002
「桐陣は、文化棟の一番奥の部室に居るはずだ」
「ちょっと、俺はまだ受けるなんて……」
「担任命令だ、行け」
明成優の視線が、俺の目を貫通するかの如く鋭い。絶対に逃げられない目だ。そう言えば、誰かが噂してた、明成先生って昔レディースの総長やってたんだよ――なんて話もあながち嘘じゃないのかもしれない。
「神尾。変わらないことに甘んじるな、変わろうとすることに恐れるな。いつまでも、扉の前に立ってても、自分の手で扉を開かない限り、何も変わりはしない。私は自分の教え子が困っている様なら煙草を吸う右手ぐらいなら差し伸べてやる。もう少し、周りの人間を信用してみろ」
「はあ……」
俺は、こういう熱血教師ドラマのような話はどうも苦手だ。俺には、一人でいることへの愛だって、孤高で立ち向かう勇気だって備えているのだから、愛と勇気だけが俺の友達なら、それで良くはないだろうか。
まあ、俺には分け与えてあげる物など何もないがな。
「ちなみ、左手はどういう時に差し伸べてくれるんすか?」
それは、興味本位だった。
「何言ってんだお前。左手は、私から差し伸べるんじゃなくって、相手から差し伸べて貰うもんだろ」
明成優は、握り拳の状態から左手の薬指だけをピンと立てていた。不覚にも凄いと思わされてしまったが、これ程までに余計な事を聞かなければよかったと後悔することが他にあろうか。興味本位での行動は控えよう。俺は、心からそう誓うことにする。
「まあ、とにかく頼んだぞ」
そう言うと、明成優そのまま職員室から出て行ってしまった。俺は、溜め息を一つ吐き、後頭部をポリポリと掻き、半ば強引に押し付けられた部活動申請用紙を手に、仕方なく文化棟を目指すことにした。
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部室は東に運動棟、西に文化棟と東西に分かれている。一応、高校入学オリエンテーションで紹介はされていたが、初めから部活動に入部する気など全く無い俺にとって、部活棟に来ること自体これが初めてだった。
文化棟へと向かう途中、運動場で部活動に励むサッカー部や野球部の姿が目に飛び込んでくる。音楽室からは、吹奏楽部や合唱部の音色が聞こえて来る。
もしも、俺が何かしらの部活動にでも入っていたのなら、どんな未来が待ち受けていたのだろうか。友達も普通に出来て、恋人も出来ちゃったりして、それなりに充実した高校生活を送れたのかもしれないが――もしもの話をするつもりなど毛頭ない。
そもそも、初めからそんな未来など俺の中には存在しないからだ。
そんな未来が存在し無い以上、妄想に浸るなど時間の無駄だ。時間は限られているのだから、違うことに使う方がよっぽど有意義だ。勿論、なんの根拠も無く否定する俺では無い。俺だってそんな妄想を何度としたことか分からない。
一度、妄想を始めるとその妄想はどこまでも膨らんで行った。しかし、膨らみ過ぎた妄想が破裂し現実に引き戻された時、俺は小さく鼻でふっと笑っていた。そうだっただった、これが現実だったと。
そして、俺は今でも覚えているあの言葉。
「気持ち悪い」
偶然、その様子を見ていてた同じクラスの女子に気持ち悪いと本気で引かれていたことを。キモと言う軽いものでは無い。本当に気持ち悪いものと対峙した時にしか出て来ることの無い軽蔑の言葉、気持ち悪いだ。
その日から、俺は妄想と言う負け組の逃げ道を自ら閉ざしたのだ。
そもそも、新しい生活が始まるからと言って、何か新しいことを始める必要性があるだろうか。下手な器用貧乏になるくらいなら、一意専心する方がよっぽど有意義だと俺は考えている。
だから、今までと何ら変わらない生活を送る為に、一人でいることを敢えて選んでいるのだ。もう一度言おう、敢えて選んでいるのだ。ここは、非常に重要なことだ。授業だったら、教科書に蛍光ペンでアンダーラインを引くくらいに重要だ。
群れることを嫌うアウトローな俺は、エブリワンではなくオンリーワンを目指し、一意専心している――言うなれば、孤高の求道者と言うわけだ。
お、なんか格好良い響き。
ぼんやりとそんな下らないことを考えながら、今にも底の抜けそうなみしみしと軋む音を立てる廊下を歩いて行く。廊下の突き当たり、明成優の言う文化棟の一番奥の部室の前まで辿り着く。
その扉には、〝同人堂〟と書かれた左右対称になりそうでならないプレートが掛けられているだけだった。
どうやらここで間違いないようだが、何故語尾が○○部と言う形式で締めくくられていないのか――そもそも、ここがどういった活動をしているのかさえ皆目見当も付かないが、そんなことは俺にはどうでも良いことだった。
明成先生に、半ば強引に押し付けられたこの部活動申請用紙を部室の中に居るであろう桐陣とやらに渡せば、それで俺の役目も御免被るのだから、ここが何部であろうと、どんな活動をしていようと、俺には何の関係ない。
さっさと渡して帰るとしよう。心にそう決め、二度三度と扉をノックしてみる。しかし、中からは返事が無い。何となくドアノブを捻ると、どうやら鍵は掛かっていないらしい。そのまま、ぎいっと軋む音を発する扉を開く。
「失礼します……」
開口一番ならぬ開扉一番。
俺の目に真っ先に飛び込んで来たのは、一人の少女だった。