婚約破棄の現場で~歌を忘れた小夜啼鳥~
「アリア。放っておくといつもこれなんだからもっと食べなよ。これ、あげるから」
直径20センチほどのガラスのサラダボウルの下に敷かれた白い皿に、烏の濡れ羽色のような髪の少年は自らのトレイから握りこぶし大のパンを置く。
サラダはサラダボウルの3分の2まで入っている。その下の皿にはバケットの薄切りが二切れ添えられていた。
しかし、育ち盛りの少年の目にはほとんど栄養もなく、量も少なく見えたのだろう。
サラダボウルの前に座る銀髪の少女は無表情に少年のやることを見ている。
「・・・」
アリアと呼ばれた少女はパンの追加をやめてもらいたそうに置かれたパンと少年の顔に視線を往復させる。
「サラダしか食べないなんて体に悪いよ?」
少年――カレルの言葉から追加されたパンを食べるしかないと悟り、少女はサラダボウルに添えられたパンに目を落とした。
「・・・」
少女の渋々といった態度にカレルは罪悪感に駆られる。
「意地悪でこんなこと言っているわけじゃないんだよ、アリア。この頃、ずっと小鳥の餌くらしか食べていないじゃん。ちゃんと食べないと倒れてしまうよ。いくら婚約者だからって、デイヴィッド様の為に倒れるなんてそんなの馬鹿らしいじゃん」
父親から受け継いだ少女の白皙の肌は病的な理由から今は青白かった。
ここ一ヶ月の強いストレスに晒されて血の気の引いた顔、よく眠れていない目の下の黒い隈、窶れた頬。髪は侍女が丁寧に手入れをしているのでわかりづらいが生来の張りとこしがない。無表情な顔の中で唯一、感情を表していた琥珀色の目にも輝きがない。
すべては少女の婚約者である第二王子のデイヴィッドが原因だ。
少女――アリアはアルバテス公爵令嬢で、カルッセル国の王太子である第二王子の婚約者である。何故、第二王子が王太子となっているかというと、第一王子の母親が側妃ですらない身分の低いだからだ。いくら母親が王の寵愛を一身に受けているとはいえ、生母の身分の低い第一王子はそれを理由に世継ぎとして指名されていない。対してデイヴィッドは第二王子でありながら正妃である第一王妃の息子なのが王太子となった理由である。
余談だが、王には正妃以外に妃と名の付く女性はいない。つまり、実質的に第一王妃しかいなかった。側妃がいれば第二王妃と呼ばれるのだろうが、通常、側妃は一ヶ月もしないうちに家臣に下賜される。それが元側妃の身分違いの恋人であることから、王は後々まで仲人王と呼ばれることになる。
また、王を支える側近たちも主人に倣って仲人目的の養子縁組をすることがあった。こちらは王が側妃にするには身分が足りない女性が多い。
アリアの父親もまた幾人かの人物を一族の名に加えている。カレルの父親も同様である。というのも、アリアの父親とカレルの父親は共に王の側近たちだからだ。
その縁から二人は幼馴染だった。正確には王子たちも含めた王と側近たちの子女すべてが。
一ヶ月前、アリアの弟ノイシュが学園に入学してきた。
アリアの不調の元凶はノイシュと時同じく入学してきた新入生の少女だった。
まず同学年のノイシュが、そしてアリアとカレルの学年のジェラルドが、そしてカレルの兄ウィリアムと第二王子のデイヴィッドがその少女に心奪われた。
デイヴィッドは幼馴染であるアリアに優しかった。恋愛感情もなく、婚約者とは見られなかったとしても、それなりに良好な関係を築いていた。
子どもだけで過ごした際に大人に黙って木登りをした時、アリアよりも幼い子どもでも登っていたのに、アリアだけは登れなかった。デイヴィッドが手を貸してくれたおかげで登れたものの、そうでなければ一人だけ登れなかったに違いない。
その時にデイヴィッドが浮かべていた笑顔と「お手をどうぞ」という言葉は未だにおぼえている。
デイヴィッドだけでなく、彼の異母兄ジェームズもまた笑って他者に手を差し伸べる性格だったが。
見かけとは裏腹にどんくさいアリアを仲間外れにする男の子たちもいたが、王家の兄弟はいつも手を差し伸べてくれていた。
厳しい躾を受けていたアリアが子どもらしくしていられたのは、父親に王宮へと連れて行かれて王や側近たち、彼らの子どもたちと過ごす時だけだった。
