丸と角の世界
子供の頃、世界は「丸」でできてるんだろうか、それとも「角」でできてるんだろうか、と考えたことがある。
どういうことか? 例えば包丁の刃は鋭いけれど、顕微鏡で見たらやっぱり尖ってはいなくて丸みを帯びていると思うんである。階段の縁だって遠くから見ると角ばっているけれど、近くに行ってよくよく見るとすり減っていて丸くなっていたりする。一方、どんなに滑らかに見えるものでも、例えばガラスの玉の表面でも、顕微鏡でよくよく見ればギザギザになっているんじゃないかと思うんである。どんなにつるつるな肌でも、すごく小さいスケールで見ればデコボコで穴があいていて、何かが引っ掛かるような角や出っ張りがあるんだろう。
どっちも本当に思える。だから疑問に思った。世界は丸でできてるんだろうか、角でできてるんだろうか?
コンピューターの映像はドットからできている。ドットとは「点」のことだけど、これは基本的に四角だろう。でないとドットとドットの間に隙間ができてしまうから。コンピュータが出始めたころはドットが粗くて、ゲームのキャラもいわゆる「ドット絵」で表されていた。つまり、コンピュータの映像世界は「角」でできた世界なわけだ。完璧な「角」の世界。
いや、でも、コンピュータの画像はディスプレイで表示される。ディスプレイの色の素子は発光する水晶なのかダイオードなのかよくは知らないが、きっと一つ一つどの素子もすっかり同じ形の完璧な「角」とは限るまい。基本的な形は四角かもしれず、細長い六角形かもしれず、八角形かもしれないけれど、自然界で完全無欠の完璧に同じものがそろうなんてことがあるだろうか。みんな同じ素子に見えたとしても、角っこの原子がナノより小さいレベルで欠けていたりして、それぞれの素子はやっぱりすり減っていたりするんじゃなかろうか。そもそも光自体が周囲の原子分子によっていくらかでも散乱するし、それは微小な映像の滲みになるはずだ。人間の肉眼には感じられないほどの滲みかもしれないけれど。だとすれば、やっぱりコンピュータ画像とはいえ、どこかにボケや丸みや歪みがあるはずだ。
たとえコンピュータの描く直線や四角でも、それが表示されるときにはやっぱりどこかボケて曲がって歪んでいるはずだ。CPU内部での処理においては完璧な直線や四角だったとしても、それはイデアであって、個々の事象として具体的に世界に生み出されるときには多少なりとも歪んで不完全なものとして現れるわけだ。僕らの頭の中に完璧な四角があるとしても、僕らが手で紙の上にそれを書くときには絶対に完璧には書けないのと同じこと。じゃあ、やっぱり現実世界は「丸」でできているのだろうか?
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どんどん追及していくと、原子は丸いのかそれとも角があるのか、素粒子は丸いのか角があるのか、というところに行きつく。こうなるとこの「丸」か「角」かの問題は俺の手に負える問題ではすでにない。あとは自分の妄想の中から好きな考えを選びとるしかないわけだ。
量子のことを勉強したことがある人ならご存知の通り(かな?)、原子や素粒子には形がない。少なくとも俺はそう思ってる。形とは「ちゃんとした明確な境界のあるもの」なのだろうが、量子的なものにはそれは通用しない。形がなければ丸も角もない。
物質や質量というものは、形があるように見えて、実は形のないものの集合なんだ。形ある物を小さく小さく見ていくと、やがて分子や原子やその中まで見ることになる。実際には見るのにも光を使うわけだから、光自身の作用で状態が変化するし、光の波長より小さなものはその光では見えないし、不確定性原理があるわけだからそもそも確率以外で状態を知ることは不可能だという。ただひとつ、原子の内部や素粒子の姿が我々の知っている触れば堅い「物質」のようなものでないことは確か。そもそも物質を構成するものなのだから、物質であるわけがない。
そこで俺がもつ原子や素粒子のイメージを子供っぽい邪道なイメージで表すのならば、何らかの不定形なもやもやしたエネルギーがぐじゅぐじゅくすぶりながら存在しているといった様だ。下世話な表現だけど、小さい小さいわたぼこりのようなものとか、漫画のキャラクターが手のひらから出すような小さくてギュッとつまったエネルギーの塊みたいなのとかそういうもの。邪道と称するのは、ここから根拠のあるまともな科学的議論はしませんよ、という言う意味だ。この先は妄想でしかないのでご承知を。
多分、原子にしろ素粒子にしろ、エネルギー授受の全くない「静」の状態では存在できないのではなかろうか。渦と同じで、動きがとまるとそのものが消えてしまう。(俺は生命もそうだと思ってる。)何らかの動きが継続してつづいているからこそ存在できる。止まっているように見えてもエネルギーを秘めてくすぶっているからこそ存在できる。
