第9話 提案
「ベルくん。今日はもう上がっていいわよ」
そう奏さんから言われたのは、昼下がりの午後三時頃だった。
いつもは街が茜色に染まる頃に上がっているというのに、あまりにも早い時間だ。俺は一瞬考え込むと、
「え、俺、クビですか?」
笑顔で尋ねた。
そんな俺を奏さんは、半眼で睨みつけながら答える。
「違うわよ。いつも朝から夜まで働いてもらっているから、たまには早く帰ってもらおうかと思ってね。というより、やけにベルくん嬉しそうね」
「まさか~。クビになれば、また詩乃の部屋で食っちゃ寝が出来るので、ラッキーだな~なんて――」
「思ってるのね」
全部言い終わらないうちに、奏さんはそう結論付けた。どうやら俺の想った以上に、声と表情に気持ちが出ているらしい。
奏さんの表情は、呆れ半分愉快半分といった感じだ。
はあ、と奏さんは腕を組むと、ため息を吐き、
「本当にベルくんはろくでもない勇者様ね。可愛い可愛い詩乃ちゃんが、面倒を見てるおかげで最近はまともになったかと思えば、本音の部分がね……」
詩乃に対する同情の念を抱きながら呟く。
言葉の割に、どこか声音は楽し気であった。
ここで、流石の俺も自分をろくでもない勇者様のまま放置しておくわけにはいかないなと思い、奏さんから視線を外し頭を掻きながら呟く。
「まあ、働くのは面倒ですけど楽しい部分もあります。いろんなお客さんと触れ合えますから。そういうことを思うと、詩乃の奴には感謝してますよ」
「あらあら、珍しくベルくんが素直なことを言うものね」
視界の端で、目を瞬かせる奏さんの姿が映る。恥ずかしくなった俺は、頬を主に染めたまま口をへの字に曲げ、
「俺はいつも自分に素直ですよ」
淀みのない笑顔で言って見せる。
「確かに、ね。ある意味、ベルくんは素直よね」
ただしグータラしようとすることに関しては、と奏さんは皮肉気に言葉付け足した。
自分で言ったことだが、俺はその言葉に苦笑してしまう。
そんな俺を、奏さんはもう何度目かわからないため息を吐いて眺めていた。
「まあ、本当に感謝しているなら、私の言う通り早く帰ってたまには詩乃ちゃんのために美味しい晩御飯を作ってあげたら?」
「……そう、ですね」
奏さんの提案に、俺は綺麗に掃除のされた窓ガラスの向こうへ視線を移しながら考える。
ここに来て以来、色々と世話を焼いてもらっている。それに一応命の恩人でもあるのだから、そろそろ大恩の一部でも返しておきたい。
それに、普段あれだけ雑なことばかり口にしているが、素直に感謝している。
でもなぁ――、
「あの……奏さんは、詩乃の好物とか知ってます?」
「あらあら、本気で作る気になったのね」
人の悪い笑みを浮かべる奏さんに図星をつかれ、顔が真っ赤になった俺は視線を逸らす。
――いかんいかん、油断をしていた。
奏さんと会話をしていると気が付くのだが、叔母と姪という関係で半分血が繋がっている二人は、どこかからかい方が似ている。油断をしていると、詩乃も奏さんも痛いところを突いてくるからやっかいだ。
とにかく俺は必死に気持ちを落ち着かせ、真剣な声で本題の答えを促す。
「そ、それはいいですから、とにかくあいつの好きな食べ物って何ですか?」
「そうねぇ……詩乃ちゃんの好きな食べ物は――」
奏さんは頬に掌を当てながら、記憶の引き出しを開き始める。
「詩乃ちゃんは特に好き嫌いがなかったわね。義姉さんの料理も、どれも美味しそうに食べていたし……あ、でも、あれが特に美味しいって言ってたわね」
「それって何です?」
俺の問いに、奏さんは人差し指を立てながら告げる。
「義姉さんのカレーよ、カレーライス」
「カレー……ライス?」
記憶の引き出しから、昼食を食べにくるお客さんがよく頼む肉や野菜をシチューに似た液体を白米に掛けて食べているものだと思いだした。
自分の世界にはないが、あの料理は俺がこれまで渡り歩いてきた世界で食べたどの料理よりも美味しい。
ふむ、いいかもしれない。
「じゃあ、それを作ってみます」
「ああ、でも、義姉さんのカレーライスはうちのカレーライスとは違うからびっくりするわよ」
「違うって、具体的に何がですか?」
「香辛料の調合よ」
「香辛料?」
「ええ。カレーってね、他の料理と違って香辛料の組み合わせ方次第で全く違うものになるのよ」
「へえ……そういえば、俺の世界にも似たようなものがありましたね」
一緒に魔王軍と戦った仲間の住む国限定ではあるが、組み合わせ次第で様々な味になる料理があった。旅の道中、数回食べれる機会があったので食べてみたが、お店や地域によって全く味が違っていて驚いたものだ。それに美味しかった。
「基本になる材料があるんだけど……まあ、それ以外は自由よ。それで、義姉さんのカレーライスなんだけど、今から香辛料とか調合して下ごしらえをしてると晩御飯が食べられなくなるわよ」
「え、じゃあ別――」
「というわけで、私が準備したものを上げるからそれで作ってみてね」
「……、」
ウィンク付きの笑顔で言う奏さんに、俺は頬の筋をひきつらせてしまう。
――こ、この人はっ⁉
たまには早く帰ってもらおうかな、というのはただの口実で、本当は最初から俺を上手く使おうとしていたのだ。
「最初っから俺は掌の上で動かされていたんですね」
「うふふふ、ごめんなさい。でも、早く帰って体を休ませてほしいのは本当よ。そのついでにあの子の好きな食べ物を食べてもらいたかったのよ」
「はあ……まあ、構わないですよ。確かに感謝を何かしらの形で伝えないと思いますから」
頭を掻きながら、詩乃の顔を思い浮かべる。
こんな異世界から来た勇者という胡散臭い人間を居候させてくれる少女。
魔法を見てもすぐに慣れ、特段驚きもしない。それ以外はどこにでもいる普通の少女だ。
だけど、そんな俺を特別扱いすることもなく、一人の人間として普通に接してきてくれる。
あいつに――詩乃に、俺は感謝してばかりで、何も返せていない。本当にだから、ここらで返しておこう、と決意を新たにする。
「ところでですけど?」
「何かしら?」
奏さんはコーヒー豆を挽く手を止めることなく、俺の方に視線を向けてくる。
「せっかくなので奏さんと琴ちゃんも一緒に食べませんか?」
「構わないけれど……ごめんなさい。私は明日の仕込みとかがあるから食べられないわ」
「ああ、そうですよね」
そうだ。忘れていた。
奏さんは仕事があるんだったな。
「でも、琴は連れていってあげて。あの子……ずっと我慢しているから、ちょうどいい息抜きなると思うわ」
「……息抜き?」
ちょうどいい息抜きなる、というのは何の話なんだろうか。
片眉を持ち上げ、口にしたことについて思考する。しかし、あまりにも少ない情報量からでは、何も想像できないので俺は素直に奏さんが話すのを待つことにした。
その奏さんは、コーヒー豆を挽き続けながらどう話すべきか考え込んでいるのか、どこかここではない場所を見つめている。
特に急かしたりもせず俺も黙り込んでいると、奏さんは曖昧に笑みを向けるとやっと口を開いた。
「まあ、うちにも色々あるのよ」