だから、あの時の輝かしい記憶は薄れることはない。
そんな大切な幼馴染であるデイヴィッドがこの一ヶ月、よそよそしい態度をとるようになったのだ。
それまでデイヴィッドは誰にでも見守るような温かな眼差しを注いでいたのに、今はある女生徒以外には興味もないように無関心な目を向けている。
アリアと顔を合わせても迷惑そうな顔をするようになった。今までは様子を尋ねてくれていたというのに。
気分が沈み、食欲の失せたアリアは手にしていたフォークをテーブルに戻した。
「食べるんだ、アリア!」
「・・・」
カレルの言葉にアリアは首を横に振る。銀の髪がその動きに合わせて揺れる。
「食べないと倒れてしまう! アリア、体を壊したら元も子もないじゃないか!」
「・・・」
アリアは無言で席を立ち、小走りでカフェテラスを出ていこうとするのをカレルが追いかける。
「アリア!」
アリアはカフェテラスの出入り口で立ち止まった。カレルの制止があったからではない。物理的に進めないからだ。
カフェテラスの出入り口にはデイヴィッドを始め、ウィリアムやノイシュ、アリアとカレルの学年のジェラルドと問題の女生徒がいた。
「・・・」
驚いたアリアは後ずさり、彼らと背後のカレルの顔を見比べてどうするべきか迷っているようだった。
「アリア。良いところで会った。お前に言っておきたいことがある。私とお前は父の意向で婚約しているに過ぎない。私は愛するこのローズを妃にすることを心得ておけ」
「デイヴィッド様、何を仰っておられるのかわかってらっしゃるのですか!」
デイヴィッドの一方的な宣言にカレルは抗議の声を上げる。
カレルと同じ色の髪の青年――ウィリアムがデイヴィッドの前に進み出る。
「身をわきえろ、カレル」
「そうですよ、カレル先輩。殿下に不敬です」
アリアと同じ色の髪の少年――ノイシュがウィリアムに続いて言う。
ウィリアムとノイシュの言葉にカレルとアリアは困惑する。
王とその側近たち同様にその子どもたちの結束も固く、地位が上の者には様付けをするだけで自由に意見交換をしている。そこに敬語があるのは仕方がないが称号を使うこともない。
つまり、ノイシュの言う不敬とされる物言いをカレルはしていないのである。
「何を・・・?」
「アリア、お前は周りを見下して話しかけもしない。今ではお前に話しかけるのはカレルくらいだ。それにしても、カレルは人形のように表情がないお前のどこがいいのやら」
一つの可能性に気付いたカレルは魔法解除の呪文を詠唱し始める。
学園では授業以外での魔法の使用は禁じられている。王宮魔法使いの長の次男であるカレルはそれを充分に承知した上での行動だった。
「カレルを取り押さえろ!」
ウィリアムがカレルの動きに気付いて叫んだ。
騎士団長の長男であるジェラルドがそれに応えるようにカレルを取り押さえ、カレルが魔法を練りあげるのを中断させる。
「くっ! ――アリア、歌え! 魔法解除を歌うんだ!」
呪文の詠唱を邪魔されたカレルはアリアのほうを向いて叫んだ。
「――!」
目の前でカレルが取り押さえられたことに驚いたアリアだったが、当のカレルの言葉に琥珀色の目に決意を宿して歌うべく口を開く。
「させないっ!」
姉であるアリアより頭半分は大きいノイシュがその手をつかんで引き倒す。
アリアはカフェテラスの床に転んだ。
「痛いっ!」
アリアの真紅の薔薇のような赤い唇から痛みを訴える声が漏れる。
その瞬間、カフェテラスにいた者は口々に痛みを訴えた。それはアリアを引き倒したノイシュやカレルを取り押さえているジェラルドも例外ではない。
口に出さずにはいられない痛みに襲われて立っている者ばかりでなく、ローズのようにかがみこんでいる者もいる。
「大丈夫か、ローズ?!」
デイヴィッドは傍らで痛みに耐えるローズの背中を撫でる。
「・・・大丈夫です。痛みが・・・」
ローズの答えを聞いたデイヴィッドはアリアを睨みつけて叫んだ。
「――アリア、お前は一体、何をした!!」
