第三部
魔物から逃げてきた俺達は、1つの高層ビルに逃げ込んだ。
そこには小さな窓がいくつかあり、仄かに橙色の光が差し込んでいる。
「ところで、なぜ野郎2人で1つの部屋にいなきゃならんのだ」
「まあ、そう言うな。常識的に考えてここにいるのがベストなんだから」
嗚呼、どうしてだろう。この異常な世界で『普通』とか『常識』とか言っている奴を見ると、苛立ってしまう。
――プツン、と俺の中の何かが切れたような音がする。
まるで噴火のように、俺の中で渦巻いていた感情は一気に溢れ出す。
「普通に普通って言ってるけどさ、普通に普通って、普通、その時に応じて変化するものじゃないのか。普通に、普通とは物事が継続して慣れ親しんだことだから、普通にお前は普通では――」
「わ…分かったからもう止めてくれ。さすがに俺も、ずっとここにいようと思ってはいないさ」
「別に、それならいいんだよ」
この言葉は一般論から抜粋したのか、それとも、彼の意見によるものか。
どちらにせよ、常識に縛られてしか行動しない彼の進歩の証だろう。
「て、偵察にでも行ってくるからくつろいでいてくれよ」
余程さっきの言葉が効いたのか、彼は青白い顔をしながら出ていく。
一方、俺の苛立ちは収まったようで、冷静さを取り戻しつつあった。
「そういえば、黒猫達は今頃どうしてるんだろうな。もう、家に着いたのか? それとも……」
暗い性格の女と、能天気で神出鬼没な情報屋。
その2人の姿が殺された紅葉と重なって、脳内に浮かぶ。
「もう、あんな思いはたくさんだ……」
黒猫は、『俺の使える方』の方が難しいと言った。それなら、簡単な方が使えてもいいんじゃないのか。
俺は剣を逆さに持ち、床に突き立てる。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
紅葉を救おうとしたとき、俺はなぜ麻痺から回復したのだろうか。
いや、あれは回復したというよりも、その過程をすっ飛ばしたと言っていいんじゃないのか。
「『回復』なら、あの時段階的に効果が切れていたはずだ。全身が一度に回復したということは、つまり……」
それは、回復ではなく『復元』である。
超能力とは、欲望が具現化したものだ。裏を返せば、自分の欲望を理解できなければ使えないということになる。
「俺はもう、それを知っている」
右手を柄の上に置き、脳内で超能力のイメージを構成する。
徐々にではなく段階的に過去と現在の街を重ね合わせていく。
「俺はなぜ、人を避け続けた。俺はなぜ、この世界に来ようと思った。紅葉が死んだ時、俺はどうしたいと思った……」
素直になれ。自分の心に正直になれ。他人のことなど考えず、自分のことだけを考えろ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は自分の心の奥底を見つめ続ける。
「俺は……世界を壊したい。壊して、壊し尽くして、その後に残った『何もない世界』ってのを見てみたい」
その言葉に呼応するかのように、黒剣は輝きを失っていく。
そして、黒剣の代わりに、そこには砕けた金属が転がっていた。
「夢じゃ…ないよな」
それは黒剣の元の姿である、果物ナイフの残骸だ。
だが、それを取ろうとすると、ナイフは黒剣の姿に戻っていた。
「もう一回だ。こんなんじゃ終われねぇ」
再び、脳内でイメージを構成する。
黒剣は存在を失っていくが、さっきとは違い、随分と速度が落ちている。
そして、さっきの能力発動と同じ時間の経過後、元の黒剣に戻っていた。
今、俺の中には後悔と徒労感が渦巻いている。自分の能力に期待していた俺が恥ずかしかったからだ。
「まあ、能力があっただけマシか……」
俺は自分にそう言い聞かせ、剣を取る。やはりそれは幻覚ではなく、元のままの重さや大きさがあった。
「一瞬だけなんて、随分とセコい真似するんだな。神様ってのは……」
一瞬だけ、幻を現実に変える能力。それじゃ、どっちが幻か分からない。
その能力のために長い時間を使うなんて、非効率的だ。とても実践に使えるレベルでは到達しないだろう。
「そうでもないんじゃないか。仮にも、お前の知り合いを生き返らせたんだから、そこだけは感謝してもいいだろ?」
「感謝なんてするかよ。もし感謝するとしても、高橋子猫一個人にだけだ」
どうやら偵察を終えたらしい川上は、なぜか紅白の服を着て、身の丈ほどの袋を担いでいる。
「……随分と早く帰って来たんだな」
「まあ、すぐそこで収穫があったんでな。こいつは早く見せたほうがいいんじゃないか?」
彼は白い袋を俺の前に差し出す。
「なるほどな。それで、その収穫ってのは何なんだ?」
「……なあ、そろそろこの格好にツッコミを入れてくれないか? 流石に羞恥心という名前の化け物に負けてしまいそうだよ」
「ツッコミを入れろと言われてもな……いつもと変わらない格好じゃないか」
俺も流石に気付いてはいる。
気付いてはいるが、このまま慌てふためく川上を見ているのも面白いだろう。
「お前の目は節穴か? この格好を見ろ。紅白の服に、もぞもぞと動く白い袋だ。これを不自然と言わず何と言う」
