恋慕する魔王(2)
魔王は、有り金全部を少女に渡した。
彼女は冗談では済まない額の“慰謝料”を見下ろし、「……オレ、こんなには要らない」と困った顔をした。
こんなに貰ってしまっては悪いから、というよりも、これだけ貰ってしまうと後で逆に何かを請求されるのではないかと危惧している表情であったが、“恋は盲目”をまさしく体現中の魔王は、「なんて慎み深いのだろうか!」と感動した。
本当に慎み深い娘であれば、まず全裸のままこんな話をしないだろう。
その後、滝壺から上がった彼女は、さっさと服を着た。捕まえた魚は、魚籠に入れているようだ。
飾り気の無い質素な服装『ボロ布』は、少女には少々不釣り合いであったが、服を悪く言うのは印象が良くないだろう、と魔王は我慢した。いつか服やアクセサリーを贈っても良いなと考えながら、少女の後ろをついていくと、訝しげな顔を向けられた。
「なんでアンタ、オレの後をついてくんのさ」
「それはもちろん、貴方が綺麗だからだ。あとは、貴方のことが知りたい。ついでに、ここが何処だかも知りたい」
魔王は、考えていたことをそのまま口にした。ナンパかよ、と少女は悪態を吐いた後に、不意に首を傾げた。
「ここが何処、って……アンタ、ひょっとして迷子?」
その問いに、首を捻る。迷子とは、現在地が分からず迷っている者のことを指している。間違ってはいなかったので、「ああ、そうだな」と重々しく頷けば、「記憶はしっかりあるんだよな?」と重ねて質問を受けた。
自分のことを話すよりも、彼女のことが知りたい。そう思いながらも口にはできず、軽く顎を引くに留まった。
存外、面倒見は良いらしい。単に“慰謝料”の礼なのかもしれないが。
「俺のことは気にしなくていい。どうとでもなるんだ」
「それは──まあ、そうだろうな」
少女は、上から下まで魔王をジロジロと見た。そんなに見られると、照れてしまう。頬を染めた魔王であったが、少女のその行動は、下心など一切無かった。
「身なりはしっかりしてる。記憶が飛んでないなら、助けを呼べばすぐにどうにかなりそうだもんな」
質の良さそうな服装に装備品。それから顔色ひとつ変えずに大金を差し出したことから、少女は魔王を“それなり以上のクラスにいる者”と認識したようだ。間違ってはいない。
しかし、そうやって線引きされてしまうと、悲しい気もする。
自分が心配せずともどうにかなると判断した彼女は、既に魔王に注意を払っていなかった。眼中に無い、という感じだ。いや、視界にはまだ入っている。ついてくるなよ、と目が語っていた。その冷たい眼差しに、ゾクリと心が疼いた。
これまで、注目されて当たり前という環境にいた魔王には、新しい感覚だった。しかし少女とて、さすがに自分が魔王だと知れば、この無頓着なやり取りもできなくなってしまうだろう。自分の意識は変わらずとも、相手の意識は如何様にも変化するのだ。それが悪い方向への変化だったら、……自分は耐えられずに少女を攫ってしまうだろう。
それは、いけない。
その方法は最後の手段であるべきだと、魔王は本能的に気付いていた。
──さて、どうしたら彼女は自分に靡いてくれるだろう。
魔王は頭を悩ませた。
あの少女が欲しい。指を咥えて別の男のモノになるのを見ている気は無かった。むしろそうなる前に、囲んでしまいたい。
「訊きたいことがある」
「なんだよ」
ついてくるなよモードを崩さないままに、少女は魔王を一瞥した。
「貴方の好みは?」
唐突すぎる質問に、少女は眉を寄せたが、それ以上訝しむことは無かった。別にどうでもいいや、と思ったからかもしれない。“好み”を知られたからなんだというのか、という具合なのだろう。
とにかく、彼女は答えた。簡潔に。
「魚」
その単語を。
さかな。彼女の恋愛対象は魚なのだろうか。いやまさか、そんなわけはない。では大きな魚を捕ってきたやつを好むのか。ぐるぐると悩む魔王に、少女は言った。
