第10話 感じるもの
そんなわけで奏さんから香辛料とレシピを受け取った後、琴ちゃんと一緒に必要な材料を商店街で買いこんだ俺は、彼女と詩乃が住む建物に戻った。
袋に入った野菜や肉を調理場に置いた俺と琴ちゃんは、洗面所で手を洗う。そして、今に戻ると、冷蔵庫から果物の飲み物をグラスに注いで琴ちゃんの前に置いてあげた。
「喉乾いたろ。これ飲んでいいぞ」
「うん。ベルおにいちゃん、ありがとう」
琴ちゃんは愛らしい笑みを浮かべ、礼を言いながらグラスに口を付けた。
その様子を見て、俺は安堵の息を吐いた。
というのも――今日のことを伝えた際、琴ちゃんは何故か喜ぶのではなく表情を曇らせたからだ。買い物をしている内に少しずつ元気を取り戻していったので良かったが、アルバイトの際に見る彼女の姿からは想像ができないほど落ち込んでいた。
――うちにも色々ある、か。
いつになく真剣な声音で語っていた奏さんの言葉が、頭の中で蘇る。
奏さんたちが話すのを待つと決めたものの我慢や息抜きなどと気になる言葉を並べられれば、やはり気になる。が、その真実を幼い琴ちゃんに尋ねるのはどうにも憚れる。
それに尋ねてしまえば、きっと彼女は傷つくからだ。
確証も確信もない。
でも、長年戦いの中で磨かれた勘がそう告げている。
「ベルおにいちゃん、怖い顔してどうしたの?」
「ん、あ……いや、何でもないよ」
琴ちゃんの声で意識を引き戻され、俺は笑顔を浮かべ彼女の頭を優しく撫でてやる。すると、琴ちゃんは嬉しそうに表情を緩め、俺の腰に手を回して抱き着いてきた。
――まあ、今はいいか。
気にはなる。
でも、いけしゃあしゃあと人の心に踏みいるよりも、大事なのは今日の晩御飯だ。
もう一度、くしゃくしゃと琴ちゃんの頭を撫で、腰に巻いた腕をゆっくりとほどいた俺は早速晩御飯の準備始める。
「ただいま~」
詩乃が帰ってきたのは、ちょうどその時だった。
「お、帰ってきた」
「あれ、ベル早いね……それに、琴ちゃん?」
「うん」
目を大きく見開かせて驚く詩乃に、琴ちゃんは恐る恐るといった風に頷いた。
琴ちゃんは飲みかけの飲み物が淹れられたグラスをテーブルの上に置くと、小走りに詩乃の下に駆け寄っていく。
詩乃の傍までに来た琴ちゃんは、飛びつくように詩乃に抱き着いた。
「詩乃おねえちゃん、おかえりなさい」
「うん……ただいま」
一瞬、詩乃の反応に遅れがあったような気がしたが、彼女は抱き着いている琴ちゃんの頭を撫で抱きかかえて、リビングに入ってきた。
詩乃は抱きかかえたままの琴ちゃんをゆっくりと椅子に降ろすと、俺をじっと睨んできた。
それだけで何を尋ねられるか容易に想像が付いた。
「それで、これは一体全体どうなってるのかな?」
「奏さんに早く帰っていいって言われてな。んで、偶々ちょっとした気まぐれで、普段世話になってるお前のためにカレーライスでも作ろうと思ったんだよ。別に奏さんに言われたからってのもあるわけじゃいぞ」
「あるんだね。それで、どうして琴ちゃんまで?」
「たまには他の人とも一緒に食べるのもいいかなと。本当は奏さんにも来てほしかったんだけど、明日の仕込みやらがるらしくて」
「そう。まあ、食事は一人よりも二人、二人よりも三人で食べた方が美味しいからね」
そう呟くと、詩乃はこめかみを指で解しながら、ダイニングの方へ視線を向けた。数秒、買ってきたばかりの人参やジャガイモを見つめると、俺に話しかけてきた。
「手伝おっか?」
「手伝わなくていい。お前と琴ちゃんのために用意してんだから琴ちゃんと遊んでろよ」
「……うん、そうだね」
詩乃は何か憤ったように答える。そんな彼女に、俺は疑問と違和感を抱きながらも、早く着替えてくるように促した。邪魔者扱いでもされたと思ったらしい詩乃は、ぶすっと頬を膨らませて俺を睨んできた。
俺はその射るような視線を無視して、奏さんからもらった作り方がかかれた紙を見ながら料理を始めることにした。
こういうのはまともに相手をすると面倒だ。
まあ、普段だらしない俺を相手する詩乃に比べれば、今の俺の苦労なんて大したことではないだろうが。
「はあ、まあいっか。さてと、じゃあ、ベルの作るご飯ができるまで私の部屋であそぼっか、琴ちゃん」
「うん!」
琴ちゃんは嬉しそうに頷くと、詩乃の後に続いて部屋の方へ歩いていく。
その様は本当に姉妹のように見えた。
「おい、できたぞ」
しばらくしてご飯ができた俺は、部屋をノックして二人を呼んだ。
