ、やるか?」

普段であれば失敗した時の末路を想像して喉が締まるはずだった。しかし、この時ヴェンデッタは即座に答えた。

「やれます」

アインスは愉快そうに目を細めた。

「言うじゃない」

「良い方法を思いつきました。これなら政府も歯が立ちません」

「いいね。じゃあ、頼むよ」

アインスに肩を叩かれると、ヴェンデッタは電撃が走ったようにびくついた。

その時、鈍い音が聞こえて従業員控え室の扉が開いた。立っていたのは真っ青な顔のポン引きだった。

アインスは怠そうに息を吐いた、刹那、光より速くポン引きの懐に飛び込んで体当たりし倒していた。床にしたたかに体を打ちつけたポン引きの胸元に縦の裂傷が走って鮮やかな赤い血の噴水が上がっていた。アインスはもう一度怠そうに息を吐いた。

「じゃあな。期待してるぜ」

鼻歌を歌いながら上機嫌に部屋を出て行くアインスを、ヴェンデッタは痺れる気持ちで見ていた。逆らえない強さが行動の全てから滲んでいるボスを見ているのはおっかない気分だった。だが、不思議と今、彼の気持ちは久々に楽しく弾んでいた。誰かにまた皮肉な悪意をぶっかけられるのが面白かった。

欲望に抗えない弱さというのはヴェンデッタが最も理解していることのひとつだった。貧しい家に生まれ、親はいないよりひどい状況で現世への皮肉と絶望を膨らませてきたヴェンデッタの人生最大の学びは、人は弱みにつけこまれた時に最も動きやすい生き物になるということだった。秘密とか、情欲とか、支配欲とか、この街にはそういう後ろ暗いものを抱えた連中ばかりで、しかもその多くは自分の闇を受け止めきれていないのだった。真に弱いとはそういうこと、とヴェンデッタは知っていた。その弱さを持つ者が結局一番弱いのであり、堕落しやすく、虚栄しやすく、都合良く利用できるカモなのだ。それを知っていることと、弱みを受け止められないものを利用するか弱みを暴いてやったときの優越感と言ったらない。お前は弱かったんだよ、ちっぽけなんだよと嘲笑う気分なのだ。

彼の周りにはそんな矮小で尊大な人間がありとあらゆる場所にいた。疑いを上手く誤魔化すのに何を利用するにも選り取りみどりだ、面白くならないはずはない。

「見てろ、打ちのめしてやる」

誰にともなくヴェンデッタは呟いた。それは新たなカモがヴェンデッタの照準に入った瞬間だった。





「何もない休日っていうのは最高だな。今日が終わらなければ良いのに」

ハンナは書斎のソファに腰掛けながら、少し項垂れて口を利かずに父親の愚痴に付き合っていた。

この街はその全てがこれまで描いてきたように、粗末で、猥雑で、俗なわけではない。身分ある職に就いている者や財産持ちの者は立派な家々の並ぶ豪壮な街に私邸を構え、生活に困らず、好きなものに囲まれた贅沢な暮らしを送っていた。その街はA地区と呼ばれていた。ハンナの一家はそこに自宅を構えているのだった。

さて、ここでちょうどAからDまでの全ての地区が読者の前に登場したことになる。四つの地区に共通性と協調性はなかった。住人が口にするものも、買うものも、足運びまでが地区ごとに異なり、そこに込められる意味も全く違っていた。住民性もまた違ったーーーが、悩みの核は恐ろしく似通っていた。

それはすなわち彼ら全員が人間であるためである。

全ての者は享楽と罪悪感を抱え、後ろめたさと言い訳を携え、希望と憧れと厭世に混乱し、暗い過去を抱いていた。全ての者にあるのは、罪悪感と、言い訳と、厭世と過去である。この街の住人はその中から踏み出し、自らが変わろうとする者とそれ以外で人生の明暗が面白いほど二分されていた。前向きに生き抜く覚悟を決めた者にはどのような困難がかかろうと、また、どのような暗闇を抱えていようと、幸福を掴む力が与えられた。だが、意思を疎通させることから逃げ周りの大勢に壁を隔てたり、過去の苦しみに自身を縛りつけてあるべき人生を自分から投げ打つ者、愚かな過ちを受け入れずに目をそらして幸せな夢を見ている者、そのような迷いから逃れない者は永遠に自分を暗い牢獄に繋ぎ止めるような人生をこの街で送るのだった。そして悲しいことにこの街ではそれは習慣化していた。差別、豪遊、汚職、暴力という形で習慣化していた。

