2.
それからも桜宮は時々魚屋に姿を見せる。それを楽しみにする俺。
「らっしゃい! 恵ちゃん!」
「こ、こんばんは、三治さん。今日はなにがお勧め?」
「ブリ……って、言いたいとこだけど、恵ちゃんにはこっちのオコゼかな? 安く手に入ったんだ」
「ああ、いいですね、煮付けとか。じゃあ、これください」
「毎度ありっ! 背びれには気を付けてね。まぁ、恵ちゃんには言うまでもないと思うけど」
三治さんの笑顔にデレデレな桜宮。そんなところを見ると、俺の胸はぎゅっと締め付けられる。
と、急に雨が降り出してきた。
「夕立か? 恵ちゃん、恵ちゃん、こっち入んな」
「は、はい……」
庇の下まで来た桜宮は、三治と接するくらいになって顔を真っ赤にしている。
「意外に止みそうにないな? まぁ、しばらく雨宿りしていきな、恵ちゃん」
「困ったな……今日は早く帰らないと……」
空を見上げて桜宮が憂い顔。雨と美少女……。
「よし、佑哉、もうここはいいから恵ちゃんを送ってってやんな」
「はいよ」
「え? いいです、いいですよ。家も近いですし、ちょっと濡れてくくらい……」
「ダメだよ、風邪でも引いたら大変だ」
「そうだよ、桜宮。ほら、入ってけよ」
と、俺は男物の大きな傘を差し出す。
「じゃ、じゃあ、ご厚意に甘えまして……」
桜宮が俺の隣に並ぶ。当然、俺の心臓は早鐘のよう。
「よし、行こうぜ。大丈夫? 濡れてない? 桜宮」
「うん、大丈夫だよ、ありがとう」
「ごゆっくり~」
三治さんが脳天気な声を出す。気を利かせたつもりかよ……。
二人並んで雨の商店街を。肩が接するたびにドキリとする。
「はぁ……やっぱり三治さんは優しいなぁ……」
ぽつりと言う桜宮。今送ってるの、俺なんだけどね。
「まぁ、かわいい女の子には誰だって親切にするよ?」
「そうかな、ありがとう……」
「こういう時、桜宮って謙遜しないよな?」
「えっ! 違うんだよ! これはみこに仕込まれたの。かわいいって褒められたらありがとうって言えって……」
そうやってわたわたされると、腕が俺の身体に当たって……。
「前に野宮の和菓子屋でバイトした時か。頑張ってたよな」
「……うまくいかずに泣いちゃったけどね。あの時は助けてくれて、ありがとう……」
ちょっと恥ずかしげにうつむいてしまう。
あの時俺は、お客を捌ききれずにテンパった桜宮を助けてやった。
レジを代わって奥から他の人を呼んだとかその程度だけど。
店の奥にいったん引っ込んで落ち着きを取り戻した彼女は、すぐに店へと復帰しようとした。
俺が止めたら、「最後まで頑張らないと」と、両拳を胸の前で握りしめて気合いを見せてくる。
それがあんまりにもかわいかったので思わず吹き出したら、「なんかおかしかった」と焦って聞いてきた。
「いや、すげぇかわいかったから」俺が思ったままを言ったら向こうは顔を真っ赤に。
間が持たなくなった俺が帰りかけると、後ろから「高瀬君!」と声をかけてきた。
そして、「かわいいって言ってくれてありがとう!」と、とびっきりの笑顔を。
この満開の笑みが、俺の胸に刻み込まれてしまった。そして今に至る。
「い、いや、野宮に様子見てこいって言われただけだよ。まぁ、俺でも助けになればよかった」
「ホントに助かった。私ってホント駄目な奴なんだぁ」
顔を上げ、雨空を見上げる。長く艶やかな黒髪に見とれてしまう。
「そう? いつも頑張ってるように見えるけど。中学の時から」
「でも、かなりヘタレなんですよ。自分から友だち作れなかったり……」
「好きな人に告白できなかったり?」
「ふえっ!」
目を見開いて俺を見る。口が半開きになってるけど、それがかえってかわいい。
「いや、バレバレだよ。三治さん……だろ?」
「そんなことないよ、そんなことないよ!」
「おいおい、濡れる濡れる!」
後退ったので思わず腕を掴んで引き寄せる。柔らかい……二の腕。
「ゴメン……でも、ヘンなこと言うんだもん」
口を尖らせて睨んでくる。
「でも……そうなんだろ?」
「うう……」
耳まで赤くしてうつむいた。
「言わないで……くれる?」
上目遣いで、恐る恐る。くそっ、こいつなんでこんなにかわいいんだよ。
耐え切れなくなって、目を逸らしてしまう。
「言わない言わない。あのおっさん、調子に乗るに決まってるからな」
「うーん……」
「え? 言って欲しいの?」
「い、いやいやいや、いいです、結構です。今で十分です」
「それもどうなんだろ?」
三治さんはホントは結婚している。まだ奥さんを愛していた。それを……知らないのは残酷な気がする。
今……言うか?