僕らがボールや何かを触って形があるように感じるのは、僕の指の先のもやもやくすぶっている原子と、触った先のボールの表面にあるもやもやくすぶっている原子が反発しあうからだ。そこには実は「物質」などなく、「反発する力」しかない。否、実は物質とは「反発する力」のことなのだ。物質に質量を与えるのも、そういう類の力のやり取りだ。つまりこの世界には、僕らが感じている物質や、光などの電磁波や、重力などというものは厳密には存在しない。全てが量子の世界の「力」が様々な形をとって現れて、同じく「力」で形作られた僕らの感覚器官にドミノ倒しのように波及しているわけなのだ。
そうであれば、丸とか角とかいう次元の問題はなくなる。万物を形作るエネルギーや力のやりとりや運動がもしイデアから生まれるなら、僕らの体も、家も、机も、食器棚といった物質も、光や重力さえも、ゆがんだ個々の事象でしかないわけだ。ゆがんでいるのは悪いことじゃない。なぜなら全てがゆがんでいるからだ。ゆがんでいないものなど存在しない。ゆがむようにできている。パソコンのディスプレイのピクセル一つ一つが、よくよく見ればどれも微妙にゆがんでいるのと似たようなものだ。
誤解しないでほしいのは、ここで俺の言う「イデア」というのは単に賢い先人達の言葉を拝借しているだけで、俺自身が彼らがこの言葉に与えた定義を理解しているわけではない。俺がその言葉からイメージするものを自分で定義しなおしているだけだ。そして俺の「イデア」とは人の意識の産物を指しているものではない。人間の脳とて原子や素粒子で形作られているわけで、イデアとはそれらも含めて万物を形作る根本の設計図であり、物理法則のことだ。決して霊的かつ人格的なものから生み出されるものではない。それに人の目に見えるものでもない。
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話を少し変えよう。もっと日常的な話だ。ときどき「場所」ってなんだろう?と考える。例えば、生まれた場所、生家とか。もし、生まれ育った家の建物がまるまるそっくり別の場所に移動したらどうだろう。そしてその周辺もまるごとそっくり移されて、同じ町の界隈が別な場所に作られたとしたらどうだろう。そこは別な場所なのかもしれないけれど、生家そのものと変わらないんじゃないだろうか。居心地のいい自分の部屋がそのままそっくり別な場所へ移されたとしたら、その部屋の中にいる限りはやっぱりそこは自分の居心地のいい部屋なんじゃないだろうか。
おかしなこと言ってるなと思われるかもしれない。でもさ、地球は実際には同じ場所には留まらない。太陽の周りを一年かけて動き続けているわけだから、太陽から見て同じ場所には一年に一度しかいられない。それ以上に太陽系は銀河のまわりをまわっているし、銀河もどことも知れぬ方向へと動き続けている。どこに座標軸と原点を置くかにかかわってくるが、基本的には地球は絶対に同じところに留まってはいられない。
それなのに、僕らはなぜいつも同じところにいると感じるのか? 毎日動き続けているはずの家に帰って、いつもと変わらぬ家だとなぜ思っていられるのか。
それはやっぱり、同じ物質に囲まれているからだと思うんだ。いつもと同じ「家」という物質に囲まれているから、たとえそれが座標的に違う場所だとしても、同じ場所だと感じる。つまり、結局は「場所」とは物質、もっと広く言えば環境なのだと思うんだ。
自分があると思っているところにいつもと同じ形のテーブルがあり、テレビがあり、台所があり、寝室がある。いつもと同じくらいの気温と光がある。いつもと同じ人がそこにいる。それが家ということだ。たとえ、座標が違っても。
極端な話、いつもの家やいつも使っているコップが、同じ原子分子でできている必要もない。たとえそれがバラバラに壊れたとしても、全く同じ素材で同じ形で、原子レベルで完璧に再現されたものであるなら、それは同じ家で同じコップなんだ。生き物でも同じ、原子レベルで全く同じ体、同じ脳を持っているなら、それは同じ人である。
ということは、同じ場所、同じものであるという条件は、同じ物質であるという必要さえない。必要なのは全く同じ構造、全く同じ設計、偶然による変形も含めて全く同じ質と形ということである。それさえ満たされれば、物質など無意味なものだ。
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ただし、全く同じ構成、全く同じ質と形を再現するのは、ただ一つの小さなコップでさえ、それこそ宇宙論的にきわめて低い確率でしかなしえない。全く同じ構成、同じ設計図というのは、すなわち同じイデアから生まれ、イデアを完璧に再現することだ。でも、イデアから発する個々の事象は常に歪む。もしかするとその歪みは確率論的に計算できるものかもしれない。計算はそれ自体がイデアだから。でも、ある特定の事象、何億何兆かわからない原子からなるただ一つのコップを完璧に再現するのは、たとえ宇宙の年齢が二百億年や三百億年あろうと不可能に近いだろう。だから、いま目の前にあるもの、それは今この場にしかないと思った方がいい。それは、宇宙開闢から百数十億年かかって作り上げられた、たった一つの事象なのだ。
「あなた」という事象も個々の事象の一つでしかない。「私」という事象も個々の一つでしかない。それも、恐ろしく再現の難しい事象なのだ。