だが、その呪われた習慣から変わろうと決意したところで何になろう!自分は変わろうと決心しても、周りを取り巻く堕落した退廃はいかにもしようがないではないか。

こうして人々は哀れにも自分の愚かさと決別する機会を永遠に失っており、勝利できないのに対峙するのは恐ろしく、目をそらすより他はないのだった。そしていつまでも地の底の牢獄に自分を繋いで生きていくのだ。

A地区に住む高位者とて同じだった。

話をハンナ一家に戻そう。彼女とその父を取り囲む大きな窓や本の数々、高すぎる棚に備えられた階段、沸き立つ紅茶の水蒸気は、まさに下町の市民が日毎口にする夢の城そのものだった。にも関わらず、室内に渦巻く空気は、市民と同じ振り払いたくなるような険しさを帯びていた。ハンナの父親はソファに沈み込んだまま息つく間もなく言葉を繋いでいた。

「人の前にいるなど、正直辛いんだよ。いつまでも人形のようにいなければならず、理想の人間であり続けなければならないんだから。それが金持ちの務めだ。できなければ失望され、攻撃され、墜落する」

彼は紅茶をすすった。

「...成金には馴染み難い文化ばかりだ。だが、ここで信用を失えば私の将来はおしまいだ。閉ざされる。何もかも終わりだ。郷に入ったならば郷に従わねばなるまい。上手くやらないと積み上げた財産も名誉も水の泡だからな。取り返しのつかないことになる。...息が詰まるようだ、苦しいったらありゃしない...」

彼は一度息をついた。

「...明日はまた麻薬対策委員会の連中と会議だ。まあ何しろ大きい取り組みだ。上手く立ち回れば大手柄、名声が手に入る。付け入る隙があると良いんだが...それにまた、どうせ後から付き合いで連れ出されるならば...どうせならシャ・ノワールに行きたい」

「ヴァーゴ・ユニカ夫人のお店ですね。行ったことがあるの?」

ハンナは唐突に声を上げた。だが、父親が気まずさを誇示するように眉をひそめているのを見て、

「...美しいと評判の女の人でしょう。会ったことがあるなら羨ましいわ」

と言い直し、再び項垂れた。

ハンナの父はせかせかと言った。

「誰かに言うんじゃないぞ。そうさあの女は美しいさ、何度だって拝みに行きたい。が、どうも怪しい。もしあいつが何か問題を起こしたとき、付き合いがあったとなれば、私も不名誉な目に遭うんだ。あの女といると厄介ないざこざに巻き込まれそうな気がする。だから付き合いは表に出してはならない。さあ、言いふらさないと言え」

「わかりました」

ハンナは面を上げぬまま頷いた。

「良い子だ。これはお前のためでもあるんだ。我が家が痛手を負えば、お前だってこの街で立つ瀬がないぞ」

「わかっています」

「うん、良いんだ。では私は出かけるからね」

父親はハンナにキスすると、コートを取って出て行った。ドアの閉まる音が虚しく大きく響き渡り、書斎の空気をがらんどうにした。

ハンナの顔には、目玉さえ動かず、苦悩の色がより濃く滲んでいたーーー。





道端で浮浪者や売春婦の眠る貧民街の路地に、赤い灯りの灯った一軒の酒場があった。「楽園」と看板のかかっているその居酒屋の窓からは光が漏れ、音楽と笑い声が遠くまで聞こえていて、妖しさを醸し出していた。

中ではジプシーたちの音楽に乗って乞食や娼婦の男と女が踊ったり、酒を飲んだりして笑い騒いでいた。彼らの宴は底なく華やかだった。一団の男は豪放陽気で、女は見目美しく、若者は野生的で血気盛ん、楽士は水を得た魚のように自由だった。この無法者の一味は朝が来るまで賑やかな夜の宴を続けるのだった。

