表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狂い人  作者: 初心者
22/29

第二十二話

                  幕間Ⅱ


 七月という季節を忘れさせるような冷たい風が吹いている、肌寒い夜だった。私は常盤学園の敷地内に忍び込み、まるで暗幕に覆われているかのような別館へと入った。別館の鍵は私が開けたままにしておいたので、侵入するのは容易かった。誰もいない建物の中はとても静かで、廊下の歩く自分の足音がやけに耳に響いた。妙な重圧が在り、一歩進む度に息苦しさが増していった。

 屋根裏部屋へと続く階段の前まで来たところで、思わず足が止まった。この上で待っている彼に合うことを、私が本能で拒否しているのだろう。それでも、ここまで来て逃げ出すわけにもいかなかった。多少の時間を要したけれど、私は意を決して一歩を踏み出して、彼の元へと向かった。

階段を上り終え、僅かに差し込む月明かりだけを頼りにその姿を捜す。少しの時間を要してやっと、柱の陰に隠れて見え難かった、部屋の一番奥の壁際で私に背を向けて立っている男子生徒を発見した。その姿を眺めていると不意に、外で浴びたのと同じ冷風を肌に感じた。そこで私は初めて、彼の目の前にある小窓が開けられていることに気付いた。その小窓は、大時計を掃除するために、文字盤の部分に幾つか設置されている小窓の内の一つだ。

彼が窓の淵に、その細指をゆっくりと這わせているのが見て取れた。その様子が、彼が見ているのは外の景色ではなく、小窓そのものであるという印象を私に与えた。私はそれを怖いと思った。今直ぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちに負けそうになった。気配を察知したのか、突然に彼が振り返った。

「すいません。少し考え事をしていて、気付くのが遅れました」

 丁寧な物言いで、彼が私に謝罪した。その姿がただの男子生徒と何も変わらないことに、少し驚いている自分が居た。それから、不意に思った。そういえば、彼の名前はなんと言うのだろう。これから私を追い詰めるかもしれない少年の名前をまったく知らないでいることを、私はこの時に初めて気付いた。

「私に何の用? どうして、こんな場所に私を呼んだの?」

 相手の雰囲気にのまれないようにするため、私から先に口を開いた。恐怖で、自然と語気が強くなっていた。

「お呼び立てしたのは僕が、今話題になっている連続殺人事件の犯人――『平成の切り裂きジャック』はあなただと考えていて、それを確かめたかったからです」

『平成の切り裂きジャック』。藤崎と楢原を殺した連続両腕切断殺人遺棄事件の犯人に、何時の間にか世間が付けた渾名だ。冷たい声で、彼はあっさりとその正体が私であると言い放った。月明かりが彼の顔を淡く浮かび上がらせる。黒髪が少しだけかかっている双眸には感情の欠片も無く、うっすらと見えるその面貌はまったくの無表情だった。私の全身に悪寒が走り、体中から汗が噴き出て止まらなかった。

「な、何を言っているの?」

 私は強く反論をしたかったけれど、咄嗟に出てきたのはそんな月並みな台詞だった。動揺を悟られまいと、私は一呼吸を置いた。そうして冷静さを取り戻そうとしていると、彼が清掃時間に何度か、別館の近くにあるゴミ集積所にゴミ袋を捨てに来たことがあるのを思い出した。そして、私は改めて彼に話しかけた。

「もしかして、私の右手の事故の事を知っているのかしら?」

「ええ。清水先生から、大まかな事情を伺いました」

 思った通り、彼はどうやら、私の右手麻痺に、あの二人が関わっていることを知った。そして短絡的に、動機がある私を犯人だと決めつけただけに違いない。待ち合わせにこの場所を選んだのも、彼が偶然にここを知っていて、最も人目に着き難いと考えたからだろう。余裕を取り戻した私は、思わず笑みを浮かべた。

