第一章
ルンフォンは語った。
「それから数年が経った。ヴァーゴ・ユニカ、いや、ミセス・ヴァーゴの名は今や街中で聞かない者はいなかった。彼女にまつわるある噂もーーー。
さらに時が流れ、ある騒がしい朝、26歳になったミセス・ヴァーゴは自分の店で目を覚ました」
一
その朝、庶民街の白い家壁に囲まれた広場では昼間に客を迎えるための飾りつけが早いうちから始められていた。枢軸である特区の政治家たちが演説パレードを行う日だった。
軽やかな音に窓を開けてみれば、奇抜な身なりの背の低い笛吹きが吹き回る音楽に合わせて子供や裸足の若い女たちが踊り歩いていた。ヴァーゴは二階の部屋の窓からそれを見下ろしながら早朝のぼんやりとした微睡みを楽しんでいた。
食べていくための、また引き受けた少女たちに生活をさせるための財産を築く方法としてヴァーゴは店を開いて客商売をすることを選んだ。女の就職先として安直に考えられがちな紡績工場や掃除婦の仕事の悪評は聞いていたし、地獄から救い上げたはずの気の毒な少女たちを再び苦しい目に遭わせるわけにはいかなかった。流行している肺炎や機械で手足を潰してしまう事故で以前に増して壮絶で悲愴な境遇に陥ることも考えられる。
ひとえに彼女の賢さが光り、生活はみるみる改善された。彼女の立てた店は、二年目には美しい窓と扉と立派な食器を備えた楽園に仕立てられていた。借金もすぐに返済され、ヴァーゴと少女たちは温かく広いベッドで眠れるようになった。その半年後には店はすっかり軌道に乗って、ヴァーゴは念願であった路上や望まない職場で生活する貧しく哀れな少女たちを自ら引き取って世話してやることができるようになった。飢えた少女がいれば、ヴァーゴの店に行きさえすればきっと雇ってもらえた。若く親切で美しい女主人が温かく迎え、食事と部屋を用意し、好きなドレスを選ばせてくれて、店の従業員に取り立ててくれるのだ。彼女はやってくる少女にはその全員に適した仕事を与えてくれた。髪を整えたり、ドレスや化粧に凝るのもおおいに理解し共感してくれた。
ヴァーゴは今や立派な女主人であり、理想の淑女で、美貌も知恵も人より優れたものを持った進んだ女性であったが、若く瑞々しい心を忘れたわけではなかった。むしろ彼女の中には若々しい無邪気さがいつも波打っていた。祭りの鮮やかな景色、爆発するような明るいエネルギーに心躍らないはずはなかった。踊っている街の女が回転したとき、ふわりと広がったスカートに胸がときめいた。「なんて楽しそうなのかしら!」お行儀なんか知らんぷりして、窓から飛び降りて、あの笛吹きと若者たちとダンスの列に入りたい。
そこに夫もいたならどんなに楽しいかしら!
心の中でそう思ったとき、浮かれた気持ちは波のように引いていった。笛の音は耳に届けど、最早心には届かなくなった。
祭りの賑やかな景色は、愛する人とーーー夫と、フィーネと楽しむことは叶わないのだ。それは夢見ることしかできない。
フィーネが自分の前から消えた夜から数年の間、楽しい出来事に何度も対面したが、このことが頭に浮かぶたびにその愉快な気持ちはしぼんでしまう。ヴァーゴの顔は明るく熱い夢に浮かされた若い娘から、痛みを知ってしまった大人の女のそれに変わるのだった。
そうすればこの気持ちから距離を置けるのだとでも思っているようにヴァーゴは足早に去った。店を開かなければ。今日は髪の手入れや化粧にも念をいれなければいけない。従業員もそろそろ仕事にかからせよう。
さあ急いでーーーそんなもっともらしい理由を曇った頭に引っ張り出しながら自室から店に続く階段を降りていった。
今日はひどく忙しい日になるだろう。開店はもうすぐだーーー。
二
演説が始まる五時間前だが、広場には大勢の人が押し寄せてごった返していた。