タンバリンとギターとバイオリンが奏でる騒がしい演奏の傍らで、男女が渦を巻くように踊っていた。キスをして唇を重ねたままで何回転もしている黒人の恋人たちの横では、娘たちがスカートを挑戦的にさばいて細い足首を見え隠れさせていた。クレメルは赤いベストを着て、スリが得意なジャックという盗人と足を踏み鳴らして踊っていた。踊りながら争っているように同時に突き放し、ジャックが逆立ち、クレメルが宙返りをすると火がついたような歓声が湧いた。それを皮切りに浮浪者たちはますます激しく踊り出した。高く軽々と足を上げながら熱に浮かされたように野生的に踊っている輪の傍ら、テーブルで赤ら顔の飲兵衛たちはワインを飲み干していた。浅黒い肌の長身で痩せっぽちなジプシーの女が大きな酒瓶を荒っぽく鷲掴みにし、仲間たちのタンガードを一時でも乾かせるものかとテーブルの間を歩き回ってはワインを注いでいた。彼女はフロリカという女占い師だった。フロリカは手早く周りの盃を満たすと、首尾よく仕事を終えて、艶かしい仕草を作り一味の長のクロイツがいるテーブルで歩いてきた。フロリカはワインを注ぎながら間髪入れず喋り出した。

「いい夜ね。娼婦なんて辞めて五年も経つけど、私、今夜は誰かお客が来たら相手してあげていいわ。そういう気分なのよね、それにまだまだ美人には変わらないもの」矢継ぎ早に喋ると、親しげに向かいの席に腰掛けた。「ーーーそれとも、あなた、私を抱かない?」

クロイツは何か言おうとした。

が、その時、不意にけたたましい警笛が鳴り、空気が一瞬で張り詰めた。

「見てくる」と告げたのが早いかクレメルの姿が消えた。棚を登り窓から顔を出したのが早いか、すぐに戻ってきて言った。

「警察だ。すぐに来る」

店内の乞食と浮浪者たちは一斉に動き出していかがわしいと疑いがかからないよう努めた。クロイツは即座に扉へ向かった。フロリカは咄嗟にテーブルの脇のフックに引っかかっている彼の外套とナポレオン帽をひったくって手渡した。

「お客」が酒場の扉を押し開けると、酒場の者たちの長が不遜な様で立っていた。軍服を着た二人の「お客」は一瞬面食らったが、尊大に言った。

「麻薬対策委員会の警察だ」

「すまないが、この店はお巡りさんお断りでね」

クロイツにすげなく言い下げられた刑事が怯むと、相棒がすかさず「冗談だ」と殊勝に言った。

「我々は政府の命令を受けているんだ。この店に麻薬や密売人が潜んでいないか調べなければならない。拒否したとしても関係ないぞ。中に入れろ」

「そういうことなら」

上司は突っかかるようにクロイツに近づいた。部下の方は、ちらりと店内に視線を回すとクレメルが手を挙げているのが見えて、そのテーブルへ押しやられた。

クレメルが自分のジョッキに酒瓶から何かを注ぎ出すと、部下の刑事は興味津々に見つめた。

「それは何だ?」

「これか?飲むなら銀貨一枚だぜ」

「金を取るのか?」

「当然だろ」

部下はそそくさと懐から銀貨を取り出した。クレメルは黙ってもう一杯注いだ。ジョッキを出しながら、彼女はぎろりと部下を見た。

「金を出す責任ってのは色んな意味があるんだぜ」

部下は唾を飲むと、ジョッキに口をつけて一息に中身を飲み込んだ。こぼれそうな勢いで飲み干しーーーきれずに顔を歪めると、

「まっっっず!?」

「だよなぁ。薬用酒だもん。更年期障害に効くんだと」

私のじゃないぜ、とクレメルは肩を竦めた。

その向こうではクロイツが苛立った声を上げていた。

「見ただろ、麻薬はうちにはないよ。ここはあんたらの場所じゃないぜ。とっとと出ていってくれ」

「いや、まだ酒蔵を見せてくれ」

「よそもこんな扱いか?」

皮肉っぽく鼻で笑う。

その時だった。離れたところから警笛がけたたましく鳴り、次いで足音が地響きとなって聞こえた。さらに空気が張り詰め、刑事たちは一目散に酒場を飛び出していった。クレメルは誰かが言葉をかける間もなく風のように窓から抜け出した。彼女はするりと屋根に上がり、棟から棟へと走って渡り、あの騒ぎを一目確かめようと追いかけた。曲がり角で三人の男が見えたとき、彼女は立ち止まって棟に伏せた。すると、その姿はすっかり闇に溶けた。クレメルは屋根の上から頭だけ突き出してじっと暗闇に耳を傾けた。