「じゃあ……その……応援、してくれる?」
小首を傾げてお願いしてくる。
「応援?」
「あ……う……、結構、不安だったり……するのです」
そうやって潤んだ瞳で言われると、俺からはなにも言えない。
「いいよ、応援してやる。デートでも仕込んでやろうか?」
「デート! む……ムリですぅ……そんなの、私の心臓が保ちません……」
ぎゅっと、自分の胸の前で両手を握りしめる。
「純情だよね……」
「まぁ、ヘタレなんですよ……」
ヘタレなのには俺も自信がある。
「じゃあ、これからどうするつもり?」
「どうしよ? 想いだけが募ってくんですよね……」
「じゃあさ、俺にメッセージでも送ってよ。想いの内を聞いてやるから。そうしてるうちに勇気が沸いてくるかも?」
「でも……迷惑じゃないですか?」
でも、その視線はなにかにすがり付きたそう。
「まさか、乙女の純情のお手伝いができるなんて光栄だよ」
「じゃあ、お願いします。とても……助かります」
「ていうか、なんでさっきから敬語なの?」
「さ、さあ?」
「なんだそりゃ?」
首を傾げる桜宮に思わず笑ってしまう。
「ふふ、結構ヘンな奴なの、私」
「まぁ、そんな気はしたよ」
「酷いっ! あ、ここだよ、私の家」
「へぇ……」
ここは高級住宅街。桜宮の家も相当大きい、俺んちの倍以上?
「やっぱ、お嬢様だ……」
思わずつぶやいてしまう。俺なんかとは、どうあがいても不釣り合い……。
「え? そんなことないよ。普通の高校生だから。じゃあ、ありがとう」
「お、おう」
桜宮が門をくぐって玄関口まで駆けていく。
「じゃあ、またメッセージ送るね」
「おう! 妄想でもなんでもいいから送ってくれよ」
「も、妄想なんてしないってっ!」
でも、あんなけ顔を赤くするところを見るとしているに違いない。乙女っぽい妄想を。
「じゃあな、また魚屋で待ってるよ」
「うん、今日はありがとう。お話できて、よかったよ」
にこやかに手を振ってくれる。
その友だちに向ける笑顔に、ちょっと胸が苦しくなった。
それから桜宮とメッセージをやり取りするようになった。
『では、これからよろしくお願いいたしまする。片思い中の桜宮恵とは私のことです』
『そもそもなんであいつなの? ただのおっさんだぜ?』
『ええ? 言わないといけない?』
『うーん、これから応援する身としては、聞いておきたいかも』
こういう聞き方はずるいのかもしれないけど。
『うん、みこの家に遊びにいった帰りなんだけどね……。今までずっと素通りしてた魚屋さんをふと見たら、スーパーなんかでは置いてないような魚があったんだ。普通だったら捨てたりするんだと思うんだけど』
『うんうん』
『それで料理好きとしてはすごい興味が出てきたんだけど、私、人見知りですから商店街では買い物ができなかったの。あのテンションだし』
『確かに、うるさいもんね』
『それでまごまごしてたら三治さんが声をかけてくれたんだ。最初は怒鳴るみたいな声で、それで私が震えてしまったら、次はとても優しい声で。怖がらせてゴメンって、照れくさそうに』
『……なるほど。その辺の気は利く奴だよね』
『それでいろいろ教えてもらったんだ。なんていうか、魚に対する愛を感じた。それからあそこに通うにようになったの。そして……いつの間にか、好きになりました……。って、語っちゃった! 恥ずかしいぃぃぃ!』
でも、きっと幸せそう顔をしながら語ってくれたに違いない。
聞かなかった方がよかったかも。胸がちくりとした。
『そっか……。よく分かりました。特にどういうところが好きなの』
『え? う、うーん……』
『言いたくない?』
『あ、でも聞いて欲しいかも』
『言っちゃってください』
『まずねー、あの人の笑顔がたまらないの。爽やかすぎて、私は溶けそうなんですよ』
『確かに桜宮の視線は蕩けてるよ。顔も常に赤いしさ』
『でも、あれって営業スマイルだよね? 誰にでもあんなふう?』
『いいや、桜宮には特別かもよ。いつもマニアックな魚ばっかり買ってくれるのがうれしいみたい』
『マニアック? でもよかった、ちょっとでも特別扱いなら……』
デレデレしているスマホの向こうの彼女が透けて見えそうだ。