路地という路地には出店や屋台が詰め込まれ、行事を祭に仕立てていた。あちこちから人が集まる、その目的は一様にこれだった。人々は屋台の前に行列をなしたり、楽団の演奏や人形劇の見物に興じては歓声やら野次を飛ばしている。提供する方も絶好の商売時に張り切っていた。当然演説など眼中にない。やってくる政治家たちに敬意を払う客などいるはずもない。彼らはパレードにかこつけて開催しているお祭りに足を運んでいるだけだった。そして政治家たちの金言を右から左へ受け流しながら倫理的に良しとされない飲酒や賭けや女を好きなだけ楽しみ、屋台で買ったまずい焼き鳥をかじりながら早速政策やらに唾を添えた文句を飛ばすのだ。「くだらん!つまらん!」
料理にゲームに音楽に美男美女に、誰もが目を移し胸を弾ませた。人々は一体となって歓喜し興奮していた。全ての人が熱狂することに熱中し、よそ事を嫌っていた。
騒ぐ人々の真ん中には目に刺さるような色合いのつぎはぎの服を着たジプシーの男とその仲間がいて、際どい悪口を飛ばしては人々を喜ばせたり、ジプシーの踊りの輪に入れたりしていた。つぎはぎの男のそばで笛吹きが達者に音を入れたり快活な歓声を上げたりしていた。
「さぁて皆様、ご注目ください!あちこちで誰かの目が光っているが一一一」
群衆はどっと喚いた。怒声ではなく笑い声だった。ぼかしても話の筋は伝わる、いや、ぼかしたからなお目を光らせる奴すなわち治安を気にする刑事や裁判官たちをおかしく侮辱するようにできているのだ。愉快な享楽に水を差す役人たちは民衆の鼻つまみ者だった。影で彼らを噂するのは民衆の日課で、今では水を得た魚のように偉ぶる奴らを馬鹿にしているのだった。
「偉大なる政府の皆様の真似をしてみな!一番似ている奴は本日のヒーローさ!さあ、誰が行く!?」
すぐに一人の男が真ん中に踊り出て、声を甲高く張り上げて書記官の真似をした。ジプシーや観客は一斉に大笑いした。次の男は口髭をやたらと指先でいじりまわす委員長の真似をした。その次は太鼓腹の男で、党首の真似だった。その後にははげ頭のしかめっ面の議長を真似る中年男が続いた。一人が真似をするごとに押し寄せた人の輪は腹を抱えて笑った。笛吹きは人の中を駆け回っては観客を物真似の列に引っ張り込んでいた。
「あんたも出ろよ、絶対に似てるから!」
笑い転げながら次々と袖を引いて物真似に参戦させ、整列させる元気な笛吹きにつられて広場の人々は楽しげな表情を見せた。笛吹きは陽気に人々に笑いかけ、器用に踊り回りながら、するりと物真似をした客の財布を抜き、何の気も見せずつぎはぎの男に近づいた。男は目も合わせずに財布を受け取った。
「さあ、次は!?」
長髪に黒く煤けた肌のつぎはぎ男の号令で人々は歓喜し、列から物真似をする人々が押し寄せた。彼の号令は別の集団に向けられたものでもあった。
広場の乞食たちは明るく歌い踊って人々を楽しませながら客たちの財布を手早く抜いていた。騒ぎが注意深い人々の警戒心を掻き消しているうちに、熱を上げた民衆が冷めない間にその中に混ざってスリを働いていた。乱痴気騒ぎの中心で人の目を引きながらその空気に目を光らせているのが一味の長で、上手い具合に浮浪者やジプシーたちに合図を出すのが役目だった。クロイツというのがこの男の名前だった。浅黒い肌に長く伸びた黒い髪をして、ひげを生やしており、荒れた傷跡が頬骨のあたりで線を引いているといった風貌だったが、目鼻立ちのはっきりした整った顔立ちをしていたおかげでかえって野性味が映えていた。笛吹きはクレメルという名前の彼の一人娘だった。緑色の目の子供のような容姿で、短い黒髪はくしゃくしゃでやはり灰色に薄汚れ、右手の肘から先は義手だった。見た目の通り彼らは路上で生活しており、その生活は大変に過酷だったが、それだけにしたたかで肝が太く、底意地は汚く図太かった。生きるために賢くなることを知っている人々だった。
市民は財布をなくしたことなど気にもかけず、笑い転げて楽しんだ。中心ではまだ卑しい物真似大会が続き
、笑い声はやまなかった。演説を聞く人々の様子など政治家たちに伝わるよしはなかった。
三
