第三部
「やっぱり、ここからスタートか」
目の前に広がっているのは、最初と同じく生い茂る草木だ。
だが、完全に同じだと思ってはいけない。どの程度情報が欠損しているか分からないからだ。
「まあ、用心するにこしたことはないな――っと」
不測の事態に備え、剣と似たような長さの枝を拾った。まあ、強化した場合、何もないよりはマシになるのだろうが……
「それより、さ。壊れすぎじゃないのかよ、これ……」
本来なら道のあるはずのそこには、何もない。いや、正確には、蠢く暗闇がそこにあった。それは徐々に増大し、周囲を飲み込んでいく。内部がどうなっているのか分からないが、とにかく触れない方がいいのは確かだ。
「やっぱり、目に見えるタイムリミットってのは、厄介――って、うわあぁぁ――!」
周囲が黒一色に染まっている。どうやら、足元の金属らしき物体のせいで、不運にもそれに飲み込まれてしまったらしい。
というよりも、ここまで続くと、さすがに作為的すぎるだろ。
「――っと。先に、優先事項の解決だよな」
たとえ俺だけが消えていなくても、安心はできない。現に、俺は墜落し続けているのだから。
ここで魔物化が発動しなきゃ、俺は……
「今度、こそ!」
一撃に望みを賭けつつ、腕を突き出す。
簡単に壊れそうな強度ではあったが、発現には成功したらしい。半透明の黒い爪が、落下速度を緩めている。
「ぎりぎりセーフってやつかな、これは。――って、な……なんだよ、これ」
爪は、周囲の暗闇を吸収して黒く染まっていく。
他人から能力を貰うなど、本来なら有り得ないはずだ。もしかすると、この世界は……
「まあ、分かったところで意味もないんだが――な!」
消えていく崖のせいで落ちるわけにもいかない。
ひとまず、全力で登っていった。
「さて、と。今までと同じってわけにもいかないんだよな。少しくらい考えないと」
この世界の破損具合にもよるが、基本的に、同じ行動からは同じ未来しか生まれない。
つまり、俺の場合は、行動を変えなきゃ死ぬってことだ。
「唯一の救いってのが、これじゃな……」
森から降りてきたことの収穫と言えば、暗闇に落ちることになった原因だけだ。
それは手の中で、鈍く輝いている。
「元黒剣がここにあって、『ライド』が使える以上、能力者や魔物がいる可能性が高い。おまけに――いや、心配だけじゃ、何も変わらないよな」
これ以上予想外の出来事が起こらないように祈りながら、重い足取りで例の場所へ向かった。
例の場所――そう、俺が黒猫と初めて会った場所だ。時間制限が二つもある以上、のんびりとしているわけにもいかないからな。
「おい、少年」
殺気を纏った声の持ち主は、俺の首筋に刃の先端を当てている。
男と比べると声の音程が高いことや、刃の当たる範囲が狭いこと、若干遠くから声が聞こえたことから、槍のような形状の武器を持った女性と判断できる。
「すぐに立ち去れ。これから、ここで大切な用事が――」
「『ノア』って世界の創造だろ。知ってるさ」
「いったい、どこまで……」
「どこまで」か。やっぱり、こいつは全部知っているんだ。今回の件に関わっていることは、間違いない。それなら……
「そりゃあ、全部に決まってるだろ?」
手先に力を込めたのか、少し血が流れ落ちる。だが、それは問題じゃない。俺は今、首を斬られるかもしれないのだから。
力を込める瞬間、そこにはブレが生じる。それを利用し、刃の進行方向から外れた。
「……ったく。今日は厄日か?」
目の前には、『ノア』に来る前に寄ったコンビニの店員だ。制服の特徴である紅白の縞模様に、金色の長髪だから、それで間違いはないだろう。
「なんで、あんたがここにいるんだ? 大人しく、コンビニの店員でもしていればいいじゃないか」
ここは、紅葉の記憶の中だ。関係のない人間は、たとえ出てきても一定の行動しか出来ないはずじゃ……
「まったく、つまらないマネしやがって」
破損した情報を抜き、登場人物の人格情報を入れる。そうすれば、動かすことが可能だ。
とはいえ、人の記憶を壊してでもすることなのか、この訓練ってのは。
「さすがに、生まれたばかりの存在にだけは負けたくないな」
剣を振りぬいた時、そこに女の姿はなかった。まるで存在自体が消失したかのように、周囲の殺気が霧散する。
その後の考えられる行動とすれば、前後左右や上下からの攻撃だ。もし、殺気が消えたのではなく、感じることができないだけだとしたら……
振り向きざまに剣を構えると、案の定、女は上空にいた。
「さあ、来――い……」
「キャンセル」
またもや、女の姿は消失した。どういうことだ、こいつの能力は、俺達を閉じ込める以外の能力があるのか。
「残念だったな。この範囲じゃ、私は無敵だ」
恒例のごとくするであろう反撃を、俺は出来なかった。平衡感覚がうまく調節できず、意識が遠のく――そんなのが、頭部への打撃でもたらされたからだ。
俺には、薄れゆき意識の中、そいつを睨みつづける事しかできなかった。
「うぅ……」
肌寒い風邪に煽られ、ふと、二度寝の衝動に駆られる。だが、時間制限がある以上、重い瞼をあけるしかないな。
夕日に照らされた桜の花びらは、儚いと言うよりも、華やかに見える。
そこに来たのは、二人の少女。一人は自身なさげに俯いており、もう一人は、満面の笑みを浮かべている。
彼女たちは、俺の記憶の断片に存在している。だが、もしそれが間違ってないのなら、ここは……
