嘆く魔王の宰相(1)
「魔王様、お仕事の時間です、魔王様──?」
片手で紙の束を抱えながら、宰相は彼の自室のドアをノックする。返事は無い。まさか、という気持ちが湧き出る。
昨日あれだけ言ったのに……?
プツン、と何かが切れた気がした。
先日も、あまりにサボるから縛り上げて天井に吊るしたのにも関わらず、「運命の人がいるのだから仕方なかろう」と魔王は頰を染めてのたまった。
運命の人だかはこの際いいとして、とりあえず大の男が頰を染めても、何も可愛くない。虫酸が走る。
女を追うのもいいが、仕事をやってからにしろ。
求めるのはそれだけである。
仕事だって、大量の懸案事項の内、重要度別に振り分けて、より優先度の高いものを持ってきているのだ。そこまでしても、やつは逃げる。やればできるのに、だ。
そう、やればできるのだ。
腐っても王様。能力はある。最強の魔王の称号は伊達ではない。戦闘力だって交渉力だって書類処理能力だって判断力だって、本当は自分よりも素晴らしいものを持っているのだ。
だから、そう──
「魔王様!?」
ドアを蹴り開けて、入室する。
部屋は空だった。
「また逃げやがったああああ!」
誰か書類を放り投げなかった自分を褒めて欲しい。宰相は結構本気でそう思った。
「よくやるな、三日連続か」
何が面白いのか、ニヤニヤと笑いを含んだ声が背後から聞こえた。振り返ると、未だに見慣れない、そこらの女性にも負けないような中性的な美貌を持った大天使が立っていた。その隣には、背の低い見習い天使が並んでいる。
彼らは、ここしばらく魔王城に滞在している“客人”だ。
表向きの目的は、魔界の視察。
その真の目的は、宰相が魔王に反乱を起こさないように見張り、場合によっては宰相と交渉すること、だそうだ。
──すっごく、疑われている。
自分の心を改めて覗いてみると、疑われる要素はあるような気がするから、仕方ないのかもしれない。
認めてはいるのだ。彼を。現魔王を。
その分、仕事をほっぽって恋にかまける彼を許せないのかもしれない。……いや、恋に溺れる前から許せなかったな、と遠い目をする。
人の髪を見て、健康に気を付けろと言ったりとか(この件は、根に持っている)。余計なお世話である。……だが、確かに最近白髪が増えたような……しかし、苦労をさせているのは誰だ。彼ではないか。というか、彼だ。断言できる。
「ここまで来ると、いっそ才能だ。かの偉大なる魔王殿には、脱獄の才能もあったか」
「ちょっ、脱獄って……! なんでそう余計な一言ばっかり言うんですか、あんたは!」
やけに態度の大きい天使は、常に不敵な笑みを浮かべている。煽りに来たのか止めに来たのか、どちらなのだろうかとたまに疑問に思う。隣にいる大変小柄な見習い天使は、上司天使の物言いに目くじらを立てて怒っている。
どこかで見た光景だなあ、と思わないでもない。どこもこんなものなのか。それとも、どこもこんなもんだぞ、と諦観させることが目的で演じているのか。
「間違っていないだろう。何が悪い」
「はああああ? あんたなあ! もうほんといい加減にしろよ!」
いや、どうも演技ではなさそうだ。
見習い天使の泣き入った声に、宰相は認識を改めた。この子は正しく同志かもしれない。
生温かい目で見守っていると、視線に気付いた見習い天使は、引き攣った笑みを浮かべた。他にどんな顔をすればいいのか分からなかったのだろう。
「で、どうするんだ?」
さしたる興味も無さそうな大天使の言葉に、目の前の書類に視線を落とす。
「仕事して帰りを待ちますよ、どうせ僕では界層を渡れませんから」
帰ってきたら説教するので、その時間も確保しなくてはならない。
朝っぱらからひどく疲れた気分になりながら、宰相は執務室へと向かった。
──どれだけの時間、仕事に打ち込んでいたのだろう。