『ガンガン行ってみる?』
『ムリですね、ムリです。私、貧乳ですし』
『貧乳は関係ないでしょ?』
『あ、否定なしだ。まぁ、事実ですしね。ああいう身体が立派な人は、巨乳が好きなんじゃなかろうか?』
『どうだろ? 今度聞いとくよ』
『ヨロシクオネガイシマス』
あんなけかわいいのに貧乳なのを気にしてるんだ? 別にいいけどな、俺は……。
『聞いてみた。女の好み』
『ゴクリ……』
『残念、巨乳好きでした』
『ぎゃあああああっ!』
ぎゃあああああっ! ってなんだよ。メッセージだとなんかキャラが違う気がする。
『でも、安心してください。それ以上に色白好きです。よかったね』
『マジですか! よかった……色白でよかった……』
『中学からずっと色白だよね。テニス部だったのに』
『この肌を保つのはとても大変なのですよ。その努力が、今実ったっ!』
『よかったね』
『ということは、肌を見せた方がよい?』
『だね、ビキニとか』
『商店街をビキニで闊歩する女子高生……ヘンタイですよね?』
『じゃあ、短パンで足を見せるとか?』
『なるほど……ていうか、それは高瀬君へのサービスになっちゃうのでは? 足フェチだったよね?』
『よく覚えてるね?』
中学の時、一緒に川遊びした時に自分から言ったのだ。「桜宮さんの足、最高だぜ!」タイムマシーンがあれば当時の自分を絞め殺してやるのに。
『セクハラされましたからね。いつか告訴してやる』
『マジで勘弁してください。で? 短パンは?』
『審議してみます』
次の日、桜宮は短パンで生足を晒して現れた。いちいちいったん着替えに家へ戻った様子。
「おっ! 今日の恵ちゃんはひと味違うねっ!」
「え? え? どこがですか?」
「生足がまぶしすぎてオッサンには目の毒だ!」
「ええっ? そんな、恥ずかしいですよ……」
頬に手を当てて恥じらう。
その日の夜。
『ぐっじょょょょょぶ! 高瀬、ぐっじょぶっ!』
『スルーされなくてよかったね』
『されてたら泣いてたよ。かなり恥ずかしかったけどね』
『俺もいい目の保養をさせてもらったよ』
『あれ? セクハラは一一〇番でいいのかしら?』
『なんで三治さんはよくて、俺はダメなの?』
『私の生足は、好きな人だけのものなのですよ』
かなりヘコんだ。
俺なんかでも恋の話し相手がいるというのは随分心強いらしい。
桜宮は徐々に積極的になっていった。
『今日はさりげにボディタッチだったね』
『げふんげふん、ちょっと腕を軽く叩いただけですよ?』
『感想は?』
『すんごい硬いんですわ。丸太のようとはまさにあのこと。今日は手を洗わずにおこうかかなり迷い中』
『筋肉フェチに目覚めつつある?』
『その可能性を否定できない自分が怖いですね。とにかく黒くて太くて硬くて最高ですわ』
『え? 下ネタ?』
『え? なにが?』
『ううん、なんでもない』
無駄にドキドキさせやがって……。
『??? それでね……作戦を第二段階に移行させたいと思います』
『ほほう、いよいよ……』
『我が軍の秘密兵器。それは……じゃこ天……』
『じゃこ天? かまぼこみたいな奴?』
『そうそう、魚をすり身にして作るんだけどね。我が開発チームはついに他人様に出せるじゃこ天の開発に成功したのであります!』
『おお~』
『これを、三治さんに食べてもらうの。お店で買ったもののおすそ分けなら不自然じゃないでしょ?』
『うん、自然自然』
『それでは、桜宮二等兵、明日突撃いたしますっ!』
『二等兵って一番下っ端だよ? 真っ先に死にそうだけど』
『あれ、そうなの? じゃあ、将軍で』
『うん、将軍で。では、ご武運を!』
『戦果を期待されたし。……高瀬君』
『うん』
『いつもありがと。おやすみ』
そうか、ついに前へ進むんだ、桜宮。
胸が苦しくなったけど、応援したい気持ちの方が強かった。
さて、今日桜宮は一歩前に出るつもりだ。
じゃこ天というのは乙女らしくはないものの、女子力のアピールにはちょうどいいのかもしれない。
店で買った魚をそうやって丁寧に料理してくれたのなら、三治さんも喜んでくれるはずだ。
もうそろそろ来るはずだけど……。
と、店の奥から女の人が出てきた。この家の中にずっといたのかな?