広場の大騒ぎと隣り合わせた屋台に、一人の男が現れた。職業は刑事でお洒落を確かに意識した風情のその男は、人からはアノニマスと呼ばれていた。アノニマス刑事は二十代で、警察の人間で、その上博打打ちだった。彼の財産は何年か前に一度底をついて、借金にまみれ、家族はその時に消えた。その時に彼は給料をもらって借金を返さなければまっとうな幸福は戻ってこないことを直感し、職務遂行にだけはめっぽう厳しくなったが、あとはひどく寛容な刑事だった。彼のポリシーでは他人の自由は妨げず、喧嘩に割って入ることもせず、自分にも無用な干渉はさせないというものがあった。それは無関心とも合理的とも言えた。ただ借金の返済には忠実であり、その目的の下に職務は厳格に遂行していた。
さて、アノニマス刑事は路地から歩き出て役所へと向かった。そこで落ち合うはずの演説家たちの警護が本日の彼の仕事だった。役所の赤い壁が見えてくると、そこには既に五、六人の正装した役人や官僚がいた。アノニマスは素早く建物の影に隠れて歩き、道に飛び出す瞬間、息を切らして走り出した。
「お待ちさせて申し訳ございません」
遮ってまず自分が口を開き、まだ息を切らしたままでそう言って誠意を示してみる。狙った通り政治家たちはおかしそうに笑い出した。一人が言った。
「いや、いや、気にするな、我々が早く集まったんだ。君の責任は問われんよ。だが、我々ではない輩の前では時間には気をつけることだ。どんな目に遭うかわからないぞ」
「あァ、はい。気をつけます」
「よろしい。素直で気に入った」
政治家はアノニマスの肩を友人のように叩き、親密そうに笑った。説教くさいことが大好きで、そうすることで自分が上の立場にあることを強めて満足している彼らの行いは、豊かな人には噂を立てられ、中流階級の人々には煙たがられ、時に貧民に殺される所以だった。
やはりというべきか政治家は息もつかずに話し始めた。アノニマスは頭の中を「借金」と「給料」の二文字で埋めることに全力を注いでなんとか彼の前に立っていたが、おもむろにエンジンの音が背後から迫ってきた。少し遠くで停車し、ドアの開く音が聞こえて何人かの気配が近寄ってくる。ラジオドラマを聞いているようだ一一一視覚で確認することができないのがもどかしい。
「遅れて申し訳ない!」
快活な、まるで友人同士であるような気さくな謝罪がかけられた。後ろにいるので見えないが男の声だ。快活な声色からなんとなく恰幅の良いテノール歌手を連想して、アノニマスは振り向き一一一呆気に取られた。
そこに立っていたのは上品なワンピースを着た赤毛の女の子だった。ほっそりしたお嬢さん風情といったこの少女の外見とテノール歌手の声を頭の中で綺麗に重ねてしまったアノニマスは、今度はトーキーでも見ているような気分になった。
待っていた中年演説家たちがアノニマスと赤毛の少女の横を通り抜けていく先を見ると、今度こそ男がいた。テノール歌手らしいかは人によって意見が割れそうだが、身につけているものは一流の歌手にも劣らなかった。黒いスーツにネクタイを締め、襟に飾りをつけ、しっかりした服だった。
「彼が今度の事業のパトロンの資本家だ。今日の演説会でも一言喋ってもらう。しっかり警護してくれよ」
役人が気を利かせて教えてくれた。アノニマスははァ、と返し、いつもの例によってパトロンの男に敬礼した。男は感心したように頷いた一一一敬礼を珍しがっている。
アノニマスはそれを見てこの男が生粋の金持ちではないことを察した。裕福な家庭に生まれ育っていれば、護衛に挨拶されるなど飽きるほど体験してきた。警察官の敬礼を立派そうに見たり、感心するのは、市民の見物人ばかりだ一一一特区の人間だが、この人、市民上がりの奴かもしれない。今どきは市民がひょんなことで大金を手に入れ、高官や政治家のパトロンに成り上がって特区に住み出したという話もしばしば噂に聞くご時世だ。大方、会社か工場とかの経営が軌道に乗ったか、投資で当てたか一一一あるいはさらに究極の投資、すなわち博打が成功したのか。金の出どころについて下世話な邪推をどんどん広げ、意地悪く愉悦しながら、もちろん表には潔白な警官を貼り付けて再び赤毛の少女を見た。