返事はすぐに返ってきた。
「分かった、すぐ行くね。さあ、琴ちゃん行こう」
「うん、ご飯食べる」
部屋から出てきた二人と一緒に席に着く。
俺たちの目の前にはカレーライスやサラダ、スープといった料理がテーブルの上に並んでいいた。その料理を目の前にして、俺の右正面側に座る琴ちゃんが、早く食べたそうにうずうずとしている。
「琴ちゃん。食べたい気持ちはわかるけれど、まずは手を合わせて、いただきますって言わなきゃだよ」
「分かってるよー詩乃おねえちゃん」
可愛らしく唇を尖らせて拗ねて見せる琴ちゃんの頭を、詩乃は「ごめんごめん」と謝りながら、優しく撫でてあげる。
「んじゃ、食べるか」
俺の言葉に二人は頷き、琴ちゃんの頭を撫でることを止めた詩乃は手を合わせた。彼女の真似をするかのように、琴ちゃんも手を合わせた。
普段の俺なら迷いなく料理にとびかかるのだが琴ちゃんの手前、渋々俺も手を合わせた。
『いただきます』
三人の声が重なり、食事が始まる。
そんな中琴ちゃんがまず初めに口にしたのは、言わずもがなメインであるカレーライスだった。彼女はスプーンをしっかりとつかみ、ルーとご飯を器用に救う。そして、ゆっくりと小さな口で飲み込んだ。
瞬間、琴ちゃんは大きく目を見開いた。
「……美味しい。この―カレーライス美味しいよ、ベルおにいちゃん」
「そりゃあ、そうだ。琴ちゃんのお母さんに教えてもらったカレーだからな」
より正確には、奏さんが作ったレシピのカレーではないのだが。
琴ちゃんも気が付いたらしく、
「でも、何だか……おかあさんの味と違う」
カレーライスを食べた琴ちゃんがぽつりと呟いた。
その表情は悲しんでいるとかそう言ったものではなく、純粋に驚いているような顔だった。
「おかあさんのとは違う。でも、美味しい」
「これはな――、」
「私のお母さんのカレーだよ、琴ちゃん」
俺が告げようとしていた言葉を詩乃は、琴ちゃんに微笑みかけながら話した。どうやら詩乃も最初にカレーを口にしたらしい。
「詩乃おねえちゃんのおかあさん?」
「うん、そうだよ。これは、私のお母さんの味」
「そうなんだぁ……このカレーが」
何かを確かめるように、ゆっくりと言葉を噛みしめる。
詩乃が告げた事実に、琴ちゃんはまだ一口しか食べていないカレーライスをじっと眺める。そして、スプーンでもう一口掬い食べた。
「……やっぱり美味しい」
「そっか、それならよかった」
「それに、おかあさんが普段作ってくれているカレーみたいに優しい味がする」
穢れのない瞳で琴ちゃんが、そう呟いた。
その純真無垢な彼女の言葉に促されるように、俺も一口食べてみる。
口に入れた瞬間、琴ちゃんの言葉通り包み込んでくれるような優しい味が舌の上に広がった。美味しい。ありふれた言葉だけど、ただただその言葉でしかこの料理の味を表現しようがない。
味見を行ったとはいえ、自分が作ったとは思えないほどの美味しさだ。
肉や玉ねぎ、人参などといった食材が最大限に活かされている。
それもこれも、奏さんからもらったカレーの香辛料の調合配分のたまものだと思う。
「たまげたぜ。自分で作ったと思えないほどの出来だ」
「本当に神がかってる。奏さんから教えてもらったんだろうけど、まさかここまで再現度が高いなんて驚いちゃったよ」
「……そうか、それならよかった。作った甲斐があったぜ」
カレーライスの美味しいさに驚いていてすっかり忘れていたが、これは普段世話になっている詩乃への恩返しでもあるんだった。
心の中で安堵しながら、笑顔を浮かべる詩乃に視線を向ける。
詩乃が喜んでくれたらなら、少しだけ彼女に借りを返すことができた、と思う。
「うん………………本当に美味しいよ、懐かしい味だなぁ――あれ?」
「おい……詩乃」
笑顔を浮かべていたはずの詩乃の目尻から、二筋の線が流れる。
涙だ。
「あ、ご、ごめんごめん。何でかなぁ、別に何もないのに涙が流れちゃったのかな」
手の甲で涙を拭い、無理やりに明るい表情を詩乃は浮かべる。
隣で黙々とカレーライスを食べていた琴ちゃんが、心配そうな表情と声音で詩乃に声をかける。そして、小さな掌で涙の流れた痕にそっと触れる。
「詩乃おねえちゃん、大丈夫? どこかぶつけたから泣いてるの?」
「ううん、違うよ。ただ――ただ、カレーライスが美味しくて泣いちゃっただけだから」
「そう、なの?」
「そうだよ」