「どこが節穴だ。釘の打たれた藁人形に決まってるだろ?」
「勝手に呪うんじゃねえ!」
川上は袋を置き、後方に跳ぶ。
「それじゃあ、呪われる前に退散させてもらうぜ」
彼は後ろ向きのまま、窓から落下していった。
まあ、自分から落ちていったということは、何かしらの死なない手段があるのだろう。
「やっぱり、異常だよ。お前は……」
「まったくです」
「…………」
袋の中身は、袋を切り裂いて外に飛び出す。
「拉致・監禁など、常人ができることではありません」
そいつは魔物化を解くと、腕を組ながら窓を睨み付ける。
「紅葉。やっぱりお前、金髪野郎の代わりに俺を殺しに来たのか?」
「そんなわけないじゃないですか。お別れを言いに来ただけです」
「本当か?」
「……ええ、もちろんです」
俺が紅葉を疑うのももっともだと思う。
なぜなら、今、彼女は金髪野郎の手下であり、川上が『すぐそこで収穫があった』と言っていたからだ。
『異常事態』というのは、人格さえも変えてしまうほど強大な物質だ。
そうでなかったら、あいつは窓から飛び降りたりはしない。
そう自分に言い聞かせ、深く嘆息する。
「あなたは、私が生き返った時、残念でしたか? それとも、嬉しかったですか?」
「どちらでもないさ。強いて言うなら、『怒り』かな」
「『怒り』…ですか」
「……ああ」
紅葉は、少し残念そうに遠い目で空を見る。
「嬉しくないとか、悲しくないとか言えば、嘘になるさ。ただ、2回も紅葉を死なせなければいけないなんて、残酷すぎると思わないか?」
「残酷、ですか。確かにそうかもしれませんが、私は今、幸せですよ。父親を失ったことはショックでしたが、私のことを想ってくれる人に看取られて死ぬことができるのですから」
「お前、覚えて……」
お前は、どうしてこんなに死ぬことを割り切れるんだよ。
生きたいとは思わないのか?
「お前はそれでいいのかよ。死んでももう生き返れないんだぞ」
「……いいわけ、ないじゃないですか。私だって、沢山美味しい物を食べたいですし、可愛い服だって沢山着たいです。他にも、したいことは色々ありますよ。でも……」
願いが叶うこの世界で、少女は人のためだけにそれを使う。
必死に感情を押さえ込む彼女の瞳からは、一筋の涙が流れていた。
「でも、隆春さんたちが覚えていてくれれば、それで十分なのですよ」
紅葉は落ちていた黒剣を俺に握らせ、切っ先を胸に当てる。
「操られてやっている……なんてことはないよな」
「……これは、正真正銘私の意思です」
「何か…何かあるはずだ。全員が助かる方法が……」
「しっかりしろ、バカ春。ちゃんと私を成仏させなさいよ」
紅葉は、黒猫の口調を真似して急かす。
やっぱり、いつまでも覚悟を決めない俺に苛立ったのだろうな。
だけど、しょうがないだろ。
いくら俺の性格が腐っていても、人を殺すことに覚悟を持ったことなどないのだから。
「なんて、運命だ……」
生き返ったにも関わらず、すぐに死ななければならないなんて、悲劇的としか言えないだろう。
紅葉はもう、元の世界で生き返る権利すらないというのに……
死ぬことが決定された運命を前に、俺はひれ伏すことしかできなかった。
「早くしないと、また操られてしまうのです。『友達の遺志を受け継ぐ勇気』というやつですよ」
「まったく、こんな時までゲームかよ」
「ええ、それが私ですから」
紅葉は笑いながら、剣をより深く自分の胸に押し当てる。
不思議と、傷口からは血液が流れ出ていない。
「本当に、これでいいのか?」
「はい、お願いします」
彼女は剣から手を離し、両手を広げる。
俺が断らないと信じきっているみたいだ。
「……ありがとう」
俺は、剣を握る手に力を入れる。
剣は肉を切り裂く鈍い音を立て、紅葉の体を貫通した。
「さようなら」
少女は最後まで笑顔を絶やさず、この世界から消えた。
そこには、1本の黒剣だけが虚しく転がっている。
「なあ、川上。あの金髪野郎は見つかったか」
「ああ、バッチリだぜ」
川上は俺を待っている間に着替えなかったのか、サンタクロースの格好のままだった。
「……助かったよ。これで心置きなく、あいつを殺せる」
人間の命を弄んだんだ。このまま終わらせていいわけがない。
「爪で引き裂くのもいいな。いや、四肢を剣で切断して恐怖を植え付けてから殺すってのも……ああ、だめだ。妄想が止まらない」
今の俺を見ている人がいたら、誰もが必ず『壊れている』と言うかもしれない。
だが、それは仕方のないことだ。
『恐怖』ってのは、人間の性格を変貌させるほど強大なものなのだから。
「それじゃあ、とりあえず『殺人ツアー』にでも行ってみるか?」
「殺人じゃねえよ」
そう、これは『殺人』ではなく一方的な『殺戮』なのだから。
「それに、そんな名前じゃ誰も参加したりしねえよ。俺たち以外はな」
「違いねえ。それじゃ、いつも通り言ってみるか?」
「ああ、そうだな。『あれ』を言わないと始まった気がしねえ」
そして、俺達は恒例の一言を叫ぶ。
「「さあ、ショータイムだ!」」