「そちらのお嬢さんは彼のご令嬢でハンナさんというんだ。学校中の尊敬を集める優等生だと評判の才媛でね。今日は彼女の姿を見にご学友がいらっしゃる予定だそうだ」
先程と同じ役人が説明してくれる。さすがに役人は周りを見渡して気を回すのが得意らしい。
名前はハンナか一一一お嬢様であることがよくわかる紹介だったが、そう紹介されて違和感を感じないのは、彼女のほっそりした控えめそうな佇まいが要因だろう。遠慮がちな微笑と物腰はまさしく誰もが想像するお嬢様の姿だった。見ただけで俗物とわかる親からどうしてこの雰囲気の娘ができたのか、疑わしく思うほどだが、恐らく彼女はこうして振る舞うことに相当に心を割いているのかもしれない、と思った。元は一介の若い町娘が立場に求められる全てに必死で応えていると想像すると、ハンナ嬢の苦労は偲ばれた。
恐らくだが、彼女は相当に見栄を張っているということになるだろう。
苦労するだろう。アノニマスはそう直感した。この家族には苦労が続いていくだろう。
しかし、彼は哀れんでいるわけではなかった。彼は楽しんでいた。愉悦していた。金持ちの一家を愉快にこき下ろして、その一方で仕事に忠実な警察官としてもきちんと思考し、余計なことまで考えてドジは踏まないように調節していた。
「あァ、時間です。広場に向かいましょう」
きびきびと背筋の伸びた声で告げると、政治家や役人たちはすぐに従って停車している移動用のリムジンに向かい歩き始めた。ハンナの父親も行った。ハンナはその後ろを歩いていた。アノニマスも最後尾を歩き出す一一一その時、ハンナは振り返ってアノニマスにお辞儀をした。とても美しく、深い礼だった。
アノニマスは一瞬呆気に取られた。このお嬢さんの気の回しようをそんなに考えていなかったのだ。
しばらくして、リムジンは広場へと走り出した。
四
太陽が南の空に昇る時分、広場には大勢の見物人が訪れてお立ち台の設置された円形のステージの周りを幾重もの輪になって囲んでいた。群衆に渦巻いている喧騒は、楽しそうに華やいだ雰囲気というより無遠慮な野次のざわめき合いだった。ただ、どうせ不機嫌な野次を飛ばすにしてもミサに行って座り続けるよりは演説でも見たほうが話の種になる、というのが群衆の偽らざる考えだった。
ついにリムジンが停まり、スーツを着た政治家や役人が六人降りてきた。群衆は敵意ある静寂に包まれた。新聞で見るそのままに角ばった仕草でお立ち台に歩み寄った政治家のうち一人が台に立ち、あとの者は蕎麦に並んで控えた。
「市民の皆さん。知事のボーンズです」
ボーンズ氏はがっしりした六十半ばの知事だった。彼は頻繁に首元のネクタイをいじる癖を持っていた。それはただの癖に過ぎないものだったが、上等なネクタイにこだわるほど余裕のない多くの市民からは煙たがられていた。贅沢を持て余したようなボーンズ氏の仕草は市民の憎しみを買っていた。
だが、ボーンズ氏が最も気づくべき確執の要因とは、自分の癖を気にも留めない無恥かもしれない。
「近頃、我らが街には犯罪者が根を張っており、皆さんの安全で安心な暮らしを脅かしているという大きな問題があります。特にノクチルカと名乗る集団は違法な薬物を取引し、皆さんに多大なる心配をかけています。為政者として、我々は善良な市民の皆さんの不安の声には耳を傾けねばなりません。今こそ違法薬物の撲滅、犯罪の抹殺を掲げ、団結しましょう。ノクチルカを街から追放するのです。我々議会も総力を挙げて街の治安と安全な市民生活を守り抜くことに尽力致します。ついては、新たな対策として違法薬物問題対処のための特別委員会を結成致します一一一」
市民は知事に拍手したが、喝采は送らなかった。
拍手の音の波が引くと、騒ぎに便乗して起きたような前にも増して意地の悪いざわめきが広がった。群衆の輪のそこかしこでどれもよく似た噂話が広げられていた。
「犯罪が多いのなんて今に始まったことじゃないよ。ノクチルカだって誰でも知ってるさ。今更手を打ったところでねぇ」
「まあお立場上、手遅れですなんて言えないんだろうな」
