第十話
伍
本館から別館まではほとんど一本道とはいえ、慣れていない狭山たちは辿り着くまでに大分時間がかかった。無駄に広い敷地に辟易しながら、既に散ってしまった桜が両側に植えられている並木道を過ぎ、二人はやっと別館へと辿り着いた。
狭山と滝上の目の前には、洋風様式で左右対称に造られた、赤が基調の五階建ての建物があった。まるで西洋の教会のようだなと滝上は思った。入口の壁には『常盤学園 別館校舎』と刻まれた金属製の表札が埋められている。
別館の中年の事務員に許可証を翳しながら入館し、二人は五階まで上がった。
五階の一番西側に絵画室と表札のある教室の中で狭山たちは、生徒に絵の指導を行っている様子の清水佑介を見付けた。栗色の短髪で、少しふくよかな体型をしている。
素で威圧感のある狭山が、教室の外から清水に見えるように立った。何名かの生徒と、そして清水と目が合った。狭山が、清水を手招きで呼び付ける。清水も感覚的に自体を把握し、生徒に一言残してから狭山の呼び出しに応じた。
「もしかして刑事さんですか?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、藤崎先輩の事件のことですね」
「話が早くて助かります。では、お話を伺ってもいいですか?」
清水はあっさりとそれを承諾した。煙草が吸いたいということで、場所の移動を願いた。清水が二人を案内したのは、最上階である五階の天井の上にある屋根裏部屋であった。そこは天辺に埋め込まれている大時計の真裏に当たる部屋で、天井を支える幾つかの柱が並んでいる。埃などはほとんどなく、部屋としては良く手入れをされている様子だ。
文字盤にある十二個のローマ数字の部分が透明になっていて、基本的にはそこから入りこむ日光しか光源がないので、周囲はとても薄暗い。それでも清水は慣れた足付で部屋の奥の、文字盤の真裏まで行くと、そこに設けられている文字盤の掃除用の小窓を一つ開け放った。
そして清水は懐から煙草と携帯灰皿を取り出し、そこで一服をした。
「すみませんが喫煙室よりもこっちの方が近いので、ここでお願いします」
「話を聞けるなら、場所はどこでも構いませ」
二人は今までとは違ったタイプだなと思いながら、滝上が事情聴取を始めた。
「では早速なんですけど、先週の金曜日の深夜には何をされていましたか?」
それはある種の定型文になった文言だった。
「金曜の深夜なら、もう寝ていましたよ。僕は平日には美術教師をしていますけど、土日は自宅のアトリエで個人的な美術教室を開いているので、いつも夜更かしはしないんです。あ、美術教室の事は、もちろん学園側に許可を取っていますよ」
感じの良い笑顔を浮かべながら、清水が答えた。
それから、滝上が幾つかの質問をした。しかし、自分たちをすぐに刑事だと悟った清水に丁寧に聴取を進めても無意味だと判断した狭山が、滝上に代わり口を開いた。
「城之内さんの右手の事についてはどこまで知っていますか?」
その質問に、清水の表情が変わった。
「四宮先輩は絶対にないだろうから、もしかして楢原先輩が白状したんですか?」
「それは守秘義務があるので教えられません」
「ああ、そうですよね。すみません。えっと、城之内先輩の右手麻痺の事ですよね。全部知っていますよ。当時の顧問を含め周囲からかなり口止めをされましたけど、あれはその時の絵画部では有名な事件でした」
「清水さんは城之内の絵に心酔していて、彼女のストーカーのような事をしていたと噂があったようですね。それは本当ですか」
「心外ですけど、噂があったのは事実です。でも、僕はストーカーなんて卑劣な真似なんてしませんよ。僕はただ、少しでも城之内先輩の絵に近づきたくて、その為に彼女の事を知りたかっただけです。ただ、正直に言うと城之内先輩には少し失望しているんです。いくら右手の麻痺の所為で全盛期の絵に及ばないとしても、彼女の絵は十分にすごくて価値がある。それなのに満足のいく絵が描けないから画家になる夢を諦めるなんて、もったいない」
その発言を聞いて、ストーカーの件については黒だと狭山と滝上は思った。しかし、今はストーカー事件の捜査ではないので、さらに深くは触れなかった。後で生活安全課に報告して、もし被害の訴えがあれば警戒するように諌言しておこうと、二人は言葉を交わすことなく、アイコンタクトで意思疎通に成功した。
「城之内さんの事に詳しいようなのでお聞きしますが、彼女が藤崎さんを殺すということは有り得ると思いますか?」
狭山が聞いた途端、清水が顔を歪めた。
「城之内先輩はそんな事をしませんよ。彼女の手は絵を描くためだけにあるんだ。人なんて殺している場合じゃない。藤崎先輩は、天罰を受けただけですよ」
言ってから、清水はすぐに元の好青年然とした表情に戻した。
「すみません。ちょっと取り乱してしまいました」
「いえ、気にしないでください。では最後の質問なんですが、もし城之内さんに依頼されたら、清水さんなら藤崎さんを殺しますか?」
狭山のその穿った質問に、けれど少しの間もなく、清水は平然と答えた。
「ええ、殺しますね」
その感情が死んだ両目は、狭山と滝上に、深い狂気を秘めて映った。