「それを真に受けて、私を犯人だと思ったの? 嫌だわ」

「はい、真に受けました。そして自分なりに色々と考えて、あなたが藤崎朋と楢原明日香を殺したと判断しました」

 彼は一歩も引かなかった。それが、私はとても不快だった。

「きっと自分の住む街で殺人事件なんかが起こって不安なのね。それで、あなたが安心するために私を犯人だと、そう思いたいのでしょう。それであなたの不安が取り除けるなら協力してあげたいけど、さすがに連続殺人犯の汚名を着せられてくはないから教えてあげる。二人が殺された日の両方に、私にはアリバイがあるの。それは警察だって確認してくれていることよ。だから、私には犯行なんて無理なの」

 今までの問答が全て無意味だったと思わせるように、私は大袈裟に溜め息を吐いてみせた。アリバイさえある事を示せば、彼もすぐに諦めるだろうと私は高を括っていた。しかしそれが間違いであることを、すぐに思い知ることになる。

 私の言葉が通用することはなく、アリバイの存在に関して少しも狼狽しない彼は、淡々と言葉を返してきた。

「アリバイがあるからといって、犯行ができないわけではありません」

「そこまで言うなら、私が犯人であるという証拠でもあるっていうの」

 彼のように一切動じていない風体を装っているが、私は自分の鼓動は早く大きくなっていくのが分かった

「正直に告白すると、あなたが犯人だという証拠はありません。だから今からお話しするのは、あくまでも僕の仮説です。ただ、僕その仮説が正しいければ、少なくともあなたの言うアリバイは崩すことができます」

「何それ? いいわ。どういう方法なのか聞いてあげる」

 今度は意識的に言葉を強めて、不快感を示すように私は彼を睨みつけた。私のそんな態度を気にする様子は無く、彼は自身の考えを話し始めた。

「疑問に思ったのは、ずっと正確に時間を刻んでいたこの別館の大時計の針が、少し遅れていたことです」

「そんなの、別におかしなことじゃないでしょう。時計の針がずれるなんて、よくあることよ」

 言ってから、私は後悔をした。この程度でいちいち反対をしていれば、それこそ疚しいことがあると彼に示しているようなものだ。私は精神を落ち着かせるため、もう一度軽く深呼吸をした。体中からは嫌な汗が出てきて止まらなかった。

「確かにその通りかもしれません。けれど、遅れたのには何か原因があるかもしれない。そう考えて大時計の真後ろにあるこの屋根裏部屋に来て調べてみたら、今開けているこの小窓の淵に、糸のようなもので出来た細かい疵がありました。そしてそこからさらに探してみると、大時計の短針と長針にも、糸状のものが巻き付いて出来たような不可解な疵を発見することができました」

「その疵が今回の事件とどういう関係があるっていうの?」

 自分の声が震えているのがわかった。ここで彼と対峙した時にあった。いや、この場所に呼び出された時から奥底に芽生えていた恐怖がだんだんと大きくなり、私の全身を覆い尽くそうとしている。

「僕の予想はこうです。犯人はまずワイヤーのようなものを用意し、その両端をそれぞれ短針と長針に括りつける。それから夜を待ち、殺したい相手を気絶でもさせてからこの場所に運び込んで、適当な柱に縛り付ける。おそらく縛り付けたのは、疵のあった小窓に一番近いこの柱でしょう」

 言いながら、彼は最初に自分の陰になっていた柱に手を触れた。私は息を呑んだ。

「あとは、あらかじめ仕込んでいたワイヤーを相手の両腕に巻きつける。そうすれば針が進むごとにワイヤーによって腕が締め付けられていき、限界点を越えれば自動的に切断され、相手は失血死に至る。この方法なら、針が進む度に勝手に両腕を締め付けてくれるので、その場に居なくても犯行を行うことが可能です。針と小窓の疵は、そのワイヤーによるものでしょう。それからこの時間では暗いので見えないと思いますが、この柱の付近に不自然な染みがあるのも見付けてあります」

「あはは、何それ。染みなんてどうせ経年劣化で起きる変色でしょう。そもそも、さっき言っていた方法で人の腕が切断できるなんて思えないわ。せいぜい血流を止めて腕を壊死させる程度よ。そして壊死では、相手の命を奪う事なんて出来るはずがない。結局、あなたの考えたやり方では人を殺すなんて事は不可能よ」