「面倒な仕事ね、何を思っていても綺麗事しか言ってはいけないんだもの」
「嫌われないように取り繕うのに必死なんだよ。結局は自分の身分が全てだと思ってる連中だからな」
「今度の委員会で成功したら立役者は出世間違いなしだものね」
「そりゃそうだよ。街の平和を守ったヒーローだからな。民衆からも人気が出るだろうよ」
「本当に犯罪者が捕まりゃいい気味だけどな」
市民の子供と上層階級の政治家や役人の子供は、少なくとも途中までは同じように学校や家庭で育っていく。そしてその親たちは、年と、労働と、納税と、子供と、両親と、その他たくさんの荷物を年ごとにその背中に積んでいくうちに結局は長い目で街を進歩させるための権利とか治安とかいう活動よりも、明日をなんとか生き延び、できるだけ無理せずできるだけ長く映えない毎日を続けていきたいという願いに人物を支配されていくようになってしまうという点では全く同じだった。そのために両者は激しく憎み合い貶め合いつつ、暴力には訴えなかった。事が荒立つことは全くないし、あり得なかった。だから街は変わらず平穏である。ただ、平穏が幸せとは限らない。
どんな子供も、結局は役人になれば解雇を、市民になれば課税を恐れるようになり、その心はひもじく貧しいまま冷たい風が吹き荒れるのに素知らぬふりをするようになっていくのが運命だった。それは遅いことも早いこともあった。
ボーンズ知事に続いて政治家たちが順に口上を述べている間、ハンナはステージの隅で人形のように立っていた。礼儀正しく精巧な姿は人々の驚嘆を集めた。同時に疑わしくもあった。淑やかで冷ややかな、この上なく出来の良いこの娘が何か腹に抱えているような気もして、つまり、この精巧さは本質からのものではないとも思われた。何かが若いこの女の子を突き動かし、ハンナは何かに突き動かされて動き回っているのだ。そのぜんまいを巻いているものの正体はハンナ自身しか知らないことだが、「ぜんまいが存在しない」というのはあまり考えられなかった。そうでもなければこれほどに文句のつけようがない立ち居振る舞いはできまい。彼女の振る舞いはあまりに立派だった。しかし、立派な振る舞いに文句をつける筋は嫉妬を除けば無論ないので、結局彼女は人々に褒めそやされていた。真下から同級生の賛美と憧れの目線を浴びてもいた。そして、彼女は思っていることを決して口には出さなかった。
五
パレードが終わった後、政治家たちはリムジンで目的地まで行き、降りて歩き出した。その足並みはきっちり綺麗に揃っていた。
「難しい顔をしているな。緊張しているのか?」
太鼓腹の第一党党首が、隣の若い議員に声をかけた。
「当たり前でしょう。肝が冷えています」
「我々だって男だ」
「品位を落とす行為は許されないんですよ、そんな言い訳は通用しません」
「出し抜かれなければいいだけだ」
「出し抜かれれば終わりです」
「まあ喧嘩をするな君たち。初めてなのだから緊張するのもわかるが、あの手の商売女というのはね、代金さえ支払えば素直になんでも飲んでくれるものさ。何しろ彼女らは金が欲しくてたまらないんだから。それとも行きたくないのか?」
髭面の委員長が言うと、議員は下を向いたが、
「行きたくない...いいえ、行きたいです...」
とついに自分の魂を周りの大勢の肥えた男に売り渡した。
委員長は若い議員の肩を叩くと、通称C地区と呼ばれる花街の赤い門をくぐった。
六
客が道を歩き出すと、娼婦たちは並んで店の表に立った。ちょうどショーウィンドウに並んだ商品と同じだった。
ヴァーゴは街のそんな様子を二階の窓から眺めていた。「哀れだわ一一一」と彼女は呟いたが、それは決して客引きする厚化粧の娼婦たちを指した言葉ではなかった。彼女が言っているのは娼婦たちが取る客のことだった。ヴァーゴの心には、華やかで冷酷な心のもと臆病になることなく朗らかに生き抜いてきた彼女たちは美しく愛らしい存在に映ったし、自分の立場の意味を履き違え、たった一度幸運に恵まれただけで他の人間を見下している男を蔑んでいた。そして娼館に来るのは大方がその手の男だった。あぶく銭か情婦や親からせしめた金を大事そうに握りしめ、意気揚々とやってくる。