そこにいた三人の男は何やら議論していた。刑事だなとクレメルは勘づいた。暗い中に目を凝らすと、そのうちの一人が酒瓶を握っている。

間もなく酒場に来た二人の刑事が到着した。

「これは何ですか」

「麻薬密売人が落としていった酒瓶だ。どうやらこれに入れて麻薬を売り歩いていたらしい。この中身にも麻薬物質が含まれていた」

別の者があっと声を上げた。

「シャ・ノワールの酒瓶じゃないか!」

クレメルは眉を跳ね上げると、刑事たちの群れ集まりに目を凝らした。

「では、シャ・ノワールの従業員が麻薬密売に関わっていたということか?」

「もしかしたらあの店自体が密売人の集まりだったとも考えられる。店主は何らかの形で密売に関わっていた可能性が高いな」

「知らなかったということは?」

「それも否定できんが考えてもみろ、怪しい裏稼業の女主人が従業員の悪行を見透せずにのこのこ騙されるうぶな女とは思えん。いかがわしい仕事を部下に手伝わせて、美味しい思いでもしていた方がよほど的確な想像だろう。ああいう奴はな、だいたいそのくらいは狡猾な奴なんだ」

刑事たちは情けなくも黙ってしまった。

「とにかく、彼女には一度話を聞かなければなりません。明日早速警察に呼び出しましょう」

「うん、それが良いな」

五人の刑事たちは足を揃えて現場から帰っていく。雑踏がだんだん遠ざかっていった。クレメルはそっと顔を上げ、暗闇の中で屋根の上に立ち上がった。待っている仲間たちに見聞きした情報をある限り伝えなければいけない。

クレメルは獣のように屋根から飛び降りると、酒場に向かって闇の中を一目散に駆けていった。





その夜ヴァーゴは夢を見た。

見渡す限り真っ暗で、どちらに向かって進んでいるのかもわからない。進んでいるつもりが後ろに下がっているような心地もする。そこで足音が何重にもなって響き渡る中を逃げ回っている夢だった。

誰かもわからない大勢が一斉に自分へ襲いかかる。非常に恐ろしい夢だった。ヴァーゴは怖くて怖くて必死になって走り回り、逃れようとした。盲滅法、無我夢中で足を止めずに駆け回った。それでも足音からは一向に逃れられぬ。ヴァーゴは「来ないで!」と叫んだ。それでも足音は遠ざからぬ。いや、いくら走ろうが、足音はだんだんと近くに来ている。けだもの、化け物、あらゆるものより恐ろしく不吉で不幸なものが手を伸ばしているのを感じた。つーっと涙が流れた。

その時、涙が頬を伝わった感覚でヴァーゴははっと我に返った。感触の生々しさが夢から目覚めさせてくれたようであった。ヴァーゴは目を開くと、ゆっくりと安堵の息を吐いた。

夢だったのね。

その時、階下で扉が叩かれているのに気がついた。

ヴァーゴは現実に引き戻され、冷静な思考を取り戻して淑やかに階段を下りていった。しんと静まった夜の部屋に、階段の軋む微かな音と、執拗な扉の向こうからの呼び出しがこだましていた。

「はい、今行きますから、お待ちになって」

ヴァーゴは撥ねつけるようにぴしゃりと言いつけた。その乱暴な呼びつけを訝しみながらドアノブを押し下げ、ゆっくりと開く。

玄関先に立っていたのは何人かの男だった。仕事先で見るような立派な服を着ている。

「ヴァーゴ・ユニカだな」

先頭の大男がゆっくりと言った。

「そうよ」

「警察だ」

「何の御用」

「お前に聞かなければいけない話がある。すぐに出頭しろ」

ヴァーゴは不穏に眉をひそめた。

「待ってよ、本当にどういうことなの?私が何をしたというの?」

穏健でない声を上げるヴァーゴを、警察の男たちが取り囲んだ。ヴァーゴはじりじりと慄いた。その背後にもまた別の刑事が回っていた。まるで絶望的な壁に塞がれたような気持ちになり、ヴァーゴは不安になった。