デイヴィッドだけではない、その場にいた者はカレルを除く全員がアリアに対して畏れや恐怖、忌み嫌う感情を向けていた。
自らの引き起こした現象と向けられる負の感情に血の気の失せたアリアは床に跪いた状態でガタガタと震えていた。
「・・・」
「学園で許可のない魔法使用をしてただで済むと思っているのか?!」
「・・・」
「殿下。アリア嬢は詠唱しておりませんし、このような魔法は聞いたこともございません」
痛みに顔を顰めながらウィリアムが進言する。王宮魔法使いの長の子弟である彼には学園では教えられていない魔法の存在に関する知識もあった。
しかし、この会話こそ、カレルの憶測を裏付けるものだった。
一時的に痛みに襲われていたとは言え、騎士科の騎士団長の長男をカレルでは振りほどくことができない。カレルは取り押さえられたまま叫ぶ。
「アリア! 逃げろっ!」
一瞬遅れて、アリアは立ち上がって逃げようとする。
カレルの言うことに間違いはない。同い歳の幼馴染であるカレルは王がアリアに付けた”守護者”でもある。
「逃すな、ノイシュ!!」
公爵令息は王子の命令に従って姉の手首をつかんで拘束する。今度は勢い余って転ばしたりはしないように抱き留める。
「・・・!」
「諦めなよ、姉様。往生際が悪いよ」
アリアはカレルの顔を見る。カレルは悔しげな表情をしている。打つ手はないらしい。
王子のご英断に従うより道はない。たとえ、魔法―精神操作―に操られている王子の判断であろうと。
「・・・」
「何を諦めるだって?」
カフェテラスの入り口から聞こえてくる男の声に全員の視線が集まる。
「小父様!」
その人物を見て喜色満面でそう言うアリアとは裏腹にカレルは不機嫌だった。
「遅いよ、父さん!」
王宮魔法使いのローブに身を包んでいる黒髪の男は周囲の視線を物ともせずに公爵令息に近付く。
「アリアちゃんを離しなさい」
公爵令息が王子に目を向けると彼は頷く。公爵令息は姉をつかむ手を離した。
アリアは押さえつけられているカレルの傍に行く。
「魔法発動があったので来てみたら・・・何があったんだい?」
「アリア嬢が許可無く魔法を使ったんです」
「精神操作の魔法にかかった兄さんたちがアリアが身分の下の人間と話そうとしないと因縁をつけて婚約解消を狙ったんです」
男の問いかけに黒髪の兄弟は口々に言う。
「精神操作はされていない」
「なら、何故、魔法解除の呪文を中断させたんだ」
「学園での許可のない魔法の使用は禁じられているのは知っているだろう、カレル?」
王宮魔法使いの長の長男が諌めるように言う。カレルはそれを鼻で笑った。
「それが何か? アリアに危険が迫っていると”守護者”である僕が判断した限り、それは適用されない」
「危険なんかなかったじゃないか」
「現にアリアに痛い思いをさせて悲鳴を上げさせたじゃないか!」
王宮魔法使いはサッと顔色を変える。
「アリアちゃんに悲鳴を上げさせたのかい? 何故、そんなことを?!」
「兄さんたちは精神操作の影響で記憶すら失っているんです」
「だから、精神操作はされていないと言っているだろう、カレル!」
「アリアに声を出させようとすること自体が、兄さんたちがいつもの兄さんたちじゃないってことだよ」
憐れむようにカレルは言った。
「そうか。――ところでジェラルドくん、いつまでカレルを拘束しておくのかな? 息子が故もなくそんな姿を晒しているのはあまり見たくないんだけど」
「はい、すみません。イーグルベイ様」
王宮魔法使いの長の指摘で騎士団長の長男が慌ててカレルの拘束を解く。
その間に王宮魔法使いの長は魔法を見る目の呪文を詠唱して辺りを見回す。
「ああ。見事なまでに記憶の改竄と魅了の魔法がかかっているねぇ。発信源はそこの少女。入学前に検査をした筈だから、それから呪いが発生したのかな?」
王太子であるデイヴィッドも魔法の専門家の言葉を大人しく受け入れる。
呪いをかけられていると言われたローズは顔色を失っている。
「そんな馬鹿な! 記憶の改竄に魅了だと?! ローズがそんなことをする筈は・・・」
「だから呪いだよ、デイヴィッドくん。その子がかけた魔法じゃない」