「そろそろ来る時間ね」
ヴァーゴはそう呟いて鼻歌交じりに階段を降りていった。テーブルが並べられ、カウンターの上にグラスの塔が立っているその店はヴァーゴの経営する店で、中は好みの通り可愛らしく煌びやかに飾られていた。従業員の少女たちは皆揃っていた。仕事用のドレスに着替えており、身だしなみを整えたその少女たちの中で、一番年少の娘はまだ昼寝をしていた。ヴァーゴは静かに歩み寄ると、年少の娘の肩を叩いた。
「時間よ、起きて」
娘は慌てて跳ね起きた。「おはよう、ヴァーゴさん」
「ええ、おはよう。みんな準備は良いわね。そろそろお仕事を始めましょう」
愛想よく微笑みながらヴァーゴは戸口へ出て行った。扉にかかっている看板を回して「開店」と表示し、振り向くと一一一既にお客が一人立っていた。
ヴァーゴは少しも動揺せず、あでやかに笑いかけた。
「こんばんは、ムッシュー。寒いでしょう。どうぞ中にお入りなさいな」
客一一一先の党首一一一は夢見心地で考えを空に浮かせた間抜けな表情のまま、三度頷いた。ヴァーゴは親しげに頷き、扉を開けてやって店に入るよう促した。よろよろと党首が入店し、カウンターの席に着くと、ヴァーゴは扉を閉めて言った。
「いらっしゃいませ!」
途端、店内の仄かなライトは明るくなり、一斉に従業員が奥から歩き出た。一一一着飾ったドレスにメイクの少女たちだった。
商売で安定した生活を送り、苦しむ少女たちを養っていくため、ヴァーゴ・ユニカは店を開いた。その店というのはキャバレーだった。
彼女のような人間がキャバレーを建てたその理由はいくつかの推測ができるものの、正確なことは答えられない。ただ、確実に言えることは、この商売はヴァーゴの持つ能力が最も役に立つものだ、ということだった。彼女は、まず当然だが美しく、加えて元からの性格が明るく外向きで気立ての良い女性で所々に愛嬌もあったため、人の相手をすることに向いていた。加えて人を見る目があった。さらに人の心をある程度把握していて、それゆえの少々の計算高さや機転に長けている面もこの仕事には適していた。美しさとセンスと腹を読む力を養うことに人生の大半を一一一元いた娼館で一一一費やしたヴァーゴは、頭の弱い他の商売女とは比べ物にならない力を持っていた。
ヴァーゴは席に着いた客の前にメニューを出してやった。
「お客様、遠慮なく注文してちょうだいね。ほら、これとか、これなんか一一一」
客はメニューを広げ、一瞬だけ眉をひそめた。しかし次の瞬間にはヴァーゴにとびきりの微笑を喰らわされ、心が決まっていた。彼が「深窓の薔薇」を頼むと、ヴァーゴは、活気溢れる誇らしげで朗らかな声で「深窓の薔薇!」と声をあげた。踊るような足取りで店の奥に下がり、棚からボトルを赤と紫の二本取り出してグラスに注ぎ、銀のスプーンでかき回した。艶やかな色の透明なウィスキーが揺らめきながら交ざり合っていく。素早く桃色のバラが描かれた小瓶をつまむと隠し味を足し、もう一度グラスの中をかき回した。いよいよ客に出す手前でグラスから抜き出したスプーンをヴァーゴが舐めてみると、それは甘い香りのするまろやかなウィスキーだった。「上等ね」ヴァーゴはグラスを銀の盆に乗せた。
わずか一分半で再び店に出ていくと、客は三人に増えていた。従業員の少女たちは何人かの組に分かれており、客は一人で大勢の少女を相手に楽しんでいた。ヴァーゴは党首にウィスキーを出すと、すぐに新しい客のところへ飛んでいった。
「ごきげんよう、旦那様。さあ、お好みを好きなだけ楽しんでいってちょうだいな。少しだけ高く一一一」
「一一一高くつく店だな」
「今はそう思うかもしれないけれど、後で後悔はさせないわ。間違いなくうちの店は一流のものをお出しできるもの。それに、店の子たちは羽振りの良い旦那や気前の良い人が好みなの」
ヴァーゴがそう話しかけると、少女たちは快活に笑い声を上げた。