数分後、C地区から一台の警察用車が静やかに走り出ていった。そしてヴァーゴはうちへ帰って来はしなかった。





「ヴェンデッタは」

ルーレットにへばりつきながら客がダミ声でジギーに言った。

「今日は来ませんよ」

「じゃあ...アインスを呼んでくれ」

「今日はお休みです」

客は苛々と目を細めた。「ちっ、何だよ、つまんねぇな...」そこへ彼の仲間らしいだらしない風貌の男達がどやどやと二、三人カジノへ入ってきて、彼を囲んで座ると、矢継ぎ早に話し出した。

「あのキャバレーの女主人に出頭命令が下りたぞ。偉いこったな」

「一体何をやらかしたんだ」

「噂じゃ麻薬が絡んでるらしいぜ。想像できなくはないよなぁ」

「謎の多い美人ってのはそんなもんかもな」

あぁ、と納得する声が上がった。反対派はいなかった。話は続いた。

「だけど昨晩いきなり警察に連れて行かれたらしいんだよ。いくらなんでも早すぎるじゃねえか。容疑がかかってから出頭まで、こんなにあっという間ってのはおかしいぞ」

「サツが動くには役所だかどっかの許可が必要だったよな」

訝しむ客たちの中央で最初の客が陰険に言った。

「じゃあ、役所がさっさと許可を出したんだ」

客たちは一斉に発言した最初の客を見た。

「そうしなきゃいけない理由はわからんが、役所の奴があの女を取り急ぎ出頭させたってことだ」

客たちは今度は腑に落ちたような恐ろしいひとつの結論を導き出して、あぁ、と息を吐いた。最初の客は低い声で言った。

「これは逮捕状も早々と出るかもしれんな」

客たちには談義はその後もひそやかにしばらく続けられた。

窓際の小さなテーブルには、映画俳優のような手足の長い容姿の外国人の青年が一人で座っていて、メロンソーダをいじりながら外の道を眺めていた。青年はカジノの雑然とした空気から切り離されたように涼しげだった。彼は不意に立ち上がると、代金に紙幣を二枚テーブルに置いて店を出て行ってしまった。

外の世界は混沌としていた。道の上にはみっともない惨めな人々が詰め込まれ、目をぎらつかせていた。恐々としながら声を潜めて、皆同じく昨晩のヴァーゴの話ばかりをしていた。迷い惑う人々が結託してどうにか真相をひねり出そうと哀れな努力を積んでいる。だが、誰一人真相を知らぬのに首尾よく情報が得られるはずはなかった。噂というのはそんなものである。

緩くなったズボンやヨレヨレのニットに身を包んだ街人の間を立派なスーツを着た三人の男女が歩いていく。すると人々は例外なく振り向き、彼ら三人をじろじろと眺めた。その目線は敵意というより、むしろ縋り付くような懇願であった。噂する人は皆彼らをすがりたがった。一人の女はとうとう走っていって彼らに追いつき、険しい声で言った。

「昼は情報屋はやってくれないのかい!」

三人はくるりと振り向いた。

「何かひとつくらい仕入れているでしょ、目ぼしい情報。私達あの事件のことを知りたいのよ。今日くらい昼から店を開いて、色々教えてくれてもいいじゃないの。知ってるんでしょーーーきゃあ!」

三人組の二人がすぐにピストルを出し、噂好きの女の頭に押しつけた。背の低い一人が厭な笑みを浮かべて合図していた。情報屋もまた裏稼業である。油断していて手玉に取れるようなものではないのだった。背の低い一人は言った。