「特にこのオーロビー魚はとても美味しい。食べるところが少ないのが難点だけど」
「ああ、食べ物の嗜好か……」
安堵した。それから、自分の訊ね方があまりにも悪かったことに思い当たる。
「なるほど、魚は健康にも良いと言う。結構なことだ。ところで、貴方にとっての魅力的な男性とはなんだろうか」
少女は黙り込んだ。
返すべきか、無視するべきか。その辺りで悩んでいるべきだった。
魔王がへこたれずに再度同じ質問を繰り返すと、面倒そうに口を開いた。
「強い男性が好きだ。特に、剣を扱える人が良いな。あれは格好良い。──アンタ、なんでこんなことを知りたがる?」
「貴方が魅力的だからだ」
間髪入れずに答えながら、魔王はガクリと肩を落とした。
魔王は、剣を扱えないのだ。
いっそ魔王を辞めて、剣に打ち込もうか、という考えさえ浮かんだが、怒り狂って捕らえに来るであろう宰相の姿が浮かび、妄想だけに留めた。ただでさえ今はおかんむりだろう。できれば帰りたくない。
魔王の告白は、あまりにも淡白な口調だったからか、「ふーん」でスルーされた。
少女が住む村までついていって、馬や羊、機織り機などに目を見張り、散々自然を楽しむと、魔王は後ろ髪を引かれながらも、帰るかな、と思い立つ。そろそろ帰らなければ、本気で宰相に殺される。
「また来る」
「来なくて良い」
そのようなやり取りをして、魔王はほくほくした気持ちで魔界に帰った。
案の定、宰相が鬼のような形相で仁王立ちしていた。
その日から、定期的に少女のところへ通った。
魚を捕る時の流れるような身のこなし、どんな場面であろうと堂々とした態度、自分を見る時の冷たい眼差し……どれもが魅力的だった。
運が良いのか、自分が地上界を訪れる時、彼女は必ずと言って良い程、魚獲りに講じていた。裸で。
その肢体を目に刻んでいると、いつも慰謝料を要求された。いつぞや宰相にその話をしたら、「魔王に慰謝料を要求するのは豪胆ですが、裸を見られた年頃の少女にしては、やに寛大な処置ですね」と半眼で言われた。どうでもいいから仕事しろよ、と目が語っていた。
少女に何故裸なのかと訊ねると、水の中を泳ぐのに服なんて着てたら上手く動けないだろうが、と呆れられた。だからと言って見られたいわけではない、と言われたが、そこは聞かないふりをした。
そんなことがありながらも、魔王と少女の間には、徐々に信頼感が芽生えていた。……と、少なくとも魔王は思っていた。
しかしどうやらそれは一方通行な想いだったようである。
ある日いつものように森を訪ねたら、少女は泳いでいなかった。珍しいこともあるものだ、と村に行ったが、村にも彼女はいない。
まさか、口減らしのためにどこかに売られたのだろうか。それとも誰かがあの美しさを見初めて攫ってしまったのか。
前者でも後者でもとりあえず関係者を全員殺して奪い返す。彼女の裸を見た者がもしいれば、そいつは念入りに殺す。
焦って他の村人を捕まえて事情を訊ねる。
──結論としては、どちらでもなかった。
「あの娘なら、勇者一行の剣士様の剣に惚れたとかで、ついていっちまったよ」
全く困った子だねえ、と語る村人の言葉は、右から左へと流れた。魔王はそれどころではなかった。
勇者一行の剣士といえば、あの女狂いの男ではないか。なんということだ!
いや、女狂いでなくとも、あの愛らしさを前にしては、理性を失ってしまうだろう。
これはいけない!
魔王は慌てて、村人に情報を要求した。勇者一行は今どこに?
「さてね。常に移動しているだろうし。……次はマルタ街に行くって言っていたけどねぇ」
「ありがとう」
それを聞くなり、魔王は駆け出した。なけなしの理性が、さすがに人前で空を飛んではいけないと、しきりに主張していた。森に入ると、自身の身体を変化させ、空を泳いだ。
その日、空を大きな影が通り抜けていった、と何人かが証言している。
魔王様、訴えられたら負けます。