「けちけちぴりぴりした人って嫌だわ」
「そうよねえ、神経質で口うるさい男なんて流行らないわね」
目の前でこう言われると客は猛烈に注文がしたくなる。一つには少女たちの嘲りを撤回させたいのと、単純に良いところを見せてもてたいのとで、男としてのあらゆる意地が刺激されたのだ。客は開いていたページで一番高いカクテルをタワーで注文した。実は店で三番目に高いこのカクテルは、タワーで注文すればそれと同額で外国製の車が買えるくらいの値段にはなるのだった。たった今、この男の手元から外車が逃げていったのである一一一。ヴァーゴは心からの笑みを浮かべて厨房に下がった。
フィーネと結婚してから、ヴァーゴはしばらく恨みの感情を忘れていたのである。その頃は毎日起きる幸せを味わうことが何より楽しく喜ばしく、憂鬱な感情は邪魔でしかなかったのだ。しかし、再び不幸が彼女を襲ったとき、彼女は以前にも増して打ちひしがれ、胸を砕かれ、絶望と憎悪はさらに大きくなった。彼女は街の淫乱で軽薄な男たちをひどく憎んでいた。そして復讐心と一滴の哀しみは、不幸な人間を凶暴な怪物に変えてしまった。
ヴァーゴの店はひどく高くついた。訪れた男性客たちはこの店で予想もつかないような代金を取られ、途方に暮れて帰らなければならなかった。ヴァーゴは不幸な人間を踏みつけて不自由のない暮らしをしている人間を、偉そうな男たちを、恨んで憎んだ。そして自分の持つ最大の力をして彼らに一泡吹かせる道を選んだ。それが彼女がこれから先歩むことを決めた長い道だった。のうのうと幸せを噛み締め、上目線に浸り、罪もない若い優しい娘たちをないがしろに扱っている男に強烈な一撃を喰らわせると心が軽くなった。正当な裁きは気分が良かった。
「お代わりも自由よ、どうぞ召し上がって」
ヴァーゴは三番目の客に歩み寄っていった。厨房では料理の得意な女の子たちが二番目の客のためのカクテルを作っている最中だった。
拾ってきた哀れな少女を慈しむのも彼女の生きがいだった。弱い人間を大切にし、力になれることは何だってした。理不尽な目に遭ったというなら仇討ちの肩代わりもしてやった。一一一この店はそのためにあると言うべきだ。理不尽から逃れ、心が晴らせるように。それで心は晴れるのだろうか?もちろん。
キャバレーにはいつしか客が溢れかえっていた。ヴァーゴは店の奥からカクテルのタワーを運んでいた。
「さあお待たせ!私達のとっておきを心ゆくまでお楽しみくださいな」
いくつも重なった黄色のカクテルとグラスが天井のライトに反射して店中を宝石箱のように煌めかせていた。その眩しい輝きの中で、ヴァーゴは楽しそうに大きく笑っていた。艶やかな光と笑い声は夜通し彩を欠かなかった。
第一章をお読みいただきありがとうございます。本編の始まりで、この小説は今回が初見という方もいらっしゃるかと思いますので挨拶がわりに申し上げます。まだ続いていますので話の続きにもぜひご期待ください。
では本編の解説に入らせていただきます。
序盤に登場したクロイツとクレメルに関しては自分のキャラクターということもあり設定は多いのですが、ここではクロイツの声について説明したいと思います。作中で派手な呼び込みと物真似大会の進行をしている彼ですが、声はかなり高く、声域で言えばハイテノールで張りのある美声という設定です。そんな感じの声を想像しながら読んでみてください。ちなみにクレメルはチビだと描写されていますが彼も細い方です。
それから、アノニマス刑事とハンナという少女が登場します。この二人の生き方はとても面白い部分があると思いながら書いていますのでぜひご注目ください。まだ出番は多いので早い段階から解説を入れることはできませんが、特にハンナの人生にはとても共感する部分があります。恐らく、彼らと同じ生き方をしている人は多いのではないかと書きながら気づいています。
さて、今回はここまでで終わりにします。次章を書くのが楽しみです。またどうぞよろしくお願いします。閲覧ありがとうございました!