 私が犯人であるという推理が間違っていると彼が少しでも思うように、嘲笑うような顔を作り、余裕がある振りをしようと努めた。本当は、両脚が小刻みに震えていた。

「そうですね。もし切断できなければ、この仮説は根底から否定されます。ただ僕は、女性の腕ぐらいならこの方法で切断できると思っています」

「それはあなたがそう思っているだけでしょう。それとも、実験でもしてみたっていうの」

「僕はしていませんが、けれど……」

「犯人なら実験しているはずだって、そう言うつもり? それこそあなたの願望よ!」

 彼の言葉を遮り、恐ろしさで押しつぶされそうなのを誤魔化すために声を荒げて反論をした。それでも一向に動じることの無い彼のその能面のような顔が、まるで全てを見透かしているかのように思われ、不気味で仕方がなかった。

「連続動物切断遺棄事件」

「え?」

 彼の言葉に、私は素っ頓狂な声を出してしまった。やはり彼は、全てに気が付いているのだろうか。

「切り裂きジャック事件が起きる前、何匹かの動物が切断されて遺棄される事件があったのを憶えていますか?」 

「……ええ。最近はニュースでも関連性が取り上げられているおかげで、私もそんな事件があったことを思い出したわ」

「世間ではあの事件の犯人が動物では満足できなくなり遂に人間での犯行に及んだとも言われていますが、僕の考えは違います。あの動物切断は、おそらく実験だった。連続動物切断遺棄事件の犯人は、成人女性の腕を僕が言ったような方法で本当に切断出来るかどうか、動物を使って事前に試していたのではないでしょうか? 実際、発見された動物はいずれも胴から上下に真二つになって発見されているみたいです。問題無く動物を胴から切れるなら、それよりも細い女性の腕を切断することも可能だと思います。そして幸い、藤崎さんも楢原さんも、酷い肥満体型やアスリートのような筋肉質ではなかったので、その両腕は野良猫の胴体よりも細かったはずです」

「所詮あなたの妄想に過ぎないでしょう。そもそも、この学園の中で殺人事件があったなんてこと自体に無理があるのよ」

「そうですね。普通なら。そう考えるのかもしれません。けれど僕は、楢原さんの死体が発見された日曜日に、この常盤学園に来たんです。そしてここのすぐ近くに設けられているゴミ集積所の中で、黒色のゴミ袋に入れられている両腕を見付けました。おそらくは楢原さんの腕だと思います。それがこの常盤学園内のゴミ集積所で発見されたということは、少なくともこの敷地内のどこかで犯行があった確率が限りなく高いことを示しています。わざわざ部外者が、腕を捨てるのに学校の敷地内にあるゴミ集積所を利用するとは考え難いですから。つまり僕の仮説が全て正しければ、やはりこの屋根裏部屋で殺人は起こったのだと思います」

 私はしばらく、言葉を失った。まさかあの両腕まで見付けられているなんて。警察の捜査の攪乱を狙ってあの場所に置いていたのが、こんな形で裏目に出るとは夢にも思わなかった。それでも、まだ私の殺人は終わっていない。あと一人。四宮を殺すまでは、こんなところで諦めるわけにはいかないのだ

「そんなものがこの学園にあるなんて、とても信じられないわ。でも、もしそれが本当だとして、そしてあなたの言った方法で犯行が可能だとしましょう。それで、どうして私が犯人になるの? さっき説明した方法なら、この場所に侵入できる人なら誰だって出来る。簡単に言えば、この学校の関係者全員が容疑者になるじゃない」

 私は精一杯に強がってみせた。崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。

「そうです。そしてここで重要になってくるのがアリバイです。そこで、城之内さんに一つ確認したい事があります。先ほど城之内さんは、二人が殺された日の両方にアリバイがあると言っていましたね。それは間違いないですか?」

「ええ、間違いないわよ」

 瞬間、私は取り返しのつかない失態を犯したと思った。今の状況においては、アリバイが寧ろ自分の首を絞めることを、この時に至りようやく悟ったのだ。

「普通ならアリバイがあるから犯人ではないのでしょうが、今回の事件に限って言えば、僕の考えは逆です」

 私は何も言わなかった。いや、言えなかった。彼がさらに言葉を続ける。

「報道によると、藤崎さんの死亡推定時刻は午前一時以降。殺害内容から同一犯であることは間違いがないので、楢原さんの死亡推定時刻も藤崎さんと同じような時間帯でしょう。そんな夜の深い時間に、二つの事件日のどちらにも確固たるアリバイが成立している。それも、殺害に足る動機のある人物のアリバイが。それは、あまりにも都合が良すぎる。ただ、もし犯行日の検討がついているのなら、アリバイを用意することは容易い。そしてそんなことを知り得るのは……」