「夢、だよな……」
夢を覚えていたことなんてないが、少なくとも、これ程意識がはっきりしているのは初めてだと判断できる。
どちらかといえば記憶の中の記憶と言った方がいいだろうが、詳しくは目覚めるまで分からない。
「……もう、勝てる気なんてしねえよ」
これ以上、誰とも戦いたくない。誰も犠牲にしたくないし、犠牲になりたくもない。
ほんの一瞬。それも、反撃出来ないほどの圧倒的な力の差を見せられては、勝てるなんて微塵も思えない。
「本当に――な――の?」
俺が見えてないのか、少女達は歩みを止めず向かってくる。いや、もしかすると、目の前で急停止ってことも……
「――って、おい。嘘……だろ」
そんなことはなく、彼女達は、より一層速度を上げ始める。その際、姉の方の肩と接触したのだが、まるで空気にでも触れているかのように、すり抜けた。
ここで、俺の推測は確信に変わった。
「とある条件下で発現する情報、か。人の思い出を壊してまで入れるべきかねぇ……」
確かに、子猫の能力を使えば可能かもしれない。だが、だからといって『紅葉』という存在を殺してまでしていいことじゃない。
「後で文句を言ったって、問題はないよな」
予想外の予定が舞い込んできた所で、そろそろ現実に立ち返ろうか。この考えを裏づける根拠が、後ろにいるはずだから。
「間違いない。あの封筒は……」
目の前には、過去の俺と二人の少女。その手の中には、青白い文字の浮かんだ封筒だ。
「……うぐ、あぁぁっ!」
まるで滝のように、記憶が流れ込んでくる。情報処理が追いつかず、意識が持って行かれそうだ。だがまあ、そのおかげで、遠くて話が聞こえなくても問題はない。
『本当に、こんなこと――』
『抽選によって犠牲を決めるというのも――』
『人殺しのない世界を――』
『私の、名前は――』
「……そうだ、俺は……」
記憶の流入が終わるにつれて、俺の意識は深く沈んでいった。
「ぐるうぅぅ……」
今度は、嗅覚を刺激する香ばしい匂いで叩き起こされた。
ほどよい弾力のある球体、その上で踊る鰹節や青のり――それらを連想させ、腹の虫を刺激してくる。
「――っ」
さっきの戦いの影響か、四肢の先端までうまく命令が届かない。
「随分と遅いお目覚めですね、バカ春さん」
あまり動けないのを知ってか、少女はあえてそれを持ち、近づいてくる。これには、多少の悪意を感じざるをえない。この嗜虐性から考えると、あいつと血の繋がりがあると考えてしまうのは俺だけだろうか。
「た……頼む、黒猫。その――」
「断固、拒否します」
「ちょ、そんな即答しなくても……」
「当然ですよ。部屋中に響いていましたから」
「…………」
もちろん、それは腹の音だろう。やはり、確信犯だったらしい。それに、「黒猫」って単語を否定しなかったって事は……
彼女は優越感に浸りながら、それを頬張る。ここで悔しがってはいけない、平静を保つんだ。
「なあ、黒……いや、琴音。あんたが『ノア』を創ろうとしている理由は何だ。そこに、お前の意思はあるのか」
以前聞いた話を思い起こすと、悲劇の少女として捉えられてもおかしくない。だが、今回はそれで納得するわけにはいかない。意思の所在と時期によっては、『悲劇の少女』が一転、『狂気の少女』となるからだ。
「……ノアの方舟――略称『ノア』は、殺人のない世界。それが本当なら、私は、喜んでそれを受け入れようと思う」
「そんな……」
言葉なんてものは、それが認識され、個人の中で定義付けられたから生じるのだ。と、いうことは……
「認識さえされなければ、『殺人』なんて言葉は生まれない。だから本当は、殺人が『起こらない』のじゃなくて、殺人が『認識されない』のだと知っていたんだよな」
「…………」
「やっぱり、知っていたんだな」
こいつは……いや、琴音は、それを知っているからこそ、一人で終わらせようとしていたんだろう。だから、この世界を壊すことに必死になっていたんだ。
「あの……一つ、お願いしてもいいでしょうか」
彼女の見つめる方向には、一つの写真立てが飾られており、そこには、姉妹が笑顔で肩を並べている。今の敵対関係からは想像もつかないが、昔はそうでもなかったんだろう。
「俺は殺す側の人間だぞ?」
たとえ他人が仲を取り持ったとして、良好な関係が続くわけがない。二人の間を取り持つことができるのは、当事者だけだ。
それが分かっているのか、琴音は申し訳なさそうな顔をする。
「え……っと、違います。あの……もし、『ノア』が完成してしまったら、そして、姉がその中に入ってしまったら、その時には――」
彼女は意を決したのか、拳を握りしめ、深呼吸をする。
「その時には、姉を殺してください」
「ちょっと待て。確かに『俺は殺す側だ』と言ったが、実の姉を、そんな……」
「そのために、ヒントをあげているんじゃないですか」
思い当たるのは、渡された空の白い封筒。不完全ゆえに、俺に『事象の上書き』なるものを与えたらしい。まあ、半分も正しく使えていないか……
だが、それを使えても意味がない。一瞬の溜め時間のせいで、殺されるのだから。
「……ふぅ。人間は『発言』を発現する生き物なのですよ?」
彼女は大きく嘆息すると、なにやら意味の分からない言葉を残し、背後の暗闇へと消えた。
「……ま、後でわかるか」
もう一度そこに落ちたくはないから、考えるよりもまず、ゆっくりとした歩調で脱出した。