「それ以上言いふらせば家族もろとも死んでもらいますよーーー」

女は怯えて涙を流しながら首を横に振った。背の低い奴は頷いた。

「よろしい。貴方だけで済みましたね」

背の低い奴は微笑んだ。

目を見開いた瞬間、女は彼の前から消えていた。二人の部下もいなかった。路地裏から争う声と騒がしい物音がしばらく聞こえた。そして、部下二人は女を連れずに出てきた。

「銃は使いませんでしたよ。人の多いところで人聞きの悪いことはできませんからね」

「スーツが黒くて良かった」

背の低い者は穏やかに微笑んだ。その時、映画俳優のような容姿のあの青年が道の上を歩いてきた。彼はスーツの三人連れを見つけるとすぐに駆け寄ってきた。

「やあ皆さん。お仕事お疲れ様です」

「これはこれは二階堂紅羅々さん。お散歩ですか」

青年、紅羅々は爽やかに笑い声を上げた。

「お勤めご苦労様、ニキータ君。いや、お勤めしたのはそっちのお二人か。ツバメさんにマルコス君」

スーツの部下二人は名を呼ばれて神経が逆立つのを感じた。不利益が降りかかりそうになれば反射的に殺意が沸き起こるのがこの裏ぶれた情報屋の習慣であった。特に紅一点のツバメはこの不注意ばかりの飄々とした言葉にたいそう神経を逆撫でされていた。紅一点という言葉に彼の名前の文字が入っているのも気に食わなかった。だが、彼らは敵同士でないどころか赤の他人や見ず知らずでもなかった。薄暗いこの男女四人は薄暗いなりに縁のある者たちだった。

紅羅々は肩をすくめて続けた。

「運良く情報が手に入ったので仕事熱心な情報屋さんにお伝えしようかと思ってね」

「有難いですね。でもここではちょっと」

「なら小声で話すさ」

今度はニキータが肩をすくめた。

紅羅々は三人の方に頭を寄せると、低い声で話し出した。

「ヴァーゴさんは昨晩警察に出頭して、今朝から留置所に入れられた。牢屋だ。取り調べから裁判が始まるまで、あの人、留置所に繋がれることになったんだ」

ニキータは眉を跳ね上げた。

「どこでそれを?」

「有り体に言えば盗み聞き。A地区に住んでりゃ少しは官僚から情報の恩恵を受けられるさ。だけど警察の偉い奴が言ってたんだから間違いない情報だぜ」

「詐欺で巻き上げた財産もたまには役立つんですね」

ニキータは懐から財布を出そうとした。紅羅々はそれを見て手を出し、財布を出すのを手早く留めた。

「お金はいらないよ。そんなの欲しくない、ーーー役に立てたならね」

その目はニキータの背後、黒髪のツバメを見ていた。美しく冷ややかなこの女に、紅羅々は恋をしていた。しかしツバメはまったく微笑みひとつしなかった。考えていることは理解できない。

紅羅々は慣れたことだとばかりに続けた。

「もし俺がもう一つ良いものを仕入れてきたら、飛び上がって喜ぶでしょうね!」

ニキータはそばかすだらけの顔でゆっくりと紅羅々を見上げた。その二つの目は目玉があるべき場所に穴でも空いているように真っ暗で深かった。恐るべき大事件に人々は興奮し、怯えよりむしろ好奇心と喜びを持って二転三転する舞台を見守っている。他方ヴァーゴと関わりのあった者は飛び火を恐れて身を潜め、身に覚えのない者もまたそれゆえに思いがけぬところから逮捕のきっかけが浮き出るのではないかと怯えている。この街の全ての人には「情報」が必要であった。情報かなければどう行動すれば利益があるか、損がないか、それを探れない。新聞に載っているだけでは足りない。民間の者に頼らなければ。そうして人々は情報屋の扉に押しかけていた。ニキータは扉を叩く大勢の客のための商品を仕入れていたのだ。今は絶好の商売時であり、だが同時に窮地でもあった。同じく情報を売る他の者に先に良いものを売られては客を取られてしまう。期待に応えられなければ信用にも関わる。喜びと恐ろしさが同居している状況だった。

ニキータにとっても有益な情報というのは今最も欲しいものであった。

「何か有益なものを持っているんでしょうね?内容次第ではお代もケチりませんよ」

そばかすだらけの素朴な顔の中で、暗い穴のような二つの目がじっと紅羅々を捕らえていた。

「最高の条件だね」

「それで、内容は」

「ヴァーゴさんがなぜこんなに早く逮捕されたか、その真相を渡すよ」

その言葉は恐れも知らず不敵だった。

「誰が糸を引いているのか、逮捕の影で暗躍する黒幕は誰か、わかったら相当の儲けになるはずだろう?裏で手引きする奴は間違いなくいるんだ。陰謀の元締めがはっきりしたら一大スクープになるよ。どう?喉から手が出そうじゃない?」