「犯人しかいない……わね」

 彼が言うよりも早く、私は呟くように答えた。これ以上反論する必要はない。そもそも、アリバイ工作が可能な殺害方法が知られている時点で、最初から抵抗など無意味だったのだ。彼が言った通り、小窓や時針の疵は腕の切断に用いたピアノ線でついたもので、柱の付近にある染みも経年劣化ではなく、藤崎や楢原の血痕だ。そんなことは警察が調べればすぐに判明してしまう。そうすればこの場所は隈なく捜査され、私が犯人だと簡単に辿り着くだろう。私にはもう、逃げ場など無かったのだ。

「そうよ、あなたの考えは正しいわ。あなたが言った通りの方法で、私があの二人を殺したの」

 罪を懺悔しながら、私はその場にへたり込んだ。思わず唇を噛みしめ、自分の両手を組み合わせるように握り締めた。私の右手麻痺の後遺症。それを引き起こした原因である藤崎朋、楢原明日香、そして四宮知花の三人への恨みは、一時も忘れた事なんて無い。考える事を放棄していた時期でさえ、胸の内ではいつも彼女たちへの憎しみが渦巻いていたのだ。だから、殺すと決めた。殺してやった。残りはあと一人だけ。四宮だけであったのに、こんな所で終わってしまった。口の中に血の味がした。手の甲に爪が食い込み、そこから血が出ているのに気がついた。すべてばれてしまったのだから仕方が無いと諦めてみても、唇と両手の力を弛めることは出来なかった。

「私を……警察に連れていく? それとも温情で自首をさせてくれるのかしら?」

 両腕を切断するという残虐な方法で二人も殺害したのだ。逮捕であろうが自首であろうが、死刑は免れないだろう。だから、それは意味の無い問答だ。そんなことは分かりきっている。俯きながらそれでも口にしたその問いかけに、けれど彼は思いがけない答えを返してきた。

「それは、あなたの好きにすればいいと思います。僕は警察に通報する意思は無いですから。そもそも、僕は犯人を警察に突き出したいわけでも、法廷で裁きを受けさせたいわけでもありません。それに警察の捜査がどこまで進んでいるのか僕には知る由もありませんが、この場所と犯行方法さえ突き止めさせなければ状況証拠しかないはずなので大丈夫だと思います。いずれは任意同行くらいあるかもしれませんが、それでもシラを切り通せば逮捕されることもないでしょう。だから、今後どうするかはまだ城之内さんの自由です。このまま警察に自首するものいいですし、ここで犯行を止めるのもいいですし、四宮さんを殺してもいい。そんなことは、僕にはどうでもいいことです」

「どうでもいいって、どういうこと?」

 私は驚いて、彼を見上げた。彼は相変わらず、人間味の欠片も無い、能面のような顔をしていた。

「僕は、罪を犯す人間に興味があります。正確に言えば、そういった人間の心理に。それ以外は、僕にはどうでもいい事なんです。犯人を捜していたのも、直接会って話をしたかったからに過ぎません」

「そんなことをために?」

「僕は犯罪者にしか関心が持てない、いわゆる『普通』という枠から外れている人間です。その僕にとって、あなたのような殺人犯と面と向かって会話するということは、そんなことではないのですよ」

 そう言った彼の(くら)い両の目は、まるで私の中の深淵を眺めているようだった。私は今まで感じていたものとはまったく異なった恐怖を彼に抱き始めていた。

「あなたは、二人の女性の両腕を切り落として殺したのですよね。城之内美紀さん。それは、いったいどんな気持ちでしたか?」

 小さい、けれどはっきりと聞こえる声で、彼が私に問いかけた。その時、私は初めて、彼の中の感情を見た気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