「でも、それなら魔法の発動に気付いて来たということは、このことは前から知っていたってことですか? それとも父さんが見落としていたんですか?」
王宮魔法使いの長の長男は眉を顰めて言う。
「ボクはアリアちゃんの魔法の発動しか監視していないからね。学園での魔法の発動記録などは事件が起きないかぎり、誰も確認しなかったのが事態の悪化に気付けなかった要因かな。とりあえず、魔法解除しておくから」
王宮魔法使いの長は魔法解除の呪文を詠唱する。
魔法が解けたデイヴィッドはアリアが何故、王宮魔法使いの長の監視下にあったのかを思い出した。
生まれつきアリアは感情の篭もる声に魔法が付与されてしまうという能力を持っていた。それは魔法封じを行われていても魔法を発動できる能力だった。更にその能力は声の届く範囲なら効果を発揮できるという、便利な能力でもあった。
この能力の悪用を防ぐという名目で、庶子に過ぎないアリアが正式な公爵令嬢として王太子の婚約者になったのだ。
アリア自身、その能力を無意識に使わない為に感情の統制訓練を受け、声を出さないように厳しく躾けられてきたのは王とその側近たち、そして幼馴染たちは熟知していることだった。
万が一、アリアが声を出して魔法を発動させてしまっても対処できる王宮魔法使いの長が一緒の場合を除いて、アリアは話すことを禁じられている。
だから、アリアが学園で誰とも話さないことは、幼馴染たちにとって何の問題にもならなかった。学園で何らかのトラブルに巻き込まれないように、アリアが話さなくてもいいように王から申し付けられている同い歳の幼馴染で王宮魔法使いの長の次男もいる。
「さてと、アリアちゃんはしばらく王宮で暮らすからカレルは彼女を王宮に連れて行って。カレルもボクと一緒にアリアちゃんの警護で王宮暮らしだよ」
「わかりました、父さん」
「デイヴィッドくんには申し訳ないけど、アリアちゃんを危険に晒したから婚約は解消されるだろうね。王サマはそこのところめっちゃくっちゃ怒るだろうから」
父親の怒りを買うと知ったデイヴィッドの顔色は悪い。アリアを危険に晒したと気付いたウィリアムも同様だ。
それもその筈。王太子や王の伴侶以外でアリアのような異能を守れる地位のものは少ない。王太子であるデイヴィッドがアリアの婚約者にふさわしくないということは、デイヴィッドが王太子としてふさわしくないということでもある。
魔法に操られていたとは言え、結果的に異能を持つアリアの婚約者としてふさわしくないと烙印を押されてしまったデイヴィッドが王太子の座にいられる時間は限られている。生母が正妃だからという理由だけで王太子でいられたデイヴィッドが残された時間で挽回することは難しい。
そして、王太子や王の次にアリアを守れるのは、その異能を制御することのできる存在である王宮魔法使いの長。長男のウィリアムがデイヴィッド同様に今回の件で落第点をとってしまったので、繰り上げてその任に就くのはアリアの”守護者”として何年もその能力の制御に携わってきた次男のカレルとなる。
「!! エルヴィスおじさん!」
「父さん!」
済んでしまったことは元に戻らない。
王宮魔法使いの長は次男がアリアを連れてカフェテリアを出て行くのを見届けると、王子とその幼馴染以外の記憶を改竄し、アリアの異能が発動する前に自分が来たように書き換えた。
こうして、デイヴィッドは婚約者の異能を周知してしまった出来事の為に王太子の座を失い、王は自分のお気に入りの第一王子を王太子にした。
王宮で過ごすアリアは学園や公爵家とは違い、表情豊かで楽しそうな様子を目撃された。すべては自分の異能を制御できる存在である王宮魔法使いの長や自身の”守護者”であるカレルの二人が傍にいるおかげで、話すことも表情を変えることも許されているからだ。
もう、アリアは歌を忘れた小夜啼鳥ではない。
・エルヴィス
王宮魔法使いの長。元ショタ枠。口調はその頃から変わっていないので、外見と合っていない。
・エルヴィス以外の王の側近たち
アルバテス公爵(知的)、騎士団長(チャラ男)、王の乳兄弟(爽やか系ワンコ)と乙女ゲーの攻略対象のような人々。