一音一音ゆっくりと、詩乃は自分の頬に触れる琴ちゃんの掌を自分の掌で優しく握り、空いているもう片方の掌で頭を撫でながら語りかけるように告げた。
「そうなんだ。それならよかった。詩乃おねえちゃん、ご飯を食べよ」
「うん、琴ちゃん」
琴ちゃんの言葉に頷くと、詩乃は再び食事を摂りはじめる。
俺も特に何か言及することなく、食事を再開させた。
聞くことがないのではない。尋ねるべきではないような気がしたからだ。まだ、出会って二週間程の俺が、彼女の『何か』について触れるのは、憚れるような気がした。
「あのさ、ベル」
「ん?」
琴ちゃんの喜々とした表情でご飯を食べる姿を眺めながら食事をとっていた俺に、詩乃は落ち着いた声で話しかけてきた。
まっすぐに詩乃の双眸を見据えた。
――いつもと雰囲気が違うな。
そんな気がする。
詩乃はいつもとは違った穏やかな笑みを浮かべ、口を開いた。俺は彼女の視線にくすぐったそうにしながらも、しっかりと耳を傾けた。
「今日はありがとう」
「――ッ」
「あれ、どうしたの、ベル?」
詩乃はきょとんと首を傾げ、俺をまっすぐに見つめてくる。
その視線に耐えきれず、俺は口をへの字に曲げ顔を逸らした。何つーか、完全に不意打ちだったせいでまともに彼女の顔を見ることができない。
「何でもない」
「そっか。変な、ベルだね」
そりゃ、変にもなるさ。
普段は世話好きで、こんな俺のこともかいがいしく面倒を見てくれる。
そんな詩乃が、俺のお礼に対して素直に『ありがとう』って言ってくるんだからな。まともに彼女の顔を見れなくもなるよ。
それにしても。
先ほどから落ち着きを取り戻さない、この胸の高鳴りは何だろうか。
♪♪♪
『ごちそうさまでした』
俺と詩乃と琴ちゃんの重なった声が、リビングに響く。
あれから仲よく三人で夕飯を食べ終え、俺たちは今食後のお茶を飲みながら落ち着いていた。ただ、お腹が満腹になった琴ちゃんは眠たげに目尻をこすっている。瞼も半分しか開いていない。
そのことに詩乃も気が付いたらしく、俺に目配せしてきた。
「ベル、そろそろ琴ちゃんを送ってあげなきゃ」
「大丈夫だ。寝間着は持ってきてるし、そもそも今日はここに泊ってってもらうつもりだ。奏さんには話はつけてある」
「布団は私とベルの分しかないよ」
「お前と一緒に寝ればいいだろ。それが駄目なら、俺が底のソファででも寝るさ」
「で、でも、いつも寝てる場所で寝た方が良いと思うよ」
「んなこたぁねえよ。奏さんの話によると、昔は一緒に寝てたみたいじゃねえか。なら、ぐっすり眠れるだろうさ」
「でも――、」
言葉を探そうと必死な形相で、でも、でも、と詩乃は呟く。
いつもの詩乃らしくない、不自然な言動だ。彼女なら今の琴ちゃんの状態のことを考えて、ここで寝ることを反対するどころかむしろ推奨してくるはずだ。
なのに、必死に言い募り、返す言葉を無くしても口を動かし続ける。
俺は眉を顰め、詩乃の顔を凝視した。
「どうしたんだよ、詩乃? 今のお前、何か可笑しいぞ」
「べ、別に可笑しいことなんてないよ!」
平静を保とうとしているが、声は上ずっているし、声音が大きい。
何かあるのは明白だ。
そんな調子な詩乃を半眼で睨みつけながらも、俺は頭を掻きながらため息を吐く。
「とにかく、今日はここで寝てもらう。ほら、見てみろよ。琴ちゃんはもう舟をこぎ始めてるだろ」
詩乃の隣の席に座っていた琴ちゃんは、危なげにふらふらと体を揺らしていた。とてもじゃないが奏さんの所に送り届ける前に寝入ってしまっているだろう。
言い募っていた流石の詩乃も琴ちゃんの様子を見て、開いたままだった口を閉じた。その様子が俺には唇を噛んでいるようにも見えた。
「お――、」
何か言葉を掛けようとして、俺は寸のところで出かかった言葉を飲み込んだ。
自分でも何が言いたいのかわからない。でも、何となく何か言わないといけないような気がした。
「じゃあ、二人で風呂に入って来いよ。俺はここでもう少し食後のお茶を堪能しているから。あ、皿とかは俺が洗っておくから置いておいてくれ」
「……わかった。起きて。さあ、琴ちゃん。お風呂に入ってから田を綺麗にしてから寝よう」
「ううん……うん、わかった、詩乃おねえちゃん」
どうにか瞼を開き、起きあがった琴ちゃんは目じりをこすりながら、詩乃と一緒に着替えを取りに部屋に戻っていく。
俺は先ほど感じた詩乃の違和感について考えながら、二人の姿を追った。