「よう佑哉、紹介するぞ、俺の女房の麗奈だ」
「こんにちは、いつも旦那がお世話になってます」
そう言って、三治さんと同じくらいの年の女性が微笑んだ。
ごく普通の人。桜宮の方が、ずっときれい。まずそう思った。
「麗奈さん……?」
「そう、昨日の夜、戻ってきてくれたんだ」
「仲直り……したの?」
「まぁ、そうね、私も格闘家の妻でなく、魚屋の女房になる決心が付いたってとこかしら」
「へぇ……」
「今日は店の中も手伝ってもらうからな。よろしく」
と、三治さんが離れていく。
ヤバい……。このタイミングでかよ……。
とにかくまずは桜宮を近寄らせないようにしないと。
スマホはロッカーにある。それを取りに行って、通話で……。
「こんばんは、高瀬君」
ああ……今来たらダメなんだよ……。
振り返ると桜宮が立っていた。初めて見るミニスカート姿。
手にぶら下げている紙袋にはきっと、苦労して作ったじゃこ天が入っているのだろう。
どうする? どうすればいい?
「よう、桜宮。あのさ……」
「らっしゃい、恵ちゃん!」
俺の後ろから三治さんが馬鹿でかい声を張り上げた。
「こんばんは、三治さん。なんか、今日はいつも以上に元気ですね」
頬を朱に染めながら桜宮が話しかける。
「おう、分かるかい! 今日はいいことがあったんだよ!」
「おい、三治さん、あんたは向こうへ……」
「へぇ、いいことですか?」
桜宮は目を輝かせて、三治さんから話を聞こうとしている。自分も彼のいいことを共有したいのだろう。
でも、今それを知っちゃいけない……。
「あんた、暑っ苦しいんだよ、向こう言ってろよ」
俺が肩で押してもこの男はびくともしない。
邪魔な俺を腕で退かせると、桜宮に見せたいものを前に出した。
「俺の女房、初めて会うよね?」
「こんにちは、この人の妻の麗奈です。って、お客さん全員に紹介して回る気?」
「いやいや、この子は特別だよ。随分贔屓にしてくれてるからね。俺はこの子のファンなんだ」
「え~、そんなの初めて聞きましたよ~。奥さんはじめまして、桜宮恵です。三治さんにはいつもお世話になってます」
「この人こそお世話になってるようで。まぁ、こんな美人なら、この人が鼻の下を伸ばすのも分かるわ」
「美人だなんて、ありがとうございます。あ、奥さん、これどうぞ。こちらで買った魚でじゃこ天作ってみたんですよ」
「へぇ……あれって自分で作れるものなの?」
「ええ、料理が趣味なんで挑戦してみました。よかったら、みなさんで召し上がってください」
「はぁ、すごいね、恵ちゃん。いつも買ってもらってるばかりじゃなくて、こんないいものまでもらっちゃって」
「うまくいってたらいいんですけどね。じゃあ、今日は……そのハマチのアラをもらえますか?」
「おう、毎度!」
そして桜宮は、いつものように魚を買う。
店を離れたところで俺は追いかけて、後ろから声をかけた。
「おい、桜宮」
桜宮はびくりと身体を震わせて立ち止まったが、こちらを向いてはくれない。
「……ゴメン、来ないで。今の顔は……見られたくないの……」
「……ゴメンなこんなことになっちまって。またメッセージ送ってくれよ」
「……うん、そうする。じゃあ、また……」
だけど、桜宮からのメッセージは届かなかった。
翌日俺から送ってみたら、返信は『ゴメン』との一言だけ。
それ以降は、何を送っても何も返ってこない。
店にも姿を見せなかった。