窓の外が、仄かに薄暗い。あぁもう夜か、とぼんやり思う。
魔王が、「地上界では、朝に日が昇り、夜は日が落ちて、とにかく空の色の移り変わりが綺麗なのだ」と真顔で語っていたのを思い出す。表情は変わりにくいが、目が口ほどに物を言うタイプだ。その瞳がキラキラと輝いていたので、おそらく感動したのだろう。
いいな、と思う。自分も見てみたい。いやいや、注意する側がそんな不真面目なことできるはずがない。魔王が放り投げた仕事を自分まで放り投げたら、いったい誰が拾うというのだ。誰も拾わまい。そうして魔界は廃れていくのだ。
──その未来は、なんとしても避けなくては。
それにしても、なんなのだろうこの重圧は。王ではなく補佐なのに。
釈然としないモヤモヤ感に、机に突っ伏す。
「お疲れだな」
突然聞こえた声に、「魔王様!?」とカバリと上体を起こす。腕を組んだ魔王は、宰相の悲鳴のような声に、うん? と首を傾げている。
「べべべべつに僕はサボっていたわけではなくてですね……!?」
「だろうな。お前はもう少しサボるべきだと思う。俺のように」
「貴方様のようになったら、いったい誰がこの量の書類をこなすと!?」
お前が言うな、の意も含めて非難すると、「その時は俺がやろう」と根本的な解決になっているのかいないのか、いまいちよく分からないことを言う。
それはつまり、宰相が己の仕事──いや本当は魔王の仕事なのだが──をサボったら、その時は自分がやろう、という風に聞こえる。逆説的に、宰相がサボらなければ自分がサボる、と?
というか、できるなら、初めからやればいいのに。ほんとに。
反射的に睨みかけて、落ち着け、と言い聞かせる。これは上司だ、そうだ上司だ。社会には理不尽がたくさんある。これもそのひとつだ。だから落ち着け。
自己暗示を掛けるようにブツブツと呟き続ける宰相の姿に、魔王が呆れた顔をしている。
「だから、お前は真面目過ぎる。……ほら、これでも食べて元気出せ」
目の前にバラバラと置かれたのは、色とりどりの一センチ級の菓子だった。花のような、星のような、不思議だが可愛らしい形をしている。ひとつを摘んで口に含めると、優しい甘さが口の中いっぱいに広がった。
「コンペイトウというらしい」
「不思議な名の菓子ですね」
言いながら、もう一粒口に運ぶ。宰相は、無類の甘い物好きなのだ。
甘味の種類が少ない魔界に比べ、地上界の甘味は種類も豊富だ。
魔王は、ご機嫌伺いの意図もあるのかもしれないが、普段の礼と称して、地上界に足を運ぶ度に、こうして違う種類の菓子を買ってくるのだ。
「甘いです。美味しいです」
「そうだろう。試食したら、お前が好きそうな味だったので、買ってきた」
少しばかり誇らしげに言う彼に、宰相は苦笑する。これだから、仕事をサボりやがってと憎みきることができないのだ。……いや、それとこれとは正直話が別だが。
「茶も飲め」
いつも変に気の利く魔王は、菓子に合いそうな少しばかり苦めの茶を差し出した。ありがたくちょびちょびと飲む。
「まあお前への労りであれば、お転婆娘を連れ戻すことが一番なのだろうがな」
「ぶっ」
宰相は盛大に茶を噴いた。汚いぞ、とあくまで真顔で訴えながら机を拭く魔王の傍らで、ごほげほと咳き込む。顔が赤いのは、その所為だ。その所為に決まっている。
んん、と取り乱したことを誤魔化すように喉を鳴らす。
「な、何を仰るやら」
「俺はお転婆娘と言っただけで、誰と告げた訳でもないが──まあそれはいい──あれだけ露骨に狼狽しておいて、今更隠し立てか? 好きなら好きと素直に認めれば良いだろうに」
「だ、誰があんな暴れ馬!」
ギッと睨めば、魔王は肩を竦めた。
内面を知らなければ、魔王様は気遣いできる人っぽく見える不思議。仕事サボってるけど。
宰相さんフィルター効果?