「我々は素晴らしいスクープを掴むことになりますね」

「これ以上の金づるはないぜ」

「最高の条件ですね」

ニキータは片方の口角を吊り上げた。ツバメとマルコスは後ろに控えるばかりだったが、主君の機嫌が良いのをひそかに喜ばしく思っていた。その間も紅羅々の目はツバメを何度も捉えていた。

「上手くやったら俺とツバメさんとデートさせてくれよ」

ニキータは肩をすくめた。

「最善を尽くします」

「そりゃどうも。なら俺も最善を尽くすよ。早速取り掛かるよ」

紅羅々はポケットに手を突っ込んで「楽しみにしてますよ」早々と去ろうとして、ふとツバメに振り向くと「またな」とウィンクした。そのまま彼は長い足で軽やかに雑踏の中を通り抜けながら、カジノ街の人混みの向こうへと見えなくなっていった。

「期待してみましょう。では、次を当たりましょう。カラス(・・・)さん、マルコスさん」

ニキータはそう告げて反対側のさらに暗い路地へと歩き出し、やがて同じ様に見えなくなった。

さて、紅羅々はとある場所に向かっていた。二時間ほど歩いて行く街に、今会うべき人物が住んでいるのだ。事件の解明を目指して一刻も早くその人物の元を訪れようという算段だった。

歩くうちにだんだんと人は少なくなり、綺麗に舗装された道はねばついた臭い湿っぽい道になっていく。紅羅々は口笛を吹いてその端を歩いていった。彼はこの場所を好んでいないが、微かな野心のためには痩せて我慢もするより他なかった。やがて、その景色と香りは貧民街にいるのだとはっきりわかるものになってきた。道沿いに並んでいるのは多くが店で、安い娼婦が待っている家々が並んでいた。酔っ払いが昼間から騒いでいるのも聞こえた。その先に一軒だけすらりと、いや、ずっしりと建った重厚ながら錆びた雰囲気のない屋敷が聳えていた。

その門先の小さな庭で、一人の男の子と、若い父親が遊んでいた。紅羅々は門に近づくと呼び鈴を鳴らした。

父親がはっと気づいて立ち上がった。彼は門前の客を見るや善良そうな微笑を浮かべて、すぐに門を開けてくれた。

「どうぞ。入ってください」

それはフィーネ・ユニカだった。





それはまさしくフィーネであった。が、髪は前より伸びていて、以前より素朴な形にまとめられていた。服を見るに気取らない性分は前と変わっていないようだった。そして何より、彼は今、側に一人の男の子を連れていた。

あの後彼にどんなことが起こったか?意外なことに、彼はずっとヴァーゴとの再会を願いながら暮らしていたのだった。たった一人になって、彼は数え切れないほど孤独と、不安と、退屈を味わい、ヴァーゴと全く違わず伴侶に想いを馳せ続けていた。だが、とうとう思いが募って妻のところへ行こうとするたびに一つのことが彼を思いとどまらせるのだった。

彼は秘密を持っていた。

彼は人さらいであった。生きるため、とか、精神を病んで、とか、そんな理由さえあれば犯罪を高尚な行いにすり替えることさえできるこのご時世、人さらいくらい何とでも言い訳できるものかもしれない。だが、事実、彼は償いようのない罪を何度か犯していた。善良な妻の前にそのことは後ろめたくあった。

自分を信じ、全てを任せて委ねてきた妻に汚れた姿を見せれば、お互いにーーーそう自分もーーー痛手を負う。深い傷ができる。美しく輝かしい思い出の最後を真実で終わらせる勇気はない。そうして、彼は結局妻との再会からも逃げているのだった。

あの日からの数年間、彼は人をさらい、ひたすら犯罪を重ねていった。

それは哀しみと絶望に満たされた彼をしがらみから解ける唯一のものが犯罪のスリル、快感だったからとも取れる。あるいはそれが穿ちすぎた同情とも言える。

ただ一言だけ、彼は犯罪者であることは確かであった。

フィーネはヴァーゴとの再会を恐れ、夢見て暮らしていた。そのうち一人の少年を側に連れるようになった。フィーネが連れるその少年は、背が低く、髪が真っ白で、光の差し方によっては淡い桃色に見えた。それがフィーネがこの男の子を連れている理由である。

フィーネが貧民街の路肩で出会ったこの少年は、ヴァーゴに似ていたのである。

少年に親がいるのか否かに関わらずフィーネはこの子供を街から引ったくってしまった。そしてよく愛情を注いだ。歪な男が注ぐ愛情は歪なものであったか、真心であったかはわからない。少年はアトリアという12歳の大変無口な子供だった。彼はフィーネに従順だった。従順なのか、狂気の従順なのか、従順を装った狂気なのか、それもわからないほどに従順だった。この美しい子供は時々は気の向くままに街を歩いてクレメルに「帰れ、ちび」と言われたが、また時々は健気にフィーネの仕事を手伝った。彼は腕利きの貧民街市民だった。

ともかく、フィーネの暮らしはそんな様子になっていた。





紅羅々は応接間のソファに腰掛け、コーヒーカップを傾けた。フィーネはその向かいに静かに座った。二人の足元では、アトリアが何かの編み物をしていた。

「君に会いたかったところなんだ。話が聞きたかった。僕は何がなんだかわからない」

「アンタの奥さんが投獄された」

紅羅々が簡単に告げると、聞き届けたフィーネは固く目を閉じた。

「なぜこんなことになったんだ?妻は警察に捕まるような悪人じゃない。なのに投獄なんて...可哀想だ」

紅羅々はフィーネの声が震えているのを黙って頷いて聞いていた。フィーネの気持ちはよくわかった。彼の心に嵐が吹き荒れていることも理解できた。だが、紅羅々は理解できる人であっても同情する人ではないのだ。何とか手を尽くしてやろうという心を発揮するような義理人情は持ち合わせていなかった。そうだったならば詐欺師などであるはずがない。彼の心にあるのは、何とか手柄を立てて愛しい黒髪のツバメが喜ぶ顔を見られたら良いけどという思いであった。

フィーネは未だ悲しみの底に沈んで、絶望した表情でぽつぽつと言葉を紡いでいた。

「僕のせいなんだろうか。そうでもあるんだろうな。もしも今も一緒にいたら、ヴァーゴの潔白を主張することができた。彼女を守ってあげられたかもしれない。だけど、僕は何の力にもならなかった。彼女と再会したとき、嫌われるのが怖かったばかりに苦しんでいるヴァーゴを放ったらかしにしたんだ。彼女の苦しみは僕のせいだ。死んでしまえばいいのにーーー」

紅羅々は足を組んでコーヒーを飲みながら、目も合わせずにフィーネの話をおとなしく聞き、口を挟む機会を窺っていた。高価なコーヒーの香りは少しばかり高揚させた。

ついに彼はコーヒーカップを置くと、ひそやかに低い声を出した。

「アンタの言う通りだ」

フィーネは顔を上げた。その目の前で、紅羅々は不敵に笑った。

「ミセス・ユニカは犯人じゃない。これは裏で糸を引く誰かがいるんだ。黒幕さ」

紅羅々は得意のよく回る舌で滔々と繋げた。

「何がなんだかわからないだろう?これからわかろうとするところなのさ。なぜあの人は理由もわからず出頭させられ、投獄された?誰がこんなに急いであの人を犯人にしたんだ?怪しいことばかりじゃないか。上手く裏で起きていたことが掴めれば、俺はスクープを掴めるし、アンタの奥さんの潔白だって証明されるぞ。だからさ、この事件、暴くのを手伝ってみないか?」

紅羅々は滑らかに、鮮やかに口上してみせた。誰が言ったではなく根拠もないが、紅羅々は、この事件に真犯人がいると確信していた。わかっていた。誰かが反抗をし、誰かが慌ててヴァーゴに投獄の許可まで出して犯人に仕立て上げているのだ。その確信ゆえに情報屋に啖呵まで切った。詳細と引き換えの取引をこぎつけたのだ。

ヴァーゴの夫であり、裏社会に精通したこのフィーネの存在は役立つに違いなかった。

「協力しないか?」

紅羅々はすらりとした右手を差し出した。フィーネはすぐにその手を強く握った。

「やるよ。真犯人を見つけたい」

第二話お読みいただきありがとうございます。

参加者の皆さんにおかれましては、発表が遅れ大変申し訳ありませんでした!

登場人物も勢揃いし、事件の筋も見えてきた頃です。これからこの混沌の中で彼らが送る人生模様に思いを馳せていただければと思います。

内容の解説はまた後ほど追加していくとして、ひとまずは小説だけでも出すこととします